人生で最大の試み 2
不安だった。ハウエルズがちゃんと、言ったとおりに側にいてくれるだろうか、勝手に消えたりしないだろうか。重い気持ちを抱えながら、マリーは研究室に足を踏み入れる。
そうして、毎日毎日、必死に観察と変化を書きとめた。いくつものフラスコを同時に並べて、その中をたゆたう水分に目を凝らす。成果の出ないまま一日を終え、ジュディの家へこっそり向かい、ハウエルズがちゃんといることに心から安堵する。それが一週間繰り返された。
その翌日に、変化は起こった。
時刻は夕方で、久しぶりに晴れた日だった。
外には雪が降り積もり、暖炉がなければ凍えてしまいそうな、張りつめた空気のなか、外から差し込む、透明なオレンジ色の光に照らされて、フラスコの中が揺れる。
「……出来た?」
つぶやいて、よくよく見る。
小さな小さな、豆粒ほどもない大きさの人が見えた。記録にあるより遥かに小さい。これでは、彼の小人の声など聞こえないのではないか、と思って、唇をかんで考えた。
だが、その悩みはすぐに解決された。
頭の中に、机をひっかいたような音がしたからだ。
《お前が、我を作ったのか?》
「……え、喋った?」
マリーは驚いて、思わず訊ねていた。すると、豆粒ほどの「それ」は、馬鹿にしたような笑い声をあげた。体はものすごく小さいのだが、マリーには耳の側でわめかれているくらいの音量があるため、非常に耳ざわりだ。
顔をしかめると「それ」はどこかあざけるような口調で言う。
表情の確認が出来ないので、声で判断するしかないのがはがゆい。
《何だ、我に用がないのか? であれば、早々に滅びるとしようか?》
「ま、待って! お願いよ、知りたいことがあるの」
《であれば、訊くがいい。ただし、答えられることと答えられぬことはあるし、我が与えるのはあくまでも知識のみであり、奇跡ではない。そこを履きちがえるな》
小さな全知……それが彼の小人の別名だ。
マリーは、激しい動悸を感じて、深呼吸する。早く訊かなければ、と思うのに、体は言うことをきいてくれない。必死の思いで、現状を説明してから、問う。
「それで、そうなってしまった魂を分離することは出来るの?」
《結論から言うならば、どちらも生かすという条件がある限り不可能だ》
小人の言葉に、マリーは落胆して肩を落とす。
《そもそも、魂というのは三層構造になっているのだ。すべてが存在してはじめて、それは魂としての意味を成す。最も表面にあるのが、肉体と魂を結び付ける表層。その後ろにあるのが、肉体を動かし現世の記憶や自我を有する中層。さらに奥にあるのが、その魂自体が発生したときの原初の物質。すべての肉体の記憶や経験を有する、存在の核となる深層。すべての魂を持つ存在が同じものを持っている。そして、ひとつの肉体にはひとつの魂、これが絶対原則だ》
小人は淡々と語る。それは、マリーも薄々考えていたことだった。
「では、今のハウエルズの状態はどういうものなの?」
《おそらく、その悪魔が食らった魂の核がひとつ、消えずに残ってしまっていたのだ。悪魔という存在は、肉体を持っていたとしてもそれはかりそめであり、魂そのものの存在だ。その核は、魂にこびりついているだけであったところを、お前が肉体を与えたことで育ってしまったのだろう。お前の言う人間の心を持った存在、その魂は核のみであり、表層と中層が存在していない。なのに核はふたつある。しかし、魂は三層構造でなければ安定しない。つまり、どちらかの核しか生かせないのだ》
「何か、方法はないの?」
すがるような思いで、訊ねる。小人はどこかあざけりを含んだ調子で笑う。
《相変わらず人間は愚かなり。危険をおかし、自身が犠牲を負うことでしか望むものは手に入らないということをわかっていない》
マリーは、その言葉から、ふいに希望の匂いを感じ取った。
「それはつまり、私が何か犠牲を払えば出来るということ?」
《そうだ。だがその行為はお前を一生縛り、自身で伴侶や死を選ぶ自由を失くす……》
「教えて、教えて下さい!」
マリーはフラスコをつかんで叫ぶ。中の液体が、とぷりと揺れた。
《おい、丁寧に扱え。訊き出す前に我が消えるぞ……ああ、変わらぬこの儚さ。ようやく外の世界を見られたと思えばもう終える。ものを知っているがゆえに、お前たちより儚いのが悔しい》
ぼやくようにつぶやいた小人は、言葉をつづけた。
《お前とその者が魂を共有すれば良いのだ。その代わり、お前は体をふたつ持つこととなり、相手が死ねばお前も同時に死に、相手と距離が離れすぎても死ぬ。場合によっては喜ばしいことだが、場合によっては恐ろしい拷問にもなりうる状態だ》
「私にとっては、何の問題もないことです。むしろ、願ったり叶ったりだわ」
《そうか……それでは、魂縛の儀式を行い、その後に魂離の儀式を行え。それぞれの儀式を行う図式は霊王術書の六百八頁に載っているだろう》
小人の言葉にマリーは感極まり、涙を浮かべた。
あった。方法があった。ハウエルズを生かす方法が。
それだけで、もうなにも言うことはなかった。
「ありがとう、ありがとうございます! 私が、なにかあなたに出来ることはありますか?」
《そうだな、出来る限り長くここに置いて欲しい。我は知りたい、全て知りたい、世界をながめ、人をながめ、物質をながめていたい……我の寿命は半年ほどだが、扱い方によってはすぐに消えてしまう》
小人の並べた言葉に、マリーは考えた。
それはおそらく、この研究室に置いておけば叶うことだろう。けれど、誰に託せばいい? クリスは、あまり好まないような気がする。リサは、まだ怒っているから、話も出来ない。ジュディでは門外漢だ。だとすれば、クリスしかいない。
「わかりました。出来る限り半年あなたが世界をながめられるように配慮します」
《そうか。では、我は少し眠る……》
そう小人が告げると、頭の中からひっかいたような音が去る。
マリーは、すぐにフラスコの前に「ホムンクルス錬成に成功。生存中」と書いた紙を置いた。誰かが中身を捨ててしまったら困るからだ。
それから後片付けをはじめた。早くしなければ夜になる。
明日。すべては明日だ。そう決めた瞬間、ふとした思考の隙間をぬって、不安がそっと忍びこむ。
もしも、万が一、小人の言ったことがうそだったら?
マリーは首を左右に振った。今は、小人の言葉を信じて進むしかない。
結果は、やってみればわかることだ。明日図書館に行こう。その前に、ジュディに訊ねてみなくては。「霊王術書」とはいかなる書物なのか、マリーには全くわからなかったからだ。
とにかく、ここを綺麗に片づけて、ハウエルズに会いに戻る。そして、彼に説明をする。もしかしたら、彼も何か知っているかもしれない。
マリーは、数日前から持ち出しはじめた、数少ない自分の私物をまとめ、床を掃き清める。濡れた布で台を拭き、ホムンクルスの宿ったフラスコ以外の器具を洗う。少しずつ、日が傾き、室内が暗くなった頃、マリーはそっと研究室を出た。
ドアのプレートにはめこまれた「マルガレーテ・ヘイスティングス個人研究室」の紙を抜き取り、てのひらの中でくしゃくしゃに丸める。
それからもう一度室内を見渡してから、マリーはきびすを返した。




