人生で最大の試み 1
ためこんだ思いを吐きだしたい。
怒鳴り散らして、なんでこんな思いをさせるのか問い詰め、謝るまで許してなどやらない。そう思うのでなければ、気がおかしくなりそうだ。
マリーはそう思いながらも、唇を固く引き結んで、衝動に耐えていた。
「今日もいないな、あいつウソついたのかな?」
「それは、否定できませんね……悪魔ですから」
距離を置いた場所で、クリスとジュディが言った。あれから、一週間がたとうとしている。なのに、ハウエルズは全く姿を見せなくなってしまっていた。
研究の方は、気味が悪いくらい順調だ。クリスも少しは手伝ってくれるし、朝や夕方にはジュディも一緒にいてくれる。リサはあれから口をきいてくれなくなってしまった。
時刻は夜だ。手もとのランプだけが唯一の光源である。やわらかなオレンジ色の光が、暗い廃墟を少しだけ温かみのある場所へと変えてくれているが、マリーの心の中は嵐が吹き荒れていた。
「仕方ない、今日は帰ろう」
今日も、の間違いだろうとマリーは言いたくなったが、クリスに八つ当たりしても何の意味もない。クリスは何も悪くないのだから。苛立たしげにため息をついて、マリーはうなずいた。
「そうね」
痛みを押し殺して、外に出ようとしたマリーは、ふと前方に影が揺らいだのを感じて、顔をあげた。そして、大きく目を見開いて、口をあけた。
「……あ」
ハウエルズが、いた。
マリーは少し後ずさったあと、言いたいことが多すぎてのどがつまってしまう。
「マリー……?」
彼は、ひどく驚いた顔をしてマリーを見やる。その目が、今にも泣きだしそうに見えた。ハウエルズは手を伸ばして、まるですがりつくようにマリーにもたれかかり、強く抱きしめてきた。
彼の唇から、震えた吐息があふれて、耳に、首筋にかかる。
心の中を、どうしようもない安堵が満たす。マリーは震える声で訊ねた。
「無事で良かった……今まで、どこにいたのよ」
背中をさすりながら、ランプを手近なテーブルに置き、改めて自分に抱きついている大きな体を見ると、マリーは異変に気づいた。
ない。アレックスに殴られたはずの傷も、魔法陣で傷ついたやけどのあとのような傷もない。
こんな短期間で治るような傷ではなかったはずなのに。
驚きに目を見開いていると、ハウエルズの唇から、苦しげな声が低く響いた。
「……お願いだ、マリー、俺を……俺を殺してくれ」
心臓が、大きくはねた。
「な、に……言ってるのよ」
「人を、食らってきた」
マリーは殴られたような衝撃を感じた。後ろのふたりも、息を飲んだ音が聞こえた。ひどい耳鳴りがしている気がする。
どうりで、傷が治っていたはずだ。マリーは両腕で自分より大きな体を力いっぱい抱きしめた。
この気持ちが伝わればいい、と思いながら。
「そんなこと言わないでよ……今、あなたのために出来ることをやってるのに。人と悪魔と、ふたつの存在に分けられないか調べてるの、だから、、結果が出るまでは絶対に自分から死ぬようなことはしないで。お願いよ。あなたに消えられるなんて、私には耐えられない」
マリーは懇願するように言う。彼の苦しみを考えたら、マリーもつらい。けれど、彼が消えてしまうほうがもっと嫌だった。
今の彼は、人が人を食らわなければ生きていけない状況になってしまっているのだ。
早く、早く解放してあげなければ……彼の心が壊れてしまう。せめて、研究している時間以外を一緒に過ごせればいいのだが。ここに住むことは、マリーには出来そうもない。
「ねえ、クリスにジュディ、どこかあまり治安が悪くなくてすぐに借りられる部屋を知らない?」
マリーは、すがるような気持ちでそう訊ねた。
「部屋ですか……そうですねえ、あ、そうだ! でしたら私の家に来て下さいよ。結構広いし、開いてる部屋もたくさんあるので」
「……いいの?」
「はい! ハウエルズ様をかくまうんでしょう?」
明るく答えてくれたジュディに、マリーは思わず涙ぐんでしまった。
「ありがとう」
「いいえ、気にしないでください。そもそも、私が勝手にマリーさんの研究物を拝借しちゃったのがいけないんですから」
ジュディはそう言ったが、マリーはそれでも感謝の言葉を繰り返した。
それからマリーは、クリスに手伝ってもらいながらハウエルズを廃墟から引っ張り出し、ジュディの家へと向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ジュディの家は内科医をしている。比較的裕福な中流の家だ。貴族を多く患者に持っているらしく、自宅はとても大きい。彼女の言った通り、使われていない部屋がたくさんあった。四人は裏口からこっそり入り、一旦ハウエルズを部屋に落ち着かせてから、改めて訪問という形をとった。
マリーは特に歓迎された。
なにしろ、自分ではあまり気にしていなかったが、マリーは貴族令嬢なのである。
相談事があるので滞在していくと告げたら、喜んで了承してくれた。
軽く夜食も頂くことができ、マリーは本当に感謝しか出来ない。その日だけは夜も遅かったので、クリスも一緒に泊まっていくことになった。
マリーはあえて、ハウエルズと同じ部屋で眠ることにした。
寝台に横たわったまま、呼吸音しかさせない彼を見て、心が痛む。ジュディに借りた夜着姿で、隣の寝台へ歩み寄ると、顔をのぞきこむ。
容姿の変化はさらに顕著になってきている。
顔は、優しげなものから、どちらかというと鋭い印象に。髪の毛も、色が黒褐色に変じている。声と目が違うのは最初からだったが、マリーはこちらの方が確かにハウエルズらしい、と思った。
マリーは、精神的に参っている彼を見て、自分も同じ部屋で休むから、と告げた。すると、ハウエルズは困惑したような顔になった。
「部屋は……別々の方がいい。俺は、俺がどうなるかわからないんだ。気づかないでマリーを襲ってしまうかもしれない」
「……別に、かまわないわよ。それより、今のあなたからは目を離せないもの」
言いながら、ハウエルズの横たわる寝台に腰を下ろす。そっ、と手を伸ばして、目にかかった髪をかきわけ、目を見る。
(私は最初から……この目に魅了されていたのかもしれない。だから、悪魔としての彼に支配されなくてすんだのかもね)
そう思ってほほえむと、ハウエルズが顔をゆがめた。
「何で、側にいてくれるんだ? あんなに魂食われるのを嫌がってたのに」
「そうね、なんなのかな。自分でもはっきりとはわからないの、ただ側にいたいから」
静かに言って、マリーは笑う。
「こんなに静かで落ち着いてるあなたはらしくないわよ。初めてのキスを奪っておいて、いまさら私から離れたいだなんて、許さないから」
「許さなくてもいい。むしろ、許してくれないほうがいいんだ」
「……何があったの? 教えて、お願いよ」
問いながら、マリーはハウエルズの手をとって、その甲を頬に押しつける。ハウエルズは、痛みをこらえるような顔をして、ため息をつくと、言った。
「俺は、人殺しをしたんだ……俺を、売り飛ばそうとして、廃墟に押し入ってきたやつらがいた。俺は、そいつらをそそのかして悪事に手を染めさせ、悦楽の底まで導いて、背徳行為をすすめ、決定的な間違いを犯させて、警察に捕まって絶望していたところを食ったんだ……、なあ、おぞましいだろう?」
ハウエルズの顔が自虐的な笑みに歪む。
「そうね。でもね、それをしたのはあなたじゃないの。あなたと魂を同じくしている悪魔がそうさせたのよ。だからね、私は分離させようとしているの」
「そんなの、無理さ」
「ええ、わかってる。でも、やるだけはやらせて。それでもだめなら、一緒に死にましょう」
そう言ってやると、ハウエルズの顔が驚愕と怒りをないまぜにしたようなものになる。
「本気で言ってるのか?」
「本気よ」
「あの教授とはどうなった……俺は、邪魔しないようにしていたのに」
彼が苦痛から吐きだした言葉に、マリーは微かに口を開いて、震えた。やはり、ハウエルズはそんなことを考えて行動していたのだ。彼の気持ち思うと、恐ろしく胸が痛む。
「もう、終わったのよ。今の私には、あなたしかいないの……だから、私はあなたを死なせたくないし、死ぬなら一緒よ。ねえ、どう言えばあなたは私から逃げないと言ってくれるの?」
つぶやくように言うと、なぜか勝手に涙が頬を伝った。
ハウエルズは、つらそうに顔を強張らせたまま、マリーがつかんでいた手を動かした。マリーは手を放して、彼の好きにさせる。その手はマリーの頬にふれると、ゆっくりとさするように上下に動く。その撫で方が優しくて、どうしようもない気持がこみあげた。
「どうして……俺はこんな形で生まれたんだろうな。ちゃんとした人間だったら、素直に喜べたのに」
「喜んでいいのよ。受け入れてくれれば私は嬉しい……お願いだから、黙って消えたりしないで」
「わかったよ、それが望みなら俺はそうする」
ようやく、彼はそう言ってくれた。マリーはほほえんで、体をかがめて自分から口づけた。初めて、自分から相手を求めて動いたのだ。
この身体は自分が作ったものだけれど、今は違う。マリーが心から願った、自分ひとりだけを見てくれる恋人になったのだ。
触れると温かくて、ちゃんと存在している。
ハウエルズの手が、頬を離れて首筋を伝い、腕を伝い落ちていく。
眠くなってきたのだろう。
「おやすみなさい」
マリーは囁くように言った。ハウエルズは微かに口端をあげて笑うと、目を閉じる。
明日から、また戦いだ。マリーは、
不安のこびりついた心のまま、ロウソクの火を静かに吹き消した。