イーディスの来訪 2
リサは思いきり顔をしかめた。
その顔にはまるで〝不快〟の二文字が書いてあるようだ。
「アレックスを訪ねて来たのですが、こちらから大きなお声がしましたものでつい。そうしたら、彼のことが話題になっているようなので気になってしまいましたの。もし迷惑でなければ、わたくしもお話に加わってよろしいかしら?」
「よろしくないわよ、あなたには関係ない話なんだから。教授に会いに来たのなら、こんなところに寄り道せずに早くその顔を見せてあげればいいじゃないの?」
リサがつっけんどんに言う。
クリスは怯えた表情をして、部屋の隅へこそこそと逃げていく。マリーもここから逃げ出したい気分だった。なんでこんなことになるのだろう。今日から実験を開始するつもりだったのに。これでは無理そうだ。
「わたくしはあなたには訊いておりませんわ。それで、よろしいかしら?」
マリーに向けて問いかける。愛らしい顔には、冷たい笑みが浮かび、まるでマリーを絞め殺したいと思っているかのようだ。
「は、はい。どうぞ」
小声で返すと、リサが舌打ちした。マリーは猛獣二匹の前に放りだされた小鹿みたいな気分だった。
「ありがとう。それでは質問させていただきますわ。さきほど、アレックスの結婚がどうの、と仰っていたようですけれど……それでは、兄の言っていた、あなたと婚約した、というのは本当のことなのですか? 今日はそのことを訊きにアレックスを訪ねてきたのですが」
イーディスはやや憔悴しているように見えた。少し前に見たときより痩せている。流行の可愛らしい小花柄の服装に包まれているので、余計に痛々しい。おそらく、ショックだったのだろう。もしかしたらそのことで、アレックスを問い詰めにきたのかもしれない。
ということは、マリーは彼女にとっての朗報をこれから告げることになるのだ。そのことに対して、胸が重く痛む。だからといって、何かが変わるわけでもない。起こったことは元に戻らないし、戻りたいとも思えなかった。ただし、それを口にするには気力が必要だった。
マリーは数回こっそり深呼吸をし、なんとか気力を奮い起こすと、言う。
「……いいえ。おそらく、破談になりました」
イーディスの顔色が一瞬で変わる。
「マリー!」
リサの咎めるような声が飛ぶ。
「まだ教授とは話をしていないんでしょう? だったら、決めるのは早いわよ!」
マリーはリサの言葉に首を横に振る。それから、力を込めて言う。
「いいえ、おそらく彼は許してくれない。私も、そんな卑怯なことは出来ないの、ごめんなさい。リサ、本当にごめんなさい」
「なんてこと、もう知らないから!」
リサは顔を赤くし、そう言い捨てるように叫ぶと、勢いよく出て行ってしまった。
マリーは悲しみに胸が痛んだが、何度かまばたきを繰り返して涙を追い払う。応援してくれたのに、その逆の行為で報いてしまったのだ。
「……それは、本当なのですか?」
「はい。私が愚かな行いをしたせいで、彼に嫌な思いをさせてしまいました。ですので、おそらくそうなると思います」
マリーがはっきり言うと、イーディスはしばらくうつむいてから、笑った。
「そう、やはりそうよね。アレックスが、わたくし以外の女性と親しくなれるはずがないんだわ。彼のことを本当に知っているのは、わたくしだけですもの」
どこか、狂気のにじんだ笑いだった。マリーはただ、じっと彼女を見る。
「そうよ、だからあなたが何をしたにしても、最初からアレックスはわたくしのもの。なるべくしてなっただけ、だからあなたは全く気に病む必要なんかありませんわ」
イーディスは、優越感を含めたいたわりの言葉を、悦楽の表情で並べた。マリーは、その言葉に傷ついた。早く、ここから去ってはくれないだろうか。そんな思いで、絞るように問う。
「他に質問がないのでしたら、教授に会いに行かれたらどうです?」
イーディスは喜色のにじんだ表情でうなずいた。
「ええ、もちろん……ああ、あなたもお忙しいのですものね、ごめんなさい。でもわたくし、どうしてもあなたに聞いて欲しいお話があるのよ。少しでいいから時間を下さらないかしら? ほんの少しでいいの」
「何でしょう?」
マリーはこれ以上彼女と話をするのが嫌で、ややつっけんどんに答える。
「アレックスがどうして、あなたと結婚したいと考えるようになったか、ちゃんとこうやって向き合ってみてやっとわかったわ。あなたは、アレックスのお姉さまに良く似ているのよ」
イーディスの言葉に、マリーは首をかしげる。
「いきなり言われてもわからないわよね。彼のお姉さまはね、自害したの」
「えっ!」
声をあげたのはクリスだ。イーディスは特に気にする風もなく、テーブルの側にやってくると、粗末なイスに腰掛けてマリーと並んだ。
「お姉さまは、当時まだ学問としても技術者としても異端であった錬金術師に恋をしたの。彼はもともとアレックスの家庭教師をしていてね、その縁でお姉さまと知り合い、お互いに恋に落ちたのよ。もちろん、ハースト家は由緒ある貴族の家柄、許されるはずもないわ。でも、彼は必死に認めてもらおうと頑張ったの」
イーディスはそこまで一気に語ると小さく息をき、すぐに話をつづける。
「その当時、お姉さまには婚約者がいたわ。心からお姉さまを愛していた彼は、錬金術師の青年を異端者だと告発したの。そのせいで、彼は国外追放されてしまった。そして外国で、彼は病を得て死んでしまったのよ。絶望したお姉さまは自害してしまわれたわ……だから、アレックスは誓ったの。決して恋などしない。恋は身の破滅を招くから、と。どのみち、ハースト家は兄が継ぐのだから自分は結婚などしなくてもいいのだし、と言ってね。本当に良い方だったのよ。彼のお姉さまは。アレックスはお姉さまを愛していた。彼女は、あなたのように決して自分のことを優先しない、強くて優しいかただった」
イーディスは、じっとマリーを見ながら言った。
マリーは、アレックスがなぜあれだけかたくなに婚約や結婚を恐れていたのか知り、悲しくなった。本当ならこんな形ではなく、アレックスの口から直接聞きたかった。それでも、容易に心の傷をさらせないと考えた彼を責めることは出来ないだろう。マリーは、どうしようもない思いでうなだれた。
「わたくしは、ずっとそんな彼を見てきた。近くにいて、恋とはそんなものじゃないと教えてあげたくてたまらなかった。けれど、代わりにあなたがやってくれたのね」
イーディスは穏やかに言う。
優しい声で。毒を含んだ言葉を。言われてすぐに心に突き刺さるのではなく、後で痛むような傷を与える言葉だ、とマリーは思った。そのまま言わずに放っておけばマリーが一生知る必要のなかった情報を、わざわざ教えて、後悔させる。
リサが彼女を嫌がる理由がわかった。
「後はわたくしが引き継ぐわ、どうもありがとう。もし、なにかわたくしが力になれることがあれば言ってね?」
そう言って、聖女のような笑みを浮かべる。
マリーは彼女の言葉を無表情で聞きながら、言った。
「なら、ひとつお願いします」
「なにかしら?」
「ここで、私たちが話をしたこと、教授の過去を知ってしまったことを黙っていてくれませんか?」
「どうして?」
「私たちが知ったことを、教授は快く思わないはずです。特に、私には知られたくなかったはずです」
そう言うと、イーディスは納得したようにうなずいた。
「ああ、そうかもしれないわね。いいわ、言わないでおくわね」
「ありがとうございます」
礼を言ったが、自分でも心がこもらなかったのはわかる。イーディスがそれに気づいたかはわからない。けれど彼女は嫣然とほほえんで立ち上がる。
「時間をとらせてしまってごめんなさいね。お話を聞いてくださって嬉しかったわ。わたくしはこれからアレックスに会うけれど、彼を責めなくて済みそうよ。それじゃあ、ごきげんよう」
イーディスはそう言うと、優雅に身をひるがえして出ていった。マリーはほっとしたが、同時に胸にじくじくした痛みが残ったことを感じた。
「……嫌な女だな、マリー、大丈夫か?」
嫌悪を隠しもせずにクリスが問う。
「平気よ。でも、教授が気の毒といえば気の毒かな」
「そうだね、と言っても僕たちにはやりようがないし、気にしても意味ないよ。さて、と、掃除も終わったことだし、僕は一旦自分の仕事に戻るよ。夕方にはちゃんと迎えに来るからさ」
クリスは肩をすくめて言った。こういうとき、彼のさっぱりした態度は救いになる。
「うん、いろいろごめんね。夕食はおごるから」
「お、やった! じゃあ僕は行くけど、絶対にひとりで行くなよ? あいつのねぐらがある場所はめちゃくちゃ治安が悪いんだから」
「わかってる」
マリーが笑うと、クリスはしばらく疑わしげにしていたものの、やがて諦めて出ていった。
ひとり研究室に残されたマリーは、自分の頬を叩いた。
「さあ、ぼんやりしないの! やるわよ」
今はどんなに痛くても傷ついても、立ち止まっている訳にはいかないのだ。後で、思う存分泣けばいい。その後で、再び立ち上がれるがどうかは疑問だったが、今は、忙しくしていることで気がまぎれる。それだけが、マリーにとっての救いだったのだ。
他のことは、集中するとともに頭から完全に追い出す。すると、心にかかっていた霞も靄もきれいに晴れて、頭がクリアになる。
それから夜までのあいだ、マリーは集中を切らすこともなく工程表を書き、材料を集めて過ごした。
おかげで、イーディスの言葉は思い出さずにいられたのだった。