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ある女錬金術師の試み  作者:
episode 17
49/58

人として、悪魔として

(あの女を食らいたいんだろう? お前は悪魔だ、契約なんてくそくらえだ! とっとと魂を汚して、堕として、食らっちまえよ、回復するには、それしかないぜ?)

 心が哄笑をあげながら、甘い蜜をちらつかせる。

(そんなことは出来ない。マリーは、俺を信じてくれた。自分の人生を台無しにしてまで、かばってくれたんだぞ!)

 そう。わかっていた。彼女が、あの教授に心の安らぎを覚えていることも、結婚の約束をしたことも。遠くから見ていた。だから、最後にせめて、研究所で生き生きとしていた姿を記憶して、完全に姿を消そうと思った。そのとき、罠にかけられたのだ。

 体を引きずるように歩きながら、ハウエルズは痛みに集中した。

 余計なことを考えるな。そう言い聞かせつつも、手に入れた人間ならではの迷い、悩み、それらの思いが脳内を満たしていく。だから、意識を外に向けようと、自分の入れ物より小さい、肩を貸してくれている青年に声をかける。

「どうして、手を貸してくれる気になったんだ。お前、教授と一緒に罠をしかけただろう? 俺に、消えて欲しかったんじゃなかったのか?」

「え、そりゃ、手伝って欲しいって言われたからさ。教授に恩を売っておけば、いろいろと便利なこともあるんだよ。それに、ちょっと勇気のある普通の人は、友人に悪魔がまとわりついてることを知ったら、排除しとかないと、って考えるものだよ」

 特になんの感慨もないようすで、クリスは言った。

「それに教授、本気でマリーのこと好きみたいだったし、まあ、悪い話でもないかなと思ってさ。じゃあ応援しようかな、と。まさか今日あんな光景を見ることになるとは思わなかったけどさ。正直、僕にはマリーの気持ちがわかんないや」

「ああ、俺にもわからない」

「って言うかさ、女の人がわかんないんだよ。いきなりさっきまで言ってたことと逆の行動をとり始めるんだからさ。思いつきでものを言うし、相談に乗って、って言うから話聞いて、アドバイスしてあげたら、私の気持ちをわかってくれない、最低、とか言い出すんだよ。なんか疲れる」

 ぼやくように語ったクリスを見て、ハウエルズは言う。

「そういうものなのか? その女、もしかしたらお前に気があったんじゃないのか?」

「……」

 クリスは不意に立ち止まり、しげしげとハウエルズを横目でながめた。ハウエルズは、理由がわからず、ただじっと見つめ返す。

「な、何だよ」

「マリーの気持ちがわかった気がする」

 クリスは唐突に言って、ふたたび歩きだした。

「本当に悪魔なのかわかんなくなるよ、調子狂う……」

 ハウエルズはクリスの言う意味が理解できず、口を閉ざした。なにを訊けばいいのかすら、浮かんでは来なかったからだ。やがて、ハウエルズがいつもねぐらに使っていた廃墟が見えてきた。

 街の中心部から西の方角へ進むと、そこはあまり裕福ではない、貧しい人々が暮らす街区になっている。安宿や酒場があり、時折酔っ払いや、香水のきつすぎる娼婦とすれ違う場所だ。そのため、出て行ったまま放置されている家屋が点在している。ハウエルズはそのひとつをねぐらにしていた。

 その家まであと少し、というところで、ハウエルズは言った。

「ここでいい。マリーに、俺はあの廃墟にいるって伝えてくれないか?」

 そう言うと、クリスは少し意地の悪い笑みを浮かべた。

「そっちこそ、よく僕を信用する気になったね。今言ったこと、教授に教えてマリーに教えなかったらどうするつもりだい?」

 その言葉に、ハウエルズは苦笑した。

「お前、マリーの父親に雇われてるんだっけか? 支援が打ち切られるかもしれないのに、彼女を傷つけるようなことが出来るとは俺には到底思えないな」

 そう言ってやると、クリスは舌打ちし、小声で毒づいた。

「全く、いらないところでちゃんと悪魔してやがる。はいはい、ちゃんと伝えますよ、けど、マリーとはちゃんと友だちなんだ。だからその立場で本音を言わせてもらうと、彼女には近づいて欲しくない。マリーはあんたが人間の心を持っている、と言ってたけど、それはつまり、悪魔の中に人間的な部分が出てきたってだけだろ? あんたが悪魔であることには変わりない。いつ本性を現すかわかったもんじゃないからね。それを言うために、手を貸すことにしたんだ」

 その通りだな、とハウエルズは思って、口の端をつりあげて、自嘲する。

「なにがおかしいんだよ」

「いや、別にお前を笑ったわけじゃない。全く同意見だなと思ったんだ」

 そう言うと、クリスはわけがわからない、と言いたげな顔になる。

「変な奴だな。まあいいや、じゃあ僕はこれで戻るよ、明日あたり、またマリーと一緒に来るから」

「ああ、すまなかったな」

 クリスは、その返事を聞くと、ハウエルズが壁にもたれかかるのを確認してから、ため息をついて歩き去った。ハウエルズは、痛む体を引きずるようにして、壁の割れ目から廃墟の中へと入り込んだ。

 かつてここで暮らしていた住人が使っていた家具がいくつか、暗い部屋の中にぽつん、と置かれている。ハウエルズは、寝台がある寝室までふらつきながら進むと、すぐに横たわった。

 薄汚れた寝具の上で、ハウエルズは、目を閉じる。

 やがて、訪れる眠りを待ちながら、外の物音に耳をかたむけて、静かに息をついた。

 外では雪が舞い踊りはじめている。

 誰もいない部屋の空気は、ひどく冷たい匂いがした。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 目が覚めたのは、人の気配を感じたからだった。

 横になってから、まだたいして時間がたっていないのは、周囲が暗闇に塗りこめられていることからも明らかだった。

 そのとき、ひたり、と首に冷たいものが当てられた。ナイフだと気づくのに、さして時間はかからなかった。ハウエルズは、特に身じろぎもせずに、闇に目が慣れるのを待った。少し前であれば、すぐになじんだ闇の中だったが、今はいろいろと不便だ。

「動くんじゃない。ったく、なんにもねぇな……」

「最初から、物とり目的で来たんじゃないよ。いいからそいつを捕まえな」

「はいはい」

 侵入した人間は、三人。ハウエルズは、唐突に言った。

「俺をさらいに来たのか?」

 三人が、驚いて悲鳴をあげたり、床の上にひっくり返るのがわかる。首にナイフを当てている男の手も震えている。

「だ、だったらどうだってんだ!」

「別に……どこかの金持ちに売るんだろう? 薬漬けにして。綺麗な顔をしているからな。成人男性であったとしても、いくらでも捌けるルートがあるという訳だ」

 のどから、勝手に低い笑いが漏れだす。ハウエルズは、自分に向かってやめろ、と叫んだ。だが、本来の悪魔としての本能が、そんなことで止まるはずもない。しかも、傷を負い、魂が強く飢えているのだ。

 瞳が、赤く淀んだ光を放つ。三人が、魅入られたように自分から目をはなせずにいるのがわかる。

「俺なら、もっといいやり方を教えてやれるがどうする?」

 ナイフを持つ男ののどが、ごくり、と鳴る。

「て、てめぇ一体何者だ!」

「肉体を持たない闇の化身。この顔と瞳が何よりの証……俺は、悪魔だ。お前たちは手を出してはならないものに手を出したのさ、このまま俺を刺すならば決して逃れられぬ報復が待っている。だが、契約を結べば、お前たちが心から望むものを与えてやろう」

 追いつめるように言葉を並べながら、彼らの姿をしっかりと視認した。三人とも、薄汚れて痩せている。労働者階級の中でも、極めて低い位置の者たちだろう。女は、年増の娼婦だと思われた。年をとると、客も寄り付かなくなる。ついでに、腐臭に近いものをまとっているから、何かの病気を患っているようだ。おそらく性病だろう。

「ただし、全ては契約が済んでからだ。それさえ済めば、俺はお前たちに地上で最も強い快楽を約束しよう……金、酒、女、あふれるほどの食べもの、豪華な部屋で眠り、絹をまとう贅沢をくれてやる」

 彼らが望むものを片端から並びたて、心が揺らぐのを見て楽しみながら、問う。

「どうする? 試しに契約をしてみるか?」

 リスクなどないように見せかける。

「自分たちからあらゆるものをむしりとった奴らを、踏みつけにしてみたくはないのか?」

 最後のひと押し。彼らは、迷いながらも、ハウエルズに告げた。

「わ、わかった。いいだろう、契約とやらを結んでやる……だが、お前の言葉が助かるための嘘だったら、すぐに金持ちの婆に売り飛ばす」

 男の、精いっぱいの虚勢に、ハウエルズは嗤った。

 そして、マリーに出会って以来、決してしなかった契約をした。

 久しぶりに、気分が高揚している。なんと楽しいのだろう……これから、この三人をどこまで堕落させるか、考えただけで心が震える。

 こみ上げる哄笑を抑えながら、契約書を虚空から取り出す。そのときハウエルズは、マリーのことも、人間としての感情もすべて忘れ去ってしまっていた。


 

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