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ある女錬金術師の試み  作者:
episode 16
48/58

亀裂 2

 嫌だった。この体が失われるのも、宿った心が消えてしまうのも、耐えられないほどつらい。

 すでに、マリーのなかで、ハウエルズはひとりの男性だった。目の前で傷つくのを、黙って見ていられない。このままでは、ハウエルズは殺されてしまうかもしれない。

 そう思ったら、体が勝手に動いていた。

「どくんだマリー! 君はただ、その悪魔に魅入られているだけだ」

「嫌です! どいたら殺すんでしょう? 絶対に嫌っ!」

 ハウエルズの背に、顔を押しつけたまま、マリーは言う。

 自然と涙があふれ、ハウエルズの服が濡れる。

 アレックスは、マリーの行動と言葉に衝撃を受け、苦しげなうめきをもらした。

「どうして……かばうんですか、それは人間ではない、ひとの魂を食らうために、純粋な魂を汚して絶望させて背徳を喜ぶ……悪魔なんですよ!」

 アレックスは怒鳴った。

 とたん、まわりから悲鳴があがる。

 悪魔、と聞いてパニックに陥ったのだろう。それぞれ、部屋のなかへ戻るか、逃げだしていく。

 だが、黒ローブ姿をしている悪魔学科の研究員たちは、興味深そうな顔で残っている。

 そのなかに、唖然としているクリスの姿もあった。

 それでも、ハウエルズから離れないマリーを見て、アレックスの表情が冷たくなった。

 憎々しげに、ハウエルズを睨みつける。睨みつけられたハウエルズは、懸命に上体を起こすと、マリーに向けて言った。

「ちょっと、力をゆるめてくれ」

「え?」

 疑問に感じつつ、痛いのかと思ってしがみつく力を弱めると、ハウエルズの瞳から、赤く暗い光が放たれた。その妖しく輝く瞳が向けられているのは、アレックスだ。

「……っ、何を」

「残念ながら、この〝魅了の瞳〟はマリーには通じなかったが、あんたにはどうだろうな?」

 言いながら、誘うような笑みを浮かべる。

 殴られたために額が切れ、唇も破れて鮮血により紅に染まった、美しい人ならぬ存在の、妖しく、艶やかなほほえみ。髪の色も、アレックスのものと似ていたはずなのに、なぜか漆黒に染まって見える。

 ほとんど、別人だ。マリーはそう思いながら、見惚れていた。

 アレックスは、ふらつきながら、つぶやいた。

「そんなものに、惑わされるものか……。私は、決してそんなものには屈しない」

 目もとを抑えて、ハウエルズに歩み寄ろうとする自分を、押しとどめているようだ。その姿をマリーは胸が張り裂けそうな思いで見つめた。すると、アレックスの視線が、マリーの視線とからみあう。

 彼は、嘲笑うような笑みを浮かべた。

 心を傷つけた相手を傷つけることで、その痛みを癒そうとするとき、ひとはそういう顔になる。

「コープ男爵の言葉の通りでした……あなたは、女性として失格だ」

 マリーは大きく目を見開いて、口もとを押さえた。

 奈落に突き落とされ、ハンマーで殴られたような痛みが襲ってくる。

 それでも、マリーは涙だけ流しながら、嗚咽はもらさない。もらす資格もないことは、マリー自身が一番よくわかっていた。だから、こらえた。

 その言葉は、報いなのだ。

 はっきりと心を決めず、ふたりに愛されていることでいい気になってしまったことへの。

 マリーが、嗚咽をこらえていると、ハウエルズが悲しげな笑みを浮かべるのが見えた。

「それが、好きな人間に対する言葉なのか? あんたら人間っていうのは、好きなやつに傷つけられたら、傷つけ返さないと気が済まないらしいな」

 大きく息をしながら、ハウエルズが言う。

 アレックスは、ハウエルズの言葉には答えず、無言で背を向ける。そのまま、足をふらつかせながら立ち去ってしまった。

 マリーはハウエルズを支えるつもりが、すがるような形になっていることに気づいて、離れた。

 涙はまだ止まらない。さすがに我慢しきれなくなって、嗚咽がもれだす。

 そんなマリーの背に手を当てて、ハウエルズが苦しげに言った。

「ごめん、俺のせいだ……俺がマリーを頼ったから」

 その優しい言葉に、マリーは激しく首を横に振った。

「違うのよ、私が全部悪いの……ちゃんと、けじめをつけなかったから。だから、アレックスは正しいのよ、こんな女と、結婚しなくて済んで……良かったのよ」

 涙声で、ふりしぼるように言う。

 マリーは、両手で顔を覆って、嗚咽が鎮まるのを待った。しばらくは、悲しみの波に揺られる他はないのだ。感情が荒れ狂っているうちは、何も出来ない。なんてはがゆいのだろう。

「……全く、相変わらず面倒ごとを引き起こす天才だよね、マリーは」

 クリスの声がした。

 その声も言葉も、決してマリーを否定していない。

 それが、かえってマリーの胸をしめつけた。

 ただ、泣きじゃくるしか出来ない。こんなに泣いたのは、子どものとき以来だ。

 やがて、マリーたちを見る野次馬も、狭い廊下から去っていった。ハウエルズとクリスは、マリーが泣きやむまで、何も言わずにそばにいてくれた。

 やがて、マリーが落ち着くのを見計らったように、ハウエルズはクリスを見て、言った。

「悪いが、手を貸してくれないか……俺は、ここを出ていく」

 マリーは驚いて、まだあふれてくる涙を必死でぬぐいながら言った。

「だめよ、ただでさえひどい状態だったのに、出ていくなんて許さない」

「俺はここにいるべきじゃない。それに、場合によっては、実験体のような扱いをされるかもしれない。あれだけ目撃者がいれば、なおさらだ」

 目撃した者の数は、ひどく少なかったが、人の口に戸はたてられない。ハウエルズの存在が知れてしまうのは時間の問題だった。

「それもそうだね。でもマリーが納得しないんじゃ動かせないよ。どこか、かくまえるような場所とかないかな、学院内はかえって危なそうだしね」

「それなら俺が知ってるから、大丈夫だ、それに……」

 ハウエルズは何かを言おうとして口をつぐんだ。

「なに、どうしたの?」

「何でもない」

 そんな言い方をされたら気になる。けれど、マリーは彼の表情がひどく曇っているのを見て、問いただすのをやめた。

「……わかったわ、でも、居場所はちゃんと教えて。急にいなくならないで。……それだけ、私が望むのは、それだけよ」

 真っ向からハウエルズの赤い瞳を見つめて、乞うように言う。ハウエルズは、戸惑ったような顔をしたものの、うなずいた。

「ああ、ちゃんと教える。だから、今は行く」

 マリーも、うなずいて、立ち上がった。

 クリスは呆れたようにため息をつくと、ハウエルズを立ち上がらせ、肩をかした。

「ああもう、重いなあ」

 クリスがため息をつきながら、ハウエルズを引きずるように連れていく。

 その背を見送りながら、マリーは深呼吸した。頭が痛い。目がじんじんする。

 休みたい。

 ふらつく足で、マリーは部屋の中に戻って鍵をかけると、ベッドに向かい、倒れ込むように横になった。乱れたままのシーツから、なぜか甘い香りがする。ハウエルズは体臭など持たないはずなのに。ふしぎと、心が安らいだ。まるで穏やかな波の上に浮かんでいるような、そんな感覚に包まれて、マリーはすっ、と目を閉じた。

 すでにおぼろげに霞む意識の中で、気づいたことを思い返す。

 ハウエルズは、ずっとマリーを一番に考えて行動してくれていた。どうすれば最も幸せになれるか、傷つけずにすむのか。それが、身にしみて痛くて、同時に嬉しかった。

 愛おしさが、こみあげて、また涙をこぼす。

 これから、出来うる全てて彼を救おう。マリーは強く誓うと、眠りに身をゆだねたのだった。



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