亀裂 2
嫌だった。この体が失われるのも、宿った心が消えてしまうのも、耐えられないほどつらい。
すでに、マリーのなかで、ハウエルズはひとりの男性だった。目の前で傷つくのを、黙って見ていられない。このままでは、ハウエルズは殺されてしまうかもしれない。
そう思ったら、体が勝手に動いていた。
「どくんだマリー! 君はただ、その悪魔に魅入られているだけだ」
「嫌です! どいたら殺すんでしょう? 絶対に嫌っ!」
ハウエルズの背に、顔を押しつけたまま、マリーは言う。
自然と涙があふれ、ハウエルズの服が濡れる。
アレックスは、マリーの行動と言葉に衝撃を受け、苦しげなうめきをもらした。
「どうして……かばうんですか、それは人間ではない、ひとの魂を食らうために、純粋な魂を汚して絶望させて背徳を喜ぶ……悪魔なんですよ!」
アレックスは怒鳴った。
とたん、まわりから悲鳴があがる。
悪魔、と聞いてパニックに陥ったのだろう。それぞれ、部屋のなかへ戻るか、逃げだしていく。
だが、黒ローブ姿をしている悪魔学科の研究員たちは、興味深そうな顔で残っている。
そのなかに、唖然としているクリスの姿もあった。
それでも、ハウエルズから離れないマリーを見て、アレックスの表情が冷たくなった。
憎々しげに、ハウエルズを睨みつける。睨みつけられたハウエルズは、懸命に上体を起こすと、マリーに向けて言った。
「ちょっと、力をゆるめてくれ」
「え?」
疑問に感じつつ、痛いのかと思ってしがみつく力を弱めると、ハウエルズの瞳から、赤く暗い光が放たれた。その妖しく輝く瞳が向けられているのは、アレックスだ。
「……っ、何を」
「残念ながら、この〝魅了の瞳〟はマリーには通じなかったが、あんたにはどうだろうな?」
言いながら、誘うような笑みを浮かべる。
殴られたために額が切れ、唇も破れて鮮血により紅に染まった、美しい人ならぬ存在の、妖しく、艶やかなほほえみ。髪の色も、アレックスのものと似ていたはずなのに、なぜか漆黒に染まって見える。
ほとんど、別人だ。マリーはそう思いながら、見惚れていた。
アレックスは、ふらつきながら、つぶやいた。
「そんなものに、惑わされるものか……。私は、決してそんなものには屈しない」
目もとを抑えて、ハウエルズに歩み寄ろうとする自分を、押しとどめているようだ。その姿をマリーは胸が張り裂けそうな思いで見つめた。すると、アレックスの視線が、マリーの視線とからみあう。
彼は、嘲笑うような笑みを浮かべた。
心を傷つけた相手を傷つけることで、その痛みを癒そうとするとき、ひとはそういう顔になる。
「コープ男爵の言葉の通りでした……あなたは、女性として失格だ」
マリーは大きく目を見開いて、口もとを押さえた。
奈落に突き落とされ、ハンマーで殴られたような痛みが襲ってくる。
それでも、マリーは涙だけ流しながら、嗚咽はもらさない。もらす資格もないことは、マリー自身が一番よくわかっていた。だから、こらえた。
その言葉は、報いなのだ。
はっきりと心を決めず、ふたりに愛されていることでいい気になってしまったことへの。
マリーが、嗚咽をこらえていると、ハウエルズが悲しげな笑みを浮かべるのが見えた。
「それが、好きな人間に対する言葉なのか? あんたら人間っていうのは、好きなやつに傷つけられたら、傷つけ返さないと気が済まないらしいな」
大きく息をしながら、ハウエルズが言う。
アレックスは、ハウエルズの言葉には答えず、無言で背を向ける。そのまま、足をふらつかせながら立ち去ってしまった。
マリーはハウエルズを支えるつもりが、すがるような形になっていることに気づいて、離れた。
涙はまだ止まらない。さすがに我慢しきれなくなって、嗚咽がもれだす。
そんなマリーの背に手を当てて、ハウエルズが苦しげに言った。
「ごめん、俺のせいだ……俺がマリーを頼ったから」
その優しい言葉に、マリーは激しく首を横に振った。
「違うのよ、私が全部悪いの……ちゃんと、けじめをつけなかったから。だから、アレックスは正しいのよ、こんな女と、結婚しなくて済んで……良かったのよ」
涙声で、ふりしぼるように言う。
マリーは、両手で顔を覆って、嗚咽が鎮まるのを待った。しばらくは、悲しみの波に揺られる他はないのだ。感情が荒れ狂っているうちは、何も出来ない。なんてはがゆいのだろう。
「……全く、相変わらず面倒ごとを引き起こす天才だよね、マリーは」
クリスの声がした。
その声も言葉も、決してマリーを否定していない。
それが、かえってマリーの胸をしめつけた。
ただ、泣きじゃくるしか出来ない。こんなに泣いたのは、子どものとき以来だ。
やがて、マリーたちを見る野次馬も、狭い廊下から去っていった。ハウエルズとクリスは、マリーが泣きやむまで、何も言わずにそばにいてくれた。
やがて、マリーが落ち着くのを見計らったように、ハウエルズはクリスを見て、言った。
「悪いが、手を貸してくれないか……俺は、ここを出ていく」
マリーは驚いて、まだあふれてくる涙を必死でぬぐいながら言った。
「だめよ、ただでさえひどい状態だったのに、出ていくなんて許さない」
「俺はここにいるべきじゃない。それに、場合によっては、実験体のような扱いをされるかもしれない。あれだけ目撃者がいれば、なおさらだ」
目撃した者の数は、ひどく少なかったが、人の口に戸はたてられない。ハウエルズの存在が知れてしまうのは時間の問題だった。
「それもそうだね。でもマリーが納得しないんじゃ動かせないよ。どこか、かくまえるような場所とかないかな、学院内はかえって危なそうだしね」
「それなら俺が知ってるから、大丈夫だ、それに……」
ハウエルズは何かを言おうとして口をつぐんだ。
「なに、どうしたの?」
「何でもない」
そんな言い方をされたら気になる。けれど、マリーは彼の表情がひどく曇っているのを見て、問いただすのをやめた。
「……わかったわ、でも、居場所はちゃんと教えて。急にいなくならないで。……それだけ、私が望むのは、それだけよ」
真っ向からハウエルズの赤い瞳を見つめて、乞うように言う。ハウエルズは、戸惑ったような顔をしたものの、うなずいた。
「ああ、ちゃんと教える。だから、今は行く」
マリーも、うなずいて、立ち上がった。
クリスは呆れたようにため息をつくと、ハウエルズを立ち上がらせ、肩をかした。
「ああもう、重いなあ」
クリスがため息をつきながら、ハウエルズを引きずるように連れていく。
その背を見送りながら、マリーは深呼吸した。頭が痛い。目がじんじんする。
休みたい。
ふらつく足で、マリーは部屋の中に戻って鍵をかけると、ベッドに向かい、倒れ込むように横になった。乱れたままのシーツから、なぜか甘い香りがする。ハウエルズは体臭など持たないはずなのに。ふしぎと、心が安らいだ。まるで穏やかな波の上に浮かんでいるような、そんな感覚に包まれて、マリーはすっ、と目を閉じた。
すでにおぼろげに霞む意識の中で、気づいたことを思い返す。
ハウエルズは、ずっとマリーを一番に考えて行動してくれていた。どうすれば最も幸せになれるか、傷つけずにすむのか。それが、身にしみて痛くて、同時に嬉しかった。
愛おしさが、こみあげて、また涙をこぼす。
これから、出来うる全てて彼を救おう。マリーは強く誓うと、眠りに身をゆだねたのだった。