亀裂 1
彼は穏やかな表情のまま、マリーのそばへ歩いてくる。
「その、迷惑かとも思ったのですが、やはり心配だったので、様子を見に来てしまいました。
何ごともありませんでしたか?」
「あ、はい」
マリーはとっさにうそをついた。
今、アレックスに部屋に入られては困る。
そう考えてから、はた、と思いとどまった。どうして、なぜ困るのだろう。むしろ、正直に言って、アレックスにも協力してもらい、ハウエルズを体から切り離せれば、そのほうが良いはずなのではないだろうか。
それに、どうして相談もなく、ハウエルズを捕らえるワナを仕掛けたのか、問い正してもいいはずだ。
なのに、マリーの口から、それらの問いが出てくることはなかった。
ジュディの言った言葉が、頭のなかをめぐっている。「マリーさん、ハウエルズ様のこと、好きになっちゃったんですか?」あの言葉が、何度もくり返し浮かんでは消えるのだ。
「そうですか。それなら良かった……先ほど、部屋から出ていったのはお友だちですか?
今まで見たことのないかたでしたが」
「今日、図書館で会って、話をしたんです。彼女は悪魔学科のひとで、いろいろなことを教えてもらいました」
そう言うと、アレックスの表情が険しくなった。
「悪魔学……まさかとは思いますが、マリー、彼に会ったりしていないでしょうね?」
「どうしてですか?」
「当然、彼が悪魔だからですよ。あの体が大事だというあなたの気持ちはわかっていますが、悪魔を甘く見ないほうがいい。文献にも、たぶらかされ、堕落させられてどん底の人生を歩むだけでなく、命を奪われるという記述もあるくらいです」
アレックスは、声を強めて言った。
心配してくれているのだ、とわかって、マリーは素直に嬉しかった。
「ありがとうございます……私は大丈夫です」
「それなら良いのですが、そうだ、少しですが、あなたが館で使っていた服を持ってきました。少しは寒さが違うと思います……なかに置いていきますね」
アレックスはそう言って、部屋の戸に手をかけた。
マリーは、全身の血が冷たくなる思いがした。どう言って、部屋に入らせないようにするか、頭がまわらないでいるうちに、アレックスは見てしまった。
どうしようもない気分で、マリーは後ずさる。
このまま、逃げてしまいたい。けれど、振り向いたアレックスの表情は、それを許してくれそうになかった。驚愕と怒りに染まった顔に、恐怖をおぼえる。
「マリー……どういうことですか? 会っていない、と今あなたは言いましたよね」
「会っていない、とは言っていません。
今日、戻ってきたらいたんです……それで、図書館に行って……」
声がかすれているのがわかった。
マリーは、呆然としたまま、言葉をなんとかつなげるように声を出す。
「どうして、私に黙ってわなを仕掛けたりしたんですか?」
唐突に、マリーの口から問いがこぼれた。
「決まっているでしょう。この悪魔を、この世から消すためですよ……この悪魔は、いろいろな意味で私にとって悪だ。やはり、あなたはたぶらかされている、もっと早く手を打てば良かった」
アレックスは言いながら、手を伸ばして、ハウエルズのえりくびをつかんで引き上げた。
ハウエルズの顔が苦悶に歪む。
「は、ついにお優しい仮面を脱ぎすてたのかよ。それが、あんたの本性か?
嫉妬深くて、見苦しいな」
苦しげに、けれど嘲笑しながらハウエルズは言う。
「悪魔のくせに、知ったような口をきかないで下さい。いい機会だ、このまま消してあげましょう。マリーには申し訳ないが、体ごと燃やしてあげますよ。そうすれば感情に焼かれる苦しみもわかるというものです」
そう言うと、アレックスはハウエルズを寝台から引きずり出した。
低い声には、深い怒りがこもっている。
ハウエルズは、痛みからうめき声をあげ、アレックスの手から逃れようともがく。だが、怒りの力を借りているアレックスは、そんな抵抗をものともせずに、ハウエルズを殴り倒した。大きな体が壁に打ちつけられ、あるはずのなかった血が唇から流れ出る。棚が揺れて、中のものが転がり落ち、ハウエルズに当たる。彼は小さくうめくと、体を丸めてうずくまり、動かなくなる。
アレックスは、ハウエルズを部屋から引きずり出そうと、両腕をつかんだ。
マリーは思わずハウエルズに覆いかぶさった。
「マリー? どきなさい!」
「嫌です、こんな……なんで、教授がこんなことまでするなんて変です!」
叫ぶように言う。
騒ぎを聞きつけて、近くの部屋の戸がいくつか開く。まだ寮に残っていた研究員たちだ。
アレックスはそれに気づくと、悔しそうに顔をゆがめた。
「マリー、よせ……俺なら、平気だから」
くぐもった声で、ハウエルズはマリーをどけようと、弱々しい力で、腕をあげようとする。
「そんな訳ないでしょう! だったら、そんなつらそうな顔してないはずだわ」
マリーはすがるようにハウエルズの胴にしがみついた。