痛みと執着
つめたい手が、やさしく肌に触れる。
この体に入ったときから、それだけは感じられていた。最近は、それが温度をともなうように変化してきていることに、ハウエルズは気づいていた。
痛みも、感じるようになってきている。悪魔といえども、体や魂が傷つけば、痛い。
だから、痛い、という感覚は知っている。
しかし、それが長時間つづくというようなことはなかった。
(そのせいだろうな、あんな単純な罠に引っかかるなんて……)
いつかは何か仕掛けてくるだろうとは思っていたが、こんな簡単な罠だとは。
簡単すぎて、逆に見落としてしまった。
罠、と呼べるようなしろものではない。
あの教授とその助手がしたことは、研究所のあらゆるドアノブに神の言葉を記した細長い紙を張り付けたり、小さな十字架を飾れるところすべてに置いておいたのだ。
ハウエルズがそれらを避けて行くと、マリーの個人研究室にたどりつく。そこに、悪魔の魂を焼く魔法陣が描かれていたのである。灰色の石の床に、薄い、とても薄い黒で。簡単には消えないように、油分を含んだインクを使っていたから、マリーが気づかずに歩きまわってもそうそう消えることはない。
おそらく、彼女は知らなかったのだ、とハウエルズは思った。思いこもうとした。
ただ、ハウエルズ自身が、信じたかっただけなのかもしれない。マリーなら、自分を傷つけるような真似はしないだろう、と。そう思って、個人研究室に逃げ込んだのだ。
そうして、ハウエルズは罠にかかってしまった。
彼女なら、体を返して欲しければ、真っ向から話し合いで決着をつけようとするはずだ。そう思っていたから。けれどもし、そうでなかったとしたら……?
それを思うと、つらかった。
自分のなかに生まれてしまった人間のこころが言う。もしこんなことを本当にしたのだとしたら、彼女の大切にしているものすべてを傷つけてやる。こころが手に入らないのなら、その命と体だけでも、むりやりに食らってやる。
だからこそ、ハウエルズはふらつく体でここまでやってきた。
暗い情念に、身も心も焼かれているような気分で……。
ハウエルズは、もうろうとする意識のなかで、ゆっくりと目を開けた。
視界はぼやけている。少し前から、体の表面を冷たいものがなでていく。なでられるごとに、痛みがほんのわずかやわらいだ。ふしぎに思って、ぼやけた視界のなかに理由をさがす。
「あ、気づいたのね? 今、傷に効く軟こうを塗ってるから、じっとしてて……もしかしたら、しみて痛いかしら? でも、我慢してね」
やわらかな、ハウエルズにとって甘やかにひびく声がした。
「……マ、リー? 聞き、たいことが」
「後でね。もう少し、熱と痛みがひいてからじゃないと」
ハウエルズは、たまらなくなって痛む体を起こした。視界が少し晴れてくる。額から、濡れた小さな布がぽとり、と落ちた。それには目もくれず、ハウエルズはマリーの二の腕を強くつかんで、問う。
「あれを、知ってた……のか?」
「なんのこと? あれ……ってなに? そんなことより、今はまだ起きちゃ……」
「魔法……陣のことだ」
ハウエルズは荒れた声で、マリーの言葉をさえぎるように言った。
すると、マリーの目に理解の色が浮かんだ。
「私は知らなかった。さっきはじめて聞いたの。
私は、私だったら、こんな方法は選ばないわ。
さあ、休んで、まったく……悪魔を看病することになるなんて、夢にも思わなかったわ」
マリーははっきりと言った。
信じてもいいのだろうか?
そんな思いがよぎったものの、それ以上は思考が続かない。
ふたたび横になると、ハウエルズはマリーの手を握った。
マリーは、びっくりしたような顔でハウエルズを見る。
「手、握ってても、いい?」
そう訊ねると、マリーの頬に赤みがさす。彼女は困惑したように、口のなかでなにごとかつぶやいていたが、やがて諦めたように言った。
「いいわ」
その答えに、ハウエルズは満足して目を閉じる。
痛みと冷たさばかりが満ちていた感覚のなかに、あたたかさと安心がまざりあう。ああ、これが安心する、という感覚なのか、と思いながら、ハウエルズはふたたび意識を手放した。