舞踏会への誘い 3
マリーはひどくやりきれない思いでお茶のカップを口に運んだ。
「なんていうか、どうしようもないことって結構あるのね」
「本当だよ……僕もう帰ろうかな。
なんだか疲れた。徹夜したのと同じくらい疲れた~」
クリスがうめくように言った。
彼はマリーのななめ前のソファにぐったりと寝そべっている。
時間はまだ正午の前だったが、マリーとクリスとアレックスは、大学院の研究所がある棟の一階部分のラウンジで意気消沈していた。
昨日の約束通り、三人は朝、寮の前で集まり、リサの家へと行ったのだが、彼女はふさいで寝込んでおり、とても会える状態ではないと執事に告げられたのだ。
しかたなく、せめてビックの様子だけでもとウエストン家の屋敷もたずねたのだが、やはりウエストン夫人もうつってはいけないから、と会わせてくれなかった。イーディスは何かの集まりに出ているとかでいなかった。
どうしようもなくなった三人は、結局大学院に戻ってきたのである。
「申し訳ありません……何のお役にも立てなくて」
アレックスはうなだれて言った。
「いえ、教授が謝ることじゃないですよ。
こういうこともあります」
マリーは慌ててそう言った。
こんなアレックスも初めて見る。いつも穏やかで、心の乱れなどとは無縁に思える彼だが、こんなふうに落ち込むのだ……。
マリーはとにかく昨日のことを謝りたかった。けれど、それはそれで自分勝手な気がして、自然と口が重くなる。
もっと、気がまぎれるようなことでも言って、この場の空気をやわらげたいのに。
「でも、少し困りましたね……」
「どうかしたんですか?」
クリスが少し興味がわいた様子で聞いた。
「いえね、もうじきクリスマスでしょう?
ふつう私たちは領地にある屋敷に帰って、家族と一緒に過ごすものなのですが、中にはここにとどまる方々もいるんです……そこで、タンプリエ伯爵未亡人が、ささやかなクリスマス・ダンスパーティを催すということで、私も招待を受けているのです。
私も教授になったことですし、みなさまに顔を覚えていただく良い機会かと思い、参加するつもりだったのですが……。
一緒に行ってもらうはずのビックとリサさんがこれでは……」
「ひとりで参加しちゃだめなんですか?」
「いえ、かまわないはずです。同伴者をともなって、とは書いてありませんでしたし……ですが、私はどうも口下手で、社交界も久しぶりですし、そうだ!
こんな時に頼むのも気が咎めるのですが、マリー、一緒に来て下さいませんか?」
マリーはそれを聞いてお茶を吹き出しかけた。
「……わ、私ですか?」
「はい、予定があれば仕方ありませんが」
マリーはどう答えを返したら良いのか迷った。
もちろん、予定など何もない。
全くと言っていいほどだ。
家族にはクリスマスくらいは帰ってきて顔を見せて欲しい、と言われてはいる。
けれど、帰れば地元の人々や、独り者の貴族などや親戚が招かれていたりすることもあり、嫌でも顔をあわせることになるだろう。そういった人々のなかには、すでにホコリをかぶっているような過去の話をわざわざほじくりかえすのを好むひともいるのだ。
そんな場所に帰るくらいなら、ひとりで静かに過ごしたかった。
「……予定は、まったくありません……でも」
マリーは言葉をにごした。困惑してしまったのだ。
なにしろ、アレックスの真意がわからないのである。
「なにか他に不都合が?」
「……その、着て行くものがまずありませんし、お金もないですし……」
「そんなことなら大丈夫ですよ。
私が面倒なことを頼むのですから、必要なものがあれば言って下さい。
そうだ、これから仕立屋へ行ってドレスを注文し、他にも足りないものがあれば買ってきましょう。
どうせ今日は休むことになっているのですから」
満面の笑顔をうかべ、アレックスは言った。マリーはさすがに何も言えなくなってしまった。ここまで言われてしまっては、断るにも断れない。
それに、とマリーは思った。彼に謝る良い機会になるかもしれない。
何より、アレックスと一緒にクリスマスを過ごせるなど、夢のようだ。
それが嬉しくないはずはなかった。
「わかりました。私でよければご一緒させていただきます」
マリーがためらいがちに言うと、アレックスは嬉しそうにうなずいた。
「良かった。ありがとうございます」
「いいえ、お役にたてれば嬉しいんですが、何しろ、もう二度と社交界には顔を出さないと決めてしまっていたので、作法とか、色々と忘れてしまってなければいいんですけど」
マリーは、嬉しそうなアレックスを見て、少し申し訳なさそうに言った。
冗談抜きで、彼に恥をかかせてしまったらと考えると怖い。
「はは、それは私にも言えることです。少しくらい不作法者がいても、クリスマスなんですからきっと許して下さいますよ。
そうだ、クローネ君はこのあとどうしますか?」
「んー、僕はお邪魔だと思うんで、部屋に戻って掃除でもしてます」
クリスはふたりの様子に苦笑しながら答え、ソファから立ち上がった。
それから、マリーの方を見てにやり、と笑う。
「うまくやれよ、マリー。じゃ、教授、また明日」
クリスはものすごく楽しそうな顔でふたりを交互に見やると、そそくさと立ち去った。
彼の言いたいことはわかったが、マリーはいたたまれず、怒鳴ろうと思ったら、クリスはもういなくなってしまっていた。
ものすごい早さだ。その早さをもっと違うところに活かせばいいのに、と思うが、それを言うべき相手はもういないので、軽く唇をかむことくらいしか出来ない。
恥ずかしい。とにかくものすごく恥ずかしい。
「では行きましょうか?」
なにごともなかったようにアレックスは言い、立ちあがり、手を差し伸べてくれた。その顔に浮かんでいる笑みが優しいものだったので、マリーは少し安堵しながら手をとる。
けれど、一応言っておかなければならないことがあった。
「……あの、私たち婚約者でもなんでもないのに、ふたりだけで出かけたりしていいんですか?」
さきほどからずっと気になっていたのだ。
こんなところを見られてしまって、彼は困らないのだろうか?
だが、アレックスは軽く笑った。
「なに、そんなに気にするほどのことでもないでしょう。
もし悪いうわさがたてられてしまった場合は、ちゃんと責任をとりますから安心して下さい」
彼はほがらかにそう言って、マリーの手を自分の腕にからめさせると、歩きだす。
マリーは想像もしていなかった展開に、思考がついていけない。
責任をとる?
それはつまり、いざとなったら結婚をするという意味にとっても良いのだろうか?
こんなふうにエスコートされる日がこようとは、夢にも思っていなかったというのに。いったいアレックスに何が起こったのだろう?
「あ、あの……教授!」
「……ふたりだけの時は、名前で呼んでもらえませんか?」
恐ろしく優しい声で言われ、マリーはますます混乱する。
「で、でもまだここ院内ですよ!」
何だか、アレックスがアレックスではないようだ。ひとが変わってしまったみたいに感じる。
もしかしてこれは夢だろうか?
それとも、ハウエルズがいたずらでもしているのだろうか?
昨日までの彼と、あきらかに何かが違っている。マリーは「いったい何があったの?」と問い詰めたい気持ちでいっぱいになった。
何かあったんですか?
と聞きたい気持ちで、マリーの心の中はいっぱいになった。
「……かまわないんですよ。もう、ね」
アレックスは晴れやかに笑って言った。
マリーは、のどに何かがつかえたような感じがして、声を出せなかった。
そのまま、アレックスに連れられて、ラウンジを出ると、院内を歩く。
今日のマリーは、いつもの研究員としての服装ではなく、地味なドレス姿だ。昔買ったオーソドックスな訪問着で、デザインは流行遅れになっているものの、生地が美しく、マリーに良く似合っていた。
一方のアレックスも、オーバーコートを着て、ハットをかぶり、手にはステッキという一般的な服装だったため、学内をふたりで歩いていても、奇妙に思われることもないはずだ。
大学院は日によっては一般にも立ち入りが許可されており、今日はちょうどその日にあたるのも幸いだった。
だが、そんなことよりも、マリーは今の状況が信じられず、心臓は早鐘をうち、頬が熱くてしかたなかった。
誰に声を掛けられることもなく、学院の外に出たふたりは、しばらく通りを歩いたのちに、乗合馬車を見つけ、街の中心へと向かったのだった。