うわさと本音 3
教授室の前に立ち、マリーはごくりとのどを鳴らした。
いままで生きてきて、たかがドアをノックするのにこんなに勇気が必要だったためしはない。
(と、とにかく何かの話をするだけよ。
別に、大したことじゃないかもしれないじゃない……よし)
マリーは腹をくくり、ノックするために拳を握って振り上げた時、ドアが向こうから勝手に開いた。
図らずも、部屋の中の様子が目に入る。
目の前では、マリーの知らない女性がこちらを驚いたように見ていた。
それも、相当な美人だ。これほど綺麗な女性はなかなかいない。歳の頃はマリーとあまり変わりないように見える。
最新流行が取り入れられたファッションで全身を飾っており、その洗練された風情から、アレックスと同じ階級の人間だとすぐに知れた。
だが、その女性はマリーを目にすると、一気に美貌が台無しになるような顔つきをした。
(えっ! な、何で……?)
マリーが理由も分からずに固まっていると、女性は部屋のほうを振り返った。
「もしかしてこの方が?」
柔らかな女性らしい声で彼女は訊ねた。
「……もう話は終わっていますよ、イーディス」
すると、穏やかだが、どこか剣呑としたものを含んだ声が返ってきた。
それを聞いて、女性……イーディスと呼ばれていたのでそれが名前だろう……は小さく鼻を鳴らして去っていった。
マリーはただ呆然とその背中を見送った。
「ああマリー、来てくれたのですね……入ってきて下さい」
「あ、はいっ」
呆気にとられて頭の中が真っ白になっていたマリーは、慌ててノックしようと振り上げたこぶしをしまうと部屋に入ってドアを閉めた。
そういえば、こうして二人きりになるのは久しぶりだ。
「その……すみませんでした」
アレックスは唐突に謝った。
マリーはいままで放ったらかしにしていたことだと分かったが、何も言わなかった。
そのまま黙っていると、アレックスが困惑したようにマリーを見た。
「あの、何か言ってくれませんか?」
マリーはやはり何を言ってよいものか考えあぐね、場に沈黙が流れる。
「えと、何か私に用があったのでは?」
とりあえずマリーは訊ねた。
正直に言うと、あの女性はなんなのか、誰なのか。なぜこんなに長く放ったらかしにしたのか。など、聞きたいことは山ほどある。けれど、この場所でそういう話をするのは何か場違いな気がした。
アレックスは、少々気にいらないような、傷ついたような顔をした。
そして、ひとつため息をつくと、言った。
「……君は、ここ数日、学院内で広まっているうわさについて知っていますか?」
「はい。
先程リサに教えてもらいました」
マリーは答えてうつむいた。
「申し訳ありません、いきなりご迷惑をかけることにになってしまって」
「いやそれは違う。
私が勝手に訪ねたのだから……君のせいじゃありませんよ。
それで、考えたんです、このままこのうわさを放っておくのはお互いにとって良くないと」
アレックスはマリーの言葉から何かを察したのか、急に表情を明るくした。
「それで、少しの間だけ、君に私の助手を外れてもらうことにしました」
マリーは耳を疑った。
「……そんな!
それだけは嫌です!」
思わず声を大きくしてマリーは言った。
アレックスの役に立つことが、マリーにとっての全てなのだ。
他に残せるものや、望めるものがないのに。
研究に役立つことをし、手助けすることだけが、この思いを形に出来る唯一の場なのに。
ここで外されてしまっては、何の役にも立たない……。
「私とて嫌なんですよ。
けれど、このまま一緒にいれば、ますますふたりとも身動きがとれなくなってしまうでしょう。
私はそれだけは避けたいのです……申し訳ありませんが、分かってください」
マリーは並べられた言葉のひとつひとつが胸に刺さるようで、いてもたってもいられなかった。
唇を噛んで、感情を散らすけれど、それもあまりうまくいかない。
このままではまた泣いてしまいそうだ。もう泣きたくなどないのに。今までだって、十分すぎるほど泣
いてきている。
マリーは、抑えきれずに胸の中の嵐を吐き出した。
「……そんなことになるなら、教授は告白なんかするべきじゃなかったんです。
いいです、分かりました……。
どうせ何も始まってはいないんですから、最初からなかったことにします。
そうすれば、何も証拠は残りませんし、あったことすら誰にも分からないでしょう」
言いつつ、きっと今の自分はひどい顔をしているだろうと思った。
「すぐに意見をひるがえしてごめんなさい。
でも、やっぱり私には辛すぎます」
そう言い捨てるように言うと、部屋を飛びだす。
「待っ……!」
呼びとめる声が聞こえた気がしたが、マリーは足を止めなかった。
ただただ苦しくて、息をするのも辛かった。こんな状態ではまともにものを考えられない。
(やっぱり、私に恋なんて向いてないんだ……)
そんなことを思いつつ、マリーは自分の個人研究室に逃げ込んで、ドアの鍵をしっかりかけた。そのまま、ドアの前にくずおれるように座り込む。
「……何を言われても、平常心を保てると思ったのに」
マリーはぼやいた。
本当の心は、隠し通せるものではないということなのだろうか?
「自分の心に、裏切られるなんてね」
あの時、アレックスの心に寄り添いたいと思ったのは本当だ。
だが、マリーが本来望む恋人像は、いまのアレックスの真逆の存在なのだ。
「もう、どうしたらいいか分かんない」
ひざをかかえて座り込み、マリーは痛みを訴え続ける心を抱えて、ため息をついた。
その時、前の方から声が降ってきた。