思いの届くとき 2
「昔言われたことを、いまでも引きずってるなんて、馬鹿ですよね……私」
マリーが言うと、アレックスはハッとしたように顔をあげた。
「……そんなことは」
「いいんです。
いつものことですから……教授の研究にご迷惑はおかけしません」
マリーはそう言うと、深呼吸した。
落ち着かなくては……そう自分に言い聞かせる。
「そのうち、復活すると思いま……」
言葉は最後まで続かなかった。
気がつくと、マリーはアレックスに抱きしめられていた。
あまりのことに声も出せず、身体はちいさく震えた。
「そんなに、無理をするな。
私にとって、君は大切なひとなんだ」
耳元で、囁くように放たれたことば。
それを額面通りに受け取れたなら、こんなに幸せなことはないのに……。
息を吸うと、彼の匂いがする。
研究室のものと、彼の身体の匂いとが入り混じった匂い。
マリーにとって、いま一番好きな匂いだった
そして、思わず言ってしまった。
「それは、どういう意味での“大切”なんですか?」
マリーは言った。
もう、黙ったままでいることは出来なかった。
背中にまわされたアレックスの手がこわばるのがわかった。
やはり、彼も他の男と変わらないのだろうか?
マリーは、女性として見てもらえない存在なのだろうか?
小さく息を吐いて、マリーはついに言った。
「私は教授が好きです。もちろん、教授として尊敬しているという意味でも好きですが、ひとりの男の人として、あなたが好きです」
アレックスは驚いて、マリーから身体を放すと、じっと顔を見つめた。
マリーはその視線がいたたまれなくて、うつむいた。
「返事は無理にききません。ただ私が言っておきたかっただけなので……」
口ごもりながらもぞもぞ言う。
とにかく恥ずかしくて仕方なかった。それ以上に、どんな言葉が返されるか怖かった。
けれど、言わないで後悔するより、言って後悔したいと思ったのだ。たとえ、そのことで傷つくことになったのだとしても。
今のマリーには、そう思えた。
やがて、アレックスが口を開く。
「いや……嬉しいよ。
というより、先を越されてしまったな」
アレックスは茫然として言った。
マリーは耳を疑った。
いま、アレックスは嬉しいとか言わなかっただろうか?
驚いてマリーは思わずアレックスを凝視してしまった。
「まさか、先に言われてしまうとは思わなかった」
彼は同じことをくり返して言った。
しかし、ただ喜んでいるのではないように見えた。アレックスは口元を手で押さえて、マリーを見た。
「ちょっと……予定が狂ったな」
「……え?」
「いやね、君が私を好いていてくれるだなんて思いもしなかったものだから……。
けど、言おうと思っていたことに変わりはないか」
アレックスはひとりごちるように言う。
両想いになれて嬉しい状況なのに、マリーは小躍りでもしたいくらいなのに、アレックスはまだ何か思い悩んでいるふうだった。
それがなぜなのか、早く言って欲しかった。
マリーは彼が次の言葉を発するのを、ただじっと待った。
心臓が破裂しそうな気分だ。
やがて、アレックスは言いにくそうに告げた。
「マリー、私はまだ結婚を考えていないんだ」
腹をくくったように、すべるように言葉がつづく。
「君のことが好きだ。
結婚する気はないから特定の女性に思いをよせまいとしたんだが、だめだった。
君を、自分以外の誰かにとられるのは絶対に嫌だ。
これは本当なんだ……だが、同時に思ったんだ。この激しい感情はいつまでも続くものではないと。そして私はいま、何よりも研究が大切なんだ。
つまり、私はいま君と婚約出来ない」
アレックスはすまなそうにマリーから目をそらす。
「それでも、こんなひどい私でもいいなら、君の恋人にして欲しい」
絞り出すように、アレックスは言った。
まるで、懇願するようなその姿に、マリーはどう答えを返したらよいのかわからなくなってしまった。
そもそも、マリーは結婚や婚約などについては考えもしなかった。
そこまで考えが至らなかったのは、マリーの方も、アレックスが自分のことを好きだとは思っていなかったからだ。
もちろん、かつてそういった人生の一大事について考えてみたことはある。
あるのだが、ハロルドの一件のせいで、マリーはそれを自分自身の身に起こることとして考えるのをやめてしまっていた。
だから、いまのマリーは結婚ということの手前で止まってしまっている。
改めて問われて、マリーは気付いた。
自分は、結婚していく友人たちが羨ましくて仕方なかったのだと。
だから、本心をアレックスに言うのならば「ちゃんと婚約してくれなければ嫌だ」と言わなければならない。
けれど、目の前に立っている愛しいひとは、まるで雨にぬれた子犬のような顔をしていた。
雨のしずくがまだ髪や肩を濡らしている。
目をそらそうとして、それでもそらせずに、時折マリーをまっすぐに見る。
なにかにすがるように……。
マリーはそれを見て、自分が傷つくことなどどうでもいい、と思った。
ただ、手を差し伸べたくてたまらない。
心は決まった。
「私は、かまわないです」
言ってみて、マリーはすぐに心が傷つくのが分かった。
それでも痛みをこらえて、微かに笑って見せる。
「教授の言いたいこと、なんとなく分かります。
いつか消える炎なら、お互い傷が少なく済むように……でしょう?」
マリーがそう言うと、アレックスは安堵したように息をついた。
彼はこう言いたかったのだ。
ひとというのはいつ気が変わるかわからない。
だから、もしもそうなった場合を考えて、互いを縛るのはよそう。
つまり、いつ終わらせてもいい関係でいよう、と……。
それは、永遠を、少なくとも死ぬその時まで愛を誓う間柄を望むマリーにとって、この上なく残酷な言葉だった。
けれど、そんなことはおくびにも出すまいとマリーは決めた。
(それでもいい、それでも、好きだと言ってくれた……)
「本当は、こんなことは言いたくない。
だけど、私はひとの心を信じることが出来ないんだ、一番信用できないのは自分の心かもしれない。
けど、君は理解してくれるんだね、嬉しいよ」
アレックスはちょっと悲しげに言って、再びマリーを抱きしめた。
彼の腕の中は、大きくて温かく、他の女性より身体の大きなマリーですら、すっぽりと包んでくれた。それなのに、ちっとも心が安らがなかった。
むしろ、心の一部が死滅してしまったかのような気分だった。
痛みや苦しみがマヒすると同時に、優しくて熱い思いもまた、なくなってしまったような感じだ。
それからしばらくして、アレックスは持ってきた食べ物とワインで、マリーと一緒に軽く食事をしてから帰って行った。食欲はなかったが、マリーが食べるところを見ないと気が済まない、とアレックスが強く言うので、無理やり食べた。
そのせいで、なんとなく胃が重い。
部屋にひとりになったマリーは、テーブルに乗っていたもの全てをひとまとめにし、布に包んで部屋の隅に置いた。それらからアレックスの声がしそうで、見ていたくなかったのだ。
(誰かが持っていってくれれば、この心の重荷も軽くなるかしら?)
ベッドの上にうずくまり、マリーはぼんやりとそんなことを思いながら、なんとかその日を過ごしたのだった。