思いの届くとき 1
しとしとと雨が降っている。
マリーはため息をついて窓の外をじっと眺めてから再びベッドへ戻った。
今日は学院は休み。
いつもは休みだろうとなんだろうと、勝手に研究室を使って何かしていたものだが、今は特にやりたい研究もないので、久しぶりに寮でじっとしていた。
本当はなにかに集中していたいのだが、近頃まともに休めていなかったから、身体の調子がかなり良くない。
今日もなんとなくだるくて、熱っぽかった。
仕方なく、昨日のうちに学院の図書館から貸出可の本を何冊か持ち出して来て読んでいる。
「全然内容が頭に入ってこない」
ややうらめしげにぼやいて、ベッドに倒れこんだ。
部屋はけっこう寒い。
外を見れば、まだ木々に緑は残っているのだが少しずつ赤や黄に染まってきている。
あれが赤茶けて散ればもう冬だ。
ハウエルズに身体を持っていかれたのが夏だから、ずいぶんと時が経ってしまったな、とマリーはぼんやり思った。
「たまには、こんな日もいいか」
つぶやいて、マリーは久しぶりに心が休まっているのを感じた。
しばらくそうして呆けていると、不意に戸がノックされた。
マリーは、ハッ、としてからすぐに首をかしげた。ここしばらくというもの、マリーの部屋を訪れたのは、あの悪魔以外にいない。
もしも彼であれば、まずこんな風にノックしたりしない。いきなり窓から侵入してくるだろう。
マリーは誰だかさっぱり分からずに、とりあえず声をかけた。
「あの、どちら様ですか?」
ここには大学院関係者しか入れないようになっているはずなのだが、マリーにはここを訪れる理由のある人物が全く思い浮かばなかった。
少しして、返ってきた返答の主はは思いがけない人物だった。
「私だ……ハーストだ」
返ってきた声に、マリーの心臓はひっくりかえって激しくうちはじめた。
「き、教授っ?」
マリーは転げるようにベッドから出て、慌てて戸を開けた。
開けてしまってから、自分がひどい格好をしていることに気付いたが、もうおそい。
戸の向こうには、マリーが今最も見たくなかった人物が雨に濡れて立っていた。その手には、何やら大きな布のかたまりがおさまっている。
「やあ。
いきなり訪ねてしまって済まない」
「いえ、あの……どうぞ」
マリーはどう答えたらいいのか分からず、とりあえず中に入るよう勧めた。
寒い外に立たせっぱなしにしてはおけなかったからだ。
本当なら、未婚の女性が男性を部屋に招き入れるなどしてはいけないことだ。
けれど、今のマリーにはそのことに気付いても、追い返すなど出来なかった。
「いいのかい?」
「そのままじゃ、風邪をひいてしまいます。
教授に、風邪をひかせるわけにはいきませんから」
アレックスの問いに、マリーはややうわのそらで答えた。
彼は、そうかと口元でつぶやいてから、少し恥ずかしそうに、大きな身体をかがめて部屋に入ってきた。そして、しばらく驚いたように立ちつくした。
「……これは、何と言うか」
「どうかしましたか?
あ、教授は椅子にかけて下さい、私はベッドにすわりますから」
「あ、ああ」
アレックスは持っていたものをテーブルに置くと、言われたとおりに椅子にかけた。
それから、包みの中のものを次々と取りだしてならべはじめた。
戸を閉めて、アレックスの髪などを拭くための布を取り出してからそれを見たマリーは、唖然とした。
彼が持ってきたのは、珍しい南国の果物、パンのかたまり(そうにしか見えなかった)、調理済みの肉や魚や野菜の缶詰、チーズのかたまり、ハムにソーセージ、バターなどの大量の食べ物と怪しげな薬の包みに、お守りらしき不気味な飾り物に、毛布だった。
「あの、なんなんですかそれ……?」
最後に小脇に抱えてきた薬草などが漬けられたワインの瓶を置いたアレックスに問う。
「見ての通りだよ。
最近なんだか具合が悪そうだったし、あまり食べていないようだったからね、栄養をつけてもらおうと思って……。
ああ、説明が必要なものもあるね、これはよく眠れると評判の薬屋の薬。
このワインは滋養強壮に良い薬酒。
こっちは今流行の魔よけだということだよ」
アレックスは、なにやら目玉や生首がたくさんぶら下がっている謎の飾り物を手にし、しごく真面目な顔で説明した。
殺風景もいいところだったマリーの部屋に、これほどの色彩があふれたのは、良く考えてみなくても初めてのことだった。
マリーはまさか不眠と不調の原因は目の前の貴方です、などとは言えないので、口元を引きつらせて笑みを作って見せた。
「あ、ありがとうございます。
あの、まさか今日はこのためだけにわざわざ……?」
「大事な研究も控えていることだし、君に倒れられては困るからね」
アレックスはこともなげに言った。
その言葉はマリーの胸をするどく貫いた。
けれど、涙だけは見せたくなかった。
「私は、大丈夫ですよ。
気づかいは嬉しいですけど、体力だけはあるんです私。
風邪だって滅多にひかないんですよ」
顔を見られたくなくて、マリーはうつむきがちに、早口で言った。
「そう言う訳にはいかないよ。
まだ平気に思えるのは若いからだ、強いからではないんだよ?
もっと自分の身体をいたわってやりなさい」
アレックスは心から心配してくれているようだった。
マリーは少し顔をあげ、その心配げな優しい顔をまともに見てしまった。思わず、感情があふれてきて、泣き笑いのような表情になってしまう。
「そんなの、無理ですよ」
疲れたように、マリーはつぶやいた。
そう、もう本当に疲れていた。
強情を張ることも、自分の気持ちを隠すことにも……。
「それはどうして?
悩みがあるなら私に相談してはくれないか?
いや、私などで役に立てればの話だが、言ってしまえば楽になることもある」
マリーは不意にピンと来た。
「……もしかして、もうご存じなんですか?」
マリーはやや剣呑な気分で訊ねた。
アレックスの言い方からすると、すでに知っているはずだと思った。案の定、アレックスはやや戸惑ったように、マリーから目をそらした。
「そうですか……別にいいですけど」
いったん口を閉じて、マリーは外の雨音を聞いた。
散々悩んできて、なぜこんなに苦しいのかは分かっていた、
それは、ハロルドの言ったことを否定できないからだ。
自分が情けなくて、悔しい。
それでも、最初の頃はそんなんじゃない、私はそんな女じゃない!
と言いたくて、自分を変えようと努力もした。けれど、どれだけ欠点を克服したかに見えても、周りの見る目は変わらなかった。
そうして、結局はいつものこの自分に戻ってしまう。
もう彼の言葉を覆せない。
心にそんな諦めが染みついた時に、ほとんどヤケクソであの身体を作ったのだ。
そのマリーの前に、アレックスは現れた。
最も自分のことを女性として見て欲しいひとが現れてしまったのだった。