気づき 2
「ああ、違いますよ、トラウマってやつです。
あいつ、昔婚約者に別の女と駆け落ちされたんですけど、その時かその前かにひどいこと言われたらしくって……内容は忘れちゃったんですけどね。
ほら、マリーの家って上流階級でしょう、シーズン中には色々な催しに呼ばれるんですよ。
そのたびに周囲の人間から気の毒そうに見られたり、あからさまに陰口叩かれたり。
そのせいでよく夜眠れないってこぼしてましたよ」
クリスはやや憤慨したように言った。
「何が嫌であんなイイ女振ったんだか分かりませんけどね。
リサとか、仲のいい友達がなぐさめてもどうにもならなかったみたいで……。
正直、あんな幽霊みたいなマリー見るのはこっちも辛いです。
でも、まだそんな時期じゃないはずだし、最近は行かないようにしてるって言ってたんで、ちょっとは大丈夫かな、とか思ってたんですけど……やっぱり何かあったのかな?」
最後はぼやくようにクリスが言った。
アレックスはクリスの話した内容を聞いて胸が痛んだ。
おおまかなことしか語られていないが、マリーの心中を察すると、ひどく強い怒りが込み上げてくる。
「そうか、辛い思いをしたんだね」
「ええきっと辛かったろうなって思いますよ。
ほら、マリーってああ見えて自分を責めちゃうようなところがあるから心配なのよ、ってリサも言ってましたしね。
とにかく、僕としてはそんなクズ男さっさと忘れて欲しいところですよ。
何より、マリー自身のために、ね」
クリスは肩をすくめて、悲しそうに言った。
そんなクリスを見て、アレックスはなんとはなしにつぶやいた。
「君はマリーのことが好きなんだね」
「そりゃあまあ、マリーがいなければ僕はここにいられなかったですし……っていっても、恋愛感情とかじゃないですけど。
どっちかというと危なっかしいんだけど、でも時には頼れる妹、みたいな存在ですよ。
どのみち身分違いですし……」
クリスは苦笑交じりに言ったが、後半ふと言葉を濁した。
「……どうしたんだい?」
「ずいぶんと、その、マリーのことを気づかうんですね」
「え! い、いや、最近とにかく具合が悪そうだったものだから気にしていてね……。
ささいな病でも、大病に化けることがあるから気をつけないと。
せっかく出来た優秀な助手を失いたくないんだ、私は」
アレックスはややうろたえた。
返した言葉は、我ながら滑稽なほどつじつまがあっていないように思われる。
なぜこんなに慌ててしまったのだろう?
「それもそうですね、余計なこと言ってすいません」
クリスはそう言ってアレックスの言葉を肯定したものの、納得した様子は感じられなかった。
アレックスは小さく嘆息して思った。
どうやらクリスは先程の発言で、私がマリーを好きだと思ってしまったようだ。
しかし、そんなはずはない。
そもそも、アレックスには結婚どころか、恋愛をする気など全くなかったからだ。
かつてアレックスの姉が、恋愛を経験したことにより身も心もボロボロになって亡くなったのを見た時に、決めたのだ。
恋愛が、何もかも全てを失ってしまう病のようなものならば、最初から避けるべきだと。
あのような最後をとげたくなかった。
アレックスには成し遂げたいことがあるのだ、そのために、リスクと思われるものからはなるべく身を守っていたかった。
だが、なぜこうも胸が痛むのか。
その時、戸が小さな音とともに開いて、マリーが顔を出した。
アレックスはそのやつれた顔を見た瞬間、彼女を捨てたと言う男を殺してやりたい気分になった。
「おはよう、今日は珍しく早いのね」
「うん、なんか掃除するとかなんとかでたたき起こされちゃって、部屋から放り出されたんだ……というかマリー、まだ眠れてないんじゃん。薬学部に知り合いいるから薬貰ってやるって言ってるだろ? ひどい顔だよ」
「失礼ね~まだそこまでひどくないわよ。もっとひどい時あったんだから」
マリーは少しむくれて言った。それからアレックスに気付くと、笑顔を向けてきた。
「教授、おはようございます。いつも早いですね」
「ああ、おはよう。その、本当に大丈夫なのかい?」
「え? 平気ですよこんなの。さあ、今日はなにをするんでしたっけ、ああ、そうか……昨日の金属の続きでしたよね。
えっと……」
「……マリー、そっちじゃなくてこっち」
クリスが、見当違いの場所を探し始めたマリーに言った。
「あ、ごめん」
それから二人はいつものようにやりとりをしながら準備を始めた。
いつものように。
変わりなく。
それがクリスの優しさなのだろう、いつもどおりに接することが。だが、アレックスには出来なかった。と、いうより、どういう訳か口が恐ろしく重い、言葉を発せられる自信がない。
そうか、と妙に腑に落ちる思いがした。
かつて恋人を失ったことで亡くなった姉が言ったとおりだ。
どんなに逃げても追ってくる、決して避けられない、そして、天国か地獄を与えて去っていく。それが人を好きになることなのだと。
気付かないふりをしていたのだ、自分の心すら偽って。そうやって自分の心を守っていたのに、クリスが何気なくした話しでアレックスが築いた防壁はもろくも吹き飛んでしまった。
(そうか、私は彼女が好きなんだ。女性として……)
その事実は、妙に優しくアレックスの心に突き刺さった。