痛み 3
「……な、何!」
マリーは驚いて思わず床に尻もちをついた。
つくづく自分の運動神経のなさが嫌になる。
痛む尻の抗議は放っておいて顔を上げると、整った顔が月光に照らされてこちらを覗き込んでいた。
「……ハウエルズ」
忌々しげにその名を呼ぶと、彼はなぜか嬉しそうに笑った。
「名前覚えててくれたんだ」
「当然よ。私の傑作を持ち逃げした忌々しい悪魔の名前だもの、忘れるわけないでしょ」
そう答えると、ハウエルズは窓からマリーの部屋へ入ってきた。
きちんと施錠したはずなのに、なぜか鍵がきかないらしい。
悪魔だから、と言えばそれまでだが、なんとも腹立たしい気がした。
「それで、何の用なの?」
「あれ、絶対にこの身体を取り返してやるとか息まいてたのに、何もしないんだ」
ハウエルズはからかうように言った。
マリーは眉間に縦じわを刻んだまま口を曲げる。
全く、いったいなんだってこんな時に現れるんだろう。
今のマリーは弱っている。こんな時に来られたら、対抗できる自信がない。
唇を奪われた時の事を思い出し、マリーは胃が痛くなった。
「帰ってよ、今日はあなたの相手してる気分じゃないの」
「ふぅん、もしかしてさ、ハロルドってのが関係してる?」
「……!」
マリーはその名前を聞いた瞬間、思わずハウエルズを睨んだ。
「私の前で、その名前を言うのはやめて!」
思わず声を荒げてしまい、マリーはハッとして口をつぐむ。
ハウエルズは笑っている。
その口元に浮かぶ魅惑的な笑みに、マリーは思わず見入ってしまった。
「復讐したい?」
深い、耳触りのよい声が鼓膜を震わせる。
「俺だったら叶えられるよ、何でも、君が望むものをあげられる。
一緒にいようよ……俺はお前が欲しい」
弱っていた心の隙間をくすぐるように、言葉が脳を揺らす。
「どうして、私なんかにそんなにこだわるの?
そこまでしなくても、魂をとって食らえる人間なんかたくさんいるでしょ?
他の人の所へ行ってよ」
そう言ってから気付く。
他者に押し付けることで目の前の存在から逃げ出したい自分がいることに。
ひどい人間だと思う。
このまま流されたほうが楽なのは理解できる。それでも嫌だった。最後のプライドだ。
「そうだね、自分でも変だと思う。
俺はただ、君のことが知りたい……それには、俺の所へ来てもらうのが一番だからさ」
ハウエルズはそう言いながら、ゆっくりとマリーの近くへ歩み寄ってくる。
マリーは尻もちをついた姿勢のまま、後ずさりした。
ちゃんと人間の服をまとって、堂々と立つ姿は、自分が造形したなどと信じられないくらい、存在感があった。月の光に浮かび上がる輪郭が綺麗だと思った。
声こそアレックスとは違うが、頭の中が混乱するほど、心が騒ぐ。
「君は恋人欲しさにこの身体を作ったんだろう?
なら、俺が魂の代わりをつとめてあげるよ、悪くない話じゃないか。
お互いに欲しいものが手に入るんだ……なのに、なぜ君は頷かないんだ?」
「そ、それは」
そうだ、考えてみればそうだった。
今まで色々なことがありすぎて、じっくりと考えてみる暇などなかった。
マリーは嘆息して、床の上に座りなおした。板張りの床は冷たかったけれど、それが頭を冷やす役に立った。床の上にはうっすらとほこりが積もっている。寮母さんが掃除してくれているとはいえ、自分ではなにもしていないのに、ほこりは溜まっていく。
除去しない限り、そこに積もり続ける。
まるで心の中の痛みのように……。
「私は、あなたのことは好きじゃないのよ。
恋人の代わりとか、そういうのは嫌なの、ちゃんとそこに愛が欲しいのよ」
マリーは疲れたように呟いた。
それを聞いたハウエルズは怪訝な顔をした。
「誰かに愛を求めても裏切られるかもしれない。
それが嫌でこの身体をつくったんじゃないのか?」
ハウエルズの言うとおりだった。裏切られて傷つくのが嫌で、もう一度同じ思いをしたくなくて、マリーはあの「身体」を作ったのだ。
それを恋人のように扱うことで心の隙間を埋めたくて。
けれど、マリーはアレックスに出会ってしまったのだ。
「そうよ、でも気付いたの。
そんなことをしても、自分を苦しめるだけだって……だから、身体を返して。
魂が欲しいなら、それを望む人の所へ行けばいい、どうしても私でなければだめだというなら、しばらく待ってくれればいつかあげるから」
マリーは真っ直ぐにハウエルズを見て言った。
ハウエルズは、なぜか傷ついたような顔をした。
「いつまでも、自分の失敗を残しておきたくないのよ。
お願いだから……返して」
「何で……」
「え?」
「何で俺じゃだめなんだ!」
唐突にハウエルズが叫んだ。
マリーは何故目の前の悪魔がそんなことを叫ぶのか分からなかった。
しかも、その表情はまるで人間のようで、悲痛にゆがんでいる。
「あいつもそうだった……アミーリアも、同じことを」
ハウエルズは独白するように言い、それからハッと我に返った。
慌てて口元に手を当て、悔しげにマリーを見ると、次の瞬間身をひるがえし、風のように窓から出て行ってしまった。マリーは突然のことにただただ呆気にとられるばかりだった。