痛み 2
夜、寮の部屋へ帰ってきて、マリーは不意に床に座り込んだ。
「なんだろ、気力がわかないや」
そう呟いて、ふと衣装がしまわれた箱からはみ出している布地を見た瞬間、心に鋭い針が撃ち込まれたみたいな痛みが走った。
「まだ……あったんだ」
それは淡い緑色のドレスだった。
かつて着ていた服の大半は捨てたはずなのに、まだ一着残っていたらしい。
昔は、こんなふうな研究者になるのではなく、どこかの家に嫁いで妻となり母となるのが当然と思っていた。あれはその頃の残滓だ……。
それとともに、思いだされる光景がある。
心を突き刺すような言葉を耳にするとも知らずに、人々のさざめきの中を縫うように歩いて、小さい頃からこの人と生きていかなければならないんだと教えられた人物を探す。
彼の事はどちらかというと好きだった。
美男子だし、階級も同じ。
賭博や女性との浮ついた噂もあまり聞かないし、女学校の友人たちには羨まれていた。
社交の場でも、彼は理想の存在だった。
その時も彼を探していたのだが、その姿を見つける前に、言葉が聞こえてしまった。
「何が羨ましいものか。
あんな冷血女と結婚しなくちゃならない僕の身にもなってくれよ」
笑い声が上がった。
「そいつはないだろ?あんな美人なかなかいないじゃないか」
「いや、話してみれば分かるよ。言葉こそ穏やかだけど内容とかすごいきついんだ。男がどれだけデリケートか分かってないんだよ。あんなの奥さんにしたら胃がもたないぜ。女としては失格だよ」
なんてひどいことを言う人だろう、そう思ってそちらを見て凍りついた。
それからのことはただ悲しくて苦しくて速くそこから去ることしか頭になかった。家へ帰って泣いた。それからしばらくは勉学に打ち込むことで色々なことを忘れた。
気づくと、勉学の方が楽しくなっていた。
社交の場へは、どうしても、という場合しか顔を出さなくなった。
それでも、言葉は容赦なくマリーを痛めつけ続けた。
(私は、女としては失格……)
その言葉は、今でもマリーの心に突き刺さったまま抜けないトゲになっている。
思えば、マリーには男性もあまり声をかけてこない……そう、つまりそういうことなのだ。
それなら、もうなにも望むまい。女としての幸せは、所詮私には手に入らないものだったのだ。そう言い聞かせて、心をなぐさめた。
折しも、錬金術と出会ったころだった。
しばらくした後、彼が駆け落ちしたという報せが入った。
親や親類にはあんな男と結婚しなくてよかったとなぐさめられたが、噂ではマリーから逃げだしたのだ、とか、婚約者に魅力がないからだとか、借金があったのだろうとか、色々と言われていた。
マリーはますます社交の場から遠ざかるようになり、その時に大学院へと進んだ。
もう結婚とか恋とか愛とかはうんざりだった。
それでも寂しくて、恋人を作るなどとバカげたことをしてしまったのだ……。
そんなことをしなければ、こんな思いをまたしなくて済んだだろうか?
マリーは不意に我に返った。
時々、こんな風にして痛みの海に溺れてしまうことがある。その度に、こんなことではいけないと思うのに、心は言うことを聞いてくれないのだ。
「なんとかして、忘れなくちゃ」
マリーはため息をついて立ち上がると、テーブルの上のろうそくに灯をともす。
食事は済ませてきているし、アレックスの研究内容を教えられ、クリスにこき使われ、くたくただ。シャワーを浴びて早く寝ようと思った。
けれど、なんだか気が落ちつかない。
マリーの視線は自然とテーブルに向かう。
あまりモノの置かれていないテーブルには、ブランデーの瓶と小さなグラスが置かれている。
マリーはそれに手を伸ばした。
すると、不意に窓があき、誰かが入ってきた。