特別 3
「あの、それは本当に教授が研究したものなのですか?」
研究室に、気まずい沈黙が流れる。
クリスが首を何度も横に振る。それ以上何も言うなと言っているのだ。
しかし、マリーは見なかったことにして、言葉を続けた。
心臓の鼓動がひどく大きく聞こえる。今にも飛びだしてしまいそうだ。けれど、ここで言っておかないときっと後悔する。
その一念だけで、マリーは言葉を続けた。
「私はその内容を知っているのですが、別の研究員の行っていたものと同じなのは何故ですか?」
「な、何を言っているんだね。
これはちゃんと私がまとめたものだよ?
助手に手伝って貰ったことならあるからね、きっと君もその時見たんだろう」
教授はそういい逃れると、また咳払いした。
「盗んだんじゃありませんよね?」
マリーは言った。
教授の顔がみるみる赤くなっていくのが分かる。
クリスが泣きそうな顔をしているが、マリーは笑って見せた。
言ってしまえばどうなるのかは分かっていたのだから、気にしなくていいのよ……。
そう言ってあげたかったが、それは後だ。
「それ以上言ったらどうなるか分かっているのかね?」
「はい。それは別の研究員が書いたものです。
私はそれを手伝っていたので間違いありません、元の持ち主に返して下さい」
マリーは言った。なんだか涙が出そうだ。
「そうか、しかし残念だがこれは私の研究だ。
言いがかりはよして貰いたい……後で私の部屋に来るように、分かっているね?」
「分かっています。
でも、それは返して下さい!」
「まだ言うのかね……もう君はここに来なくていい!」
ついに教授も声を荒げた。
マリーの目から透明なしずくが流れ落ちる。分かっていたが、やはり、こみ上げる感情の渦に流されてしまう自分をとめられない。
「認めて下さるまで、言い続けます!」
マリーは涙声で叫んだ。
教授が、忌々しそうに言葉を発しようとした時、静かな声が割って入った。
「少しよろしいですか?」
アレックスが無表情のまま言った。
その場の全員がアレックスに視線を集中させる。
「なんだね?」
「発言してもよろしいですか?」
「かまわんよ……言いたいことがあるなら言いたまえ」
「ありがとうございます。
それでは……」
アレックスは表情を変えないまま口を開いた。
「私の記憶によると、その研究を行っていたのはクリス・クローネという研究員です。
教授はここしばらく、集まりなどにお出かけになっており、ひとつも研究をしておりませんが、間違いありませんか?」
アレックスが言うと、教授は目を丸くした。
「と、突然何を言い出すんだね君は……」
「いえ、時期尚早かとも思ったのですが、良い機会ですからここで言わせて頂きます。
私は、学会の方から貴方の不正の証拠を探すようにと頼まれていたのですよ」
アレックスの言葉に、教授の顔が強張った。
しかし、それには構わず、アレックスは淡々と事実を述べ続けた。
「確かに、貴方は学会とそれに連なる方々にとって有益となる研究を優先してくださるありがたい存在なのですが、それ以上に、学会の上層部は汚点を嫌うのです。
今まで積み上げてきた権威を貶めるような行為が、いつまでも出来るとお思いでしたか?」
そう告げて、アレックスは懐から一枚の紙を取り出した。
「これを御覧くだされば、私が嘘を言っていないことは分かるはずです。
少々早いのですが、貴方には刑罰の執行がなされるでしょう。
今までしたことも全て公にさらされます」
アレックスは紙を教授に渡すと、ため息をついた。
「では、本日からここの教授は私となります。
皆さん、よろしくお願いします。
ワイアー教授ではありませんが、有益な研究は優先的に学会へと回しますので、励んで頂きたいと思います……それでは、私は挨拶のような時間の無駄は嫌いですので、本日以降行いませんが、何か質問があれば遠慮なく訊ねてきて下さい」
アレックスはそう締めくくった。
マリーは涙にぬれた顔をぬぐうことも忘れて、今の状況はなんだろうと考えていた。
頭が真っ白で、なかなか理解できないが、まわりの研究員たちが、ざわつきはじめ、しばらくしてちょっとした歓声が上がった時、やっと我に返った。
慌てて顔をそででぬぐって、クリスを見る。
彼はマリーより呆然として見えた。
身動き一つしないで、ぼんやりと中空を眺めている。
そこへ、アレックスがやってきて、教授が手にしていた研究書類をクリスに返した。
「さあ、改めてきちんと最後まで仕上げてから私に渡して下さい。
期待していますよ」
「………あ、は、はいっ!
あの、ぁ、あ、あ、ありがとうございますっ!」
クリスの目に、光るものを認めて、マリーもなんだかまた泣きたくなってしまった。
クリスは戻ってきた自分の研究書類を大切そうに撫でた。
「あの、僕頑張ります……」
「ぜひそうしてくれたまえ。
その内容は実に興味深い……まさかこんなに早く彼を追い出すことになるとは思わなかったが、それだけの価値がその研究にはある。
楽しみにしているよ」
「はいっ!」
クリスは嬉しそうに返事した後、またしばし書類に見入っていた。
マリーはただただ嬉しくて、その様子をじっと眺めていた。
すると、アレックスがそれに気づいて、マリーの傍に歩み寄ってきた。
心臓が勢いよくはねた。
「よくあの状況で彼をかばったね。
すごい勇気だと思うよ……やはり、君を助手に選んで良かった。
その熱意と誠実さをずっと大切にするんだよ」
アレックスはそう言ってほほ笑むと、マリーの頭をぽんぽんと叩いてくれた。
その瞬間、マリーは理解した。
あぁ、そうか、私はこの人が好きなんだ……と。
あの時逃げだしてしまったのは、嫌だったからだ。自分以外の他の女性に対しても、同じことをしているのを見るのが。
彼の、特別でありたい。
マリーはまた涙をうっすらとにじませながら思った。
「あの、私……頑張ります。
クリスのこと、ありがとうございました」
「なに、遅かれ早かれこうなっていたんだ。
死期を早めたのは教授自身だよ……さあ少し休んでから、仕事に取り掛かろう」
「はい!」
マリーは頭に置かれた大きな手が嬉しくて、笑顔で返事した。
いつか、この人に認められるような研究をして、役に立とう。
他に出来ることになんて、自分にはない。
マリーは、自分が女性としてはどうしようもなくダメだということはよくわかっていた。だから、せめて仕事で彼の役に立てればいい。
そう思った。
微かな胸の痛みには目をつぶろう。
気にしていても、先には進めない。
この厄介な感情に振り回されるのは嫌だった。
以前、そういう思いをしたことがあるから。
マリーはアレックスが頭から手をどけた後で、軽く会釈してから休憩室に引っ込んだ。