特別 2
部屋の戸をあけると、ソファでひっくり返っている人物に目がとまる。
マリーは申し訳なさそうにその人物に近づいた。
「寝てるの……?」
そう小さくつぶやくと、寝ている人物、クリスがぱっ、と目を開けた。
そしてマリーを見ると、怒りの形相のまま起き上がる。
「あれ? 寝足りないのかな? 目の前にうそつきが見えるんだけど……?」
「ご、ごめんなさいごめんなさい!
一回寮に帰って寝てきたの……彼もちゃんと見つかって、まあ逃げられたけど」
「……ふ~ん、つまり、僕のことは忘れてたって訳だ?」
「ちゃ、ちゃんと埋め合わせするから!
本当にごめんなさいっ!」
マリーは謝りに謝った。
クリスはしばらく何も答えなかったが、少しして言った。
「お腹すいた」
マリーははっ、として、
「じ、じゃあ何か買ってきてあげる。何がいい?」
「甘いパン、なるべくたくさん」
「分かった! 行ってくるから待ってて」
マリーは急いで休憩室を出ると、大学院入口近くにあるパン屋に向かって走り出した。
なんだか今日は走ってばかりな気がする……。
焼きたてを買い、大学院へ戻るときは流石に歩いた。ジャムを入れたものや、高価な砂糖やバターを使うケーキ類は結構高いが、埋め合わせと思えばそんなに気になるほどではない。
現在では精製技術が発達して、昔より上質の小麦粉や砂糖が手に入るようになったから、値段も庶民に手が届く範囲になっている。
といっても、マリーの実家は上流階級だから、庶民ではない。
けれど、マリーはひとりで自活しており、収入もさほど多くなく、日頃買うものは庶民と大差ない。
ちなみに、クリスは酒屋の次男坊で、稼業は兄が継いだため、自分は興味のあった錬金術の研究をする道を選んだのだと教えられたことがある。
大学院内に戻り、休憩室へ行くとクリスはもうそこにはいなかった。
室内にいた助手仲間に訊ねると、第二研究室へ行ったと返事が返ってきた。マリーがそちらへ向かうと、クリスは中で何やら探し物をしていた。
「なにしてるの?」
「あ~お帰り。
いや、マリーに手伝って貰おうと思ってた研究の資料が見当たらないんだ。
確かここに置いたはずなのに」
と言いながら、机の下や、引き出しを片端から開けていくクリス。マリーは適当な台の上にパンの入った袋を置いて言った。
「手伝うわ」
「ああ、でもそろそろ教授挨拶の時間だ。探しものはそのあとだな……たっぷり手伝ってもらうからな!」
「分かってるわよ。徹夜でも何でもお付き合いします。迷惑かけちゃったんだもの」
マリーはそう答えてから、パンの袋をクリスに渡した。
「はい、後で食べて」
「おお、焼きたてか~、ラッキー。
こいつは取られないように僕の荷物に入れとかないと」
クリスはパンを手にして嬉しそうに笑った。
いつもの第一研究室へ行くと、助手や研究員たちが集まってきていた。リサもいる。彼女と目が合うと、マリーは苦笑いを浮かべた。リサはマリーを見つけると傍までやってきて、こそりと耳打ちしてきた。
「後でいいから詳しいこと教えてね」
「う……うん」
マリーは内心の動揺を悟られないようにしようとして、笑顔を浮かべた。
すると、教授室の扉を開けて、ワイアー教授が現れた。
いつものようにもったいつけた動作が気にいらない。
「諸君、今日はまず発表したいことがある」
突き出たおなかを撫でながら、ワイアー教授は笑って、後ろのアレックスに合図した。
アレックスは持っていた書類を教授に渡す。
「このたび、新しい論文を発表出来る機会に恵まれた。
内容を聞いて欲しい」
そう言うと、咳払いをひとつして、喋りだす。
マリーは最初はまたか、と黙って聞いていた。
教授は様々な論文を書き上げて、学会に発表しているが、その大半が大したことのない、どちらかといえば、上層部に媚を売っているような研究ばかりだ。
大半は足蹴にされて、ほとんど検討もされないまま終わる。
そのあとやってくる八つ当たりが迷惑なのだ。
だが、今回はいつもと違った。
内容もきちんとしている。しかし、なんだろう、どこかでこの内容を見た気がする。
嫌な予感がして、よくよく周囲に目をやると、クリスが青ざめているのが分かった。
マリーは瞬時に理解した。
かつて、同じ目にあったことがあるからだ。
まだマリーがここに入りたての頃、まわりの圧力でやめさせられそうになったのだが、その時教授があるものと引き換えに救ってくれたことがある。
それが、マリーの研究内容を記した論文を、教授が書いたもののように発表することだった。
まだ研究員として未熟だったため、その発表は一蹴されたものの、マリーは残ることができた。そのあとで認められる内容のものを提出したため、マリーはきちんと残れることになったのだ。
しかし、これはそれとは違う。
噂では聴いていたけれど、信じたくなかった。
けれど、教授が読み上げる内容を聞けば聞くほど、手伝わされまくった時の記憶がよみがえる。
クリスは強く拳を握っている。
ここで逆らったらもう二度とここへは戻れないからだ。
(そんな、こんなことってないよ……)
マリーは強い憤りで、胃のあたりがぎゅっと痛むのを感じた。
他の仲間も気づいたらしく、時々気の毒そうな視線をクリスに送っている。
(このまま黙っているなんて……!)
マリーは自分のことを考えた。ここで声をあげたら、終わりだ。けれど、胸にこもった憤りはどうしても黙っていてくれない。感情のままに行動してはだめだ。
そう言い聞かせる。
しかし、マリーは我慢が出来ず、口をひらいた。