特別 1
目が覚めると、まだ外は暗かった。
「あれ、まだ夜かな?」
しかし、閉められた窓を見やると外はほの明るくなっている。
早朝のようだった。空気もやや肌寒く、マリーは上掛けを身体に巻いて、目を凝らす。
本当になにもない部屋だなと思う。
それはそうだろう、寝るのと荷物置き場くらいにしか使っていないのだから。
ここにいるのはただ単に、両親だけでなく親戚や知り合いに結婚の事をうるさく騒がれるのが嫌でたまらなかったからだ。
以前は家から大学院に行っていたのだが、いつ辞めるのかとか、いい人がいるのなら紹介しろだとか、社交の場にはちゃんと出て来いとか、帰るたびに言われるのだ。
そうやって、いいなりになってしまえば、こんなことをするのを止めてしまえば、きっと辛くないだろうとも思う。
それでも止めないのは、意地というより、ただただ楽しくて仕方ないからだ。
結婚適齢期ももうすぐ過ぎてしまう。
過ぎてしまったらおしまいだと嘆かれても、止めたくなかった。
ここの匂いが好きだ、変な器具や怪しい書籍を愛している。
だからまだここにいたい……。そのためだけに、妙なことになってしまったけれど。
とそこまでぼんやりした目覚めていない頭で考えて、思いだした。
「そうだ!クリスのこと忘れてた!」
アレックスに見つかってしまったことがショックで、頭が真っ白になってしまった。そのうえ許してもらえた安心感から、色々なことを忘れてしまっていたらしい。
「なんてことよ!
どうしよう、まだ探してるとかそんなことないわよね……」
マリーは慌ててベッドから抜け出て、姿見の前に立ち、着の身着のまま寝てしまったことを後悔した。ローブは脱いだが、下に着ていた服がしわくちゃだ。
なんとか着られそうなものをと服をしまった箱をあさり、淡い黄色のワンピースを取り出して着替える。
後でここの寮の管理人さんのところに洗濯物を頼みに行かなくては……。
あのひとのことは苦手だが仕方ない。
マリーはため息をつくと、急いで部屋を出た。
◆◆◆
大学院へは寮から歩いて数分のところにある。
今日の天気は少し曇りらしい。もうすぐ、暑くてウンザリする夏がやってくると思うと、気分はやや落ち込んだ。
マリーは夏が嫌いだ。
暑くて研究に集中できないからか、ミスを連発したことがあるのだ。
いつかは錬金術で氷を大量に作れないかと頑張ったが、涼しくなるところっ、と忘れてしまうのでまるで進展しない。
今年は早めに取り組もう。そう決め、大股に歩きだすと、ふと前方に見た背中を見つけた。
アレックスがいた。
マリーは挨拶をしよう、と思ってそちらへ足を向けた。
だが、アレックスの傍に誰かいる。服装からして、女生徒のようだった。
頬が上気して赤くなっている。嬉しそうに楽しそうに話すその姿を見て、マリーは思わず足をとめた。
(あれ、足が動かない……)
ただ近づいて、挨拶してくるだけなのに、どうしても足が動いてくれない。
マリーは理由のわからないまま、しばらく立ちつくして様子を見ていた。
アレックスと女生徒の方は、マリーに気付かず、何か話している。助教授なので、講義などもしているはずだが、彼はまだ来たばかりだ。
女生徒の目的は、きっとアレックスと話すことだろう。
錬金術に興味がある振りをして近づこうとしているのかもしれない……。
あれだけ整った顔立ちの人物はそうそういないからだ。
そういう女生徒は、今までもたまに見てきた。その時はただ微笑ましかったのに。なんだろう、すごく、もやもやする。
(早く行かなきゃ……クリスが待ってるかもしれないのに)
マリーはアレックスへの挨拶は後回しにして、先にクリスに謝ろうとして、なかなか動いてくれない足を叱咤して歩き出す。
その時、マリーの視界に入ったのは、アレックスが優しげな笑顔で女生徒の頭をぽんぽんと優しく叩く光景だった。
「……っ」
胸にナイフが突き刺さったかのような鋭い痛みが走る。
昨日、マリーの頭を優しく叩いた時と同じように、アレックスは優しく微笑んでいる。
マリーは不意に泣きたくなり、走り出した。
嗚咽をこらえて、涙が流れないように唇をかむ。泣きたくなかった。こんなどうでもいいことで泣くような自分なんて嫌だった。
必死で抑えていると、涙はやがて引っこんで、マリーは学内を走っていた。
そして、いつもの小さな研究室にたどり着くと、大きく息をする。
理由がよく分からなかった。
なぜ逃げだしたのか? なぜ泣きそうになったのか?
マリーにとって、アレックスとはただの上司だ。しかも理解のある、顔が好みの、優しい上司。
それだけ、それだけのはず。
「そうよ、それだけ」
けれど、もしかしたら、これが「恋」というものなのだろうか?
マリーは今まで「恋」というものを経験したことがなかった。
友達に説明されてもよくわからなかった。だからずっと「恋」することに憧れてきた。
ただただ、楽しそうなカップルが羨ましかった。幸せそうな若夫婦を見ては温かな気持ちになった。なのに、もしそうだとしたら、なんでこんなに胸が痛いのだろう?
もっと、浮き浮きするものだと考えていた。
マリーはため息をついた。
もうこのことについて考えるのはやめよう。それより、今はクリスを探して謝らなければ。
考えても分からない感情に振り回されるのはごめんだった。
気持ちが落ち着いたところで研究室を出て、マリーは知り合いや、通りががった人にクリスを見なかったかと聞いて回った。
やがて、休憩室でぶっ倒れてるよという返事が返ってきて、マリーは慌てて休憩室に急いだ。