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嘘つきの僕は、君を選ぶ

作者: 白凪しおり
掲載日:2026/03/27


テレビの音が、朝の空気に混ざっている。


『——昨夜未明、○○市で不可解な現象が確認され——』


「ねえこれ、絶対さ、人じゃないよね?」


パンをくわえながら、山田ミカが顔をしかめる。


「怖くない?こういうの。もし近くにいたらさ、どうする?」


「どうするって言われてもなぁ」


ソファに寝転がったまま、山田宗一郎は気のない声を返す。


「別に、見分けつくわけでもないし」


「いや無理無理!普通わかるって!」


「そうか?」


「そうだよ!だって——」


「ほら二人とも、いい加減にしなさい。遅れるわよ」


キッチンから母親の声が飛ぶ。


「はーい」


ミカは最後の一口を押し込んで、立ち上がった。


テレビはまだ何かを伝えている。

けれど誰ももう、聞いていなかった。


---


コンビニの前で待つのが、いつのまにか習慣になっていた。


高校一年の頃、偶然同じ時間に居合わせて。

何度かそれが重なって、気づけば「じゃあ明日もここで」と言うようになった。


それだけのことだ。


だから、彼の家は知らない。


「お、いたいた」


眼鏡の彼がこちらに気付いた。


東堂美影。


「……おはよう」


「おはよ」


それだけで、並んで歩き出す。


ミカも一緒だ。


「ねえねえ、さっきのニュースのやつさ——」


さっそく話し始める声に、曖昧に相槌を打つ。


怖いよね、という言葉。

人間じゃない何か、という言葉。


表情は動かさない。


動かす必要がないからだ。


けれど——


心の奥で、小さく、何かが軋んだ。


ミシッ、と。


「……」


気づかないふりは、できる程度の音だった。


「じゃ、あたしこっち!」


ミカが途中で手を振る。

曲がり角の向こうに友達を見つけたらしい。


「おー、気をつけろよ」


「はーい!」


軽い足取りで去っていく背中を見送る。


二人きりになる。


数歩、歩いたところで。


「ん?」


宗一郎がこちらを覗き込んだ。


「元気なくない?」


「……そう?」


「なんか、ぼーっとしてる」


少しだけ、間を置く。


「寝不足」


そう言った。


小さな嘘だった。


——その瞬間。


胸の奥が、じわりと重くなる。


息が浅くなる。


「……」


一瞬だけ、足が止まりかけた。


「大丈夫か?」


「……うん」


もう一度、嘘を重ねる。


さっきよりも、少しだけ深く。


違和感が残った。


けれど、その時はまだ——


ただの体調の問題だと思っていた。


---


最初の嘘は、名前だった。


「藤堂美影」


そう名乗った。


本来の名は、この世界の発音では表せない。

だから、適当にそれらしいものを選んだ。


それだけのことだった。


こちらの世界に来た理由も、単純だ。


人間は、嘘をつく。


それも日常的に、何のためらいもなく。


理解できなかった。


だから、見てみたくなった。


——ただ、それだけ。


自分たちの世界では、嘘をつく必要がない。

隠すものがないからだ。


だから、軽い興味だった。


少し観察して、帰るつもりだった。


そのはずだった。


---


体調の異変に気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。


最初は偶然だと思った。


少しだるい。

食欲が落ちる。


その程度のこと。


けれど——


「大丈夫」


「なんでもない」


「平気だよ」


そういう言葉を使うたびに、同じ感覚が積み重なる。


重くなる。

削られる。


呼吸が浅くなる。


ある日、ふと気づいた。


——嘘をついた時だけだ。


試すように、意図的に言葉を選ぶ。


本当のことを言った時は、何も起きない。


嘘を言った時だけ、確かに削れる。


仮説は、すぐに形になった。


けれど理由はわからない。


自分たちの世界に、そんな例はなかった。


共存しようとした者など、いなかったからだ。


人間に紛れ、長く留まろうとした存在も。


だから——


知らなかった。


こんな代償があるなんて。


---


教室は、いつも通りのざわめきに満ちていた。


笑い声。

机を叩く音。

誰かの陰口。


その全部が、混ざっている。


藤堂は、自分の席に座っていた。


話しかけてくる者はいない。


来たとしても、それは——


「藤堂ってさ、ほんと何考えてるかわかんないよな」


聞こえるように言われた言葉。


笑い声。


「無視されてんじゃね?」


「いや、あれ素でしょ」


表面上は、何も起きていない。


誰もこちらを見ていない。


でも、全部聞こえている。


(……)


不快ではない。


そういうものだと理解しているからだ。


人間は、嘘をつく。


表では笑い、裏では違う言葉を使う。


それだけのこと。


「藤堂」


不意に、声が落ちてくる。


顔を上げると、宗一郎が立っていた。


「ノート貸してくんない?」


「……いいよ」


差し出す。


「サンキュ」


何でもない調子で受け取った宗一郎は

そのまま、隣の席に座る。


特別なことは何も言わない。


気を遣う様子もない。


ただ、そこにいる。


「今日さ、昼どうする?」


「……別に」


「じゃ、一緒に食おうぜ」


それだけ。


理由も、説明もない。


(……変なやつだ)


最初はそう思った。


けれど——


その言葉に、嘘がないことはわかる。


好意を誇張するわけでもない。

距離を詰めるわけでもない。


ただ、自然にそこにある。


それが——


少しだけ、心地よかった。



昼休み。


屋上へ向かう途中で、小さな騒ぎがあった。


「え、ちょっと待って、消えたんだけど」


女子の声。


手すりに置いていたはずのスマートフォンがないらしい。


「さっきここに置いたって言ってたじゃん!」


「いやマジで!ほんとに!」


ざわつく空気。


疑いの視線が、周囲を巡る。


その中に、一瞬だけ——


藤堂も含まれた。


(……)


ありえないことではない。


“そういう役”に見えるのは理解している。


その時。


「いや、あるじゃん」


宗一郎が、あっさり言った。


「あんたさ、普通に見落としてるだけじゃん」


「え、うそ!?」


「うそじゃないって」


軽く笑う。


確かに手すりの上に置かれたスマホがそこにはあった。


場の空気が、一気に緩む。


「あーよかったー!」


「疑ってごめんねー!」


誰にともなく向けられる言葉。


けれどもう、視線は藤堂から外れていた。


(……)


宗一郎は、何も言わない。


こちらを見もしない。


ただ、いつも通りに歩き出す。


「ほら、行くぞ」


それだけ。


——嘘だった。


スマートフォンは、最初からそこにはなかった。


宗一郎が階段の影に落ちていたものを置いたのだ。


一瞬だけ見えた動きで、それがわかる。


「……どうして」


思わず、口に出る。


宗一郎は、少しだけ振り返って、


「ん?」


「いや、別に」


それ以上は言わない。


問い詰めることもしない。


ただ——


(ああ)


理解する。


あれは、誰かを守るための嘘だ。


傷つけないための嘘。


自分の世界には、なかったもの。


胸の奥が、強く軋む。


ミシッ、と。


さっきよりも、はっきりと。


(……)


気づいてしまった。


自分は——


この場所に、いたいと思っている。


---


「藤堂って、珍しいよな」


帰り道、ふと宗一郎が言った。


「……そう?」


「うん。あとさ」


少し考えてから、


「美影って、なんか綺麗な名前だな」


そう言って、笑った。


「……」


言葉が、出なかった。


それは嘘でできた名前だった。


意味も、由来もない。


ただの仮のもの。


それなのに。


その名前で呼ばれるたびに、

少しずつ、自分のものになっていく気がした。


胸の奥で、また何かが軋む。


さっきとは違う種類の音だった。


---


「藤堂さ、今日放課後空いてる?」


珍しく、クラスメイトの方から声をかけられた。


数人がこちらを見ている。


「みんなでちょっと遊びに行くんだけど」


間が空く。


「……ごめん」


藤堂は首を横に振った。


「今日はちょっと」


「そっか」


それだけ言って、相手は引いた。


小さく、


「やっぱりな」


と呟く声が、聞こえた。


(……)


別に、気にはならない。


そういうものだと理解している。


「行かねーの?」


隣から、宗一郎の声。


「……うん」


「なんで?」


少しだけ、考える。


「体調、あんまりよくなくて」


嘘だった。


けれど——


完全な嘘でもなかった。


最近は確かに、ずっと体が重い。


「そっか」


宗一郎はそれ以上聞かない。


(……)


内心で、言葉が落ちる。


(話せば、嘘が増える)


(嘘をつけば、削れる)


(……それなら)


(宗一郎と過ごす時間が、減る)


だから——


避けていた。


(無駄に、減らしたくない)


(この時間を)


---


その日の帰り道。


不意に、音がした。


鈍い衝突音。


「っ……!」


振り向くと、宗一郎が倒れていた。


自転車と接触したらしい。


地面に広がる赤。


「宗一郎!」


駆け寄る。


意識はある。


けれど、出血が多い。


(まずい)


手を伸ばそうとした、その時。


「ちょっと!素人は触らないで!」


通りかかった大人の声。


一瞬、止まる。


けれど——


「……違う」


気づけば、口が動いていた。


「慣れてる。こういうの」


嘘だった。


この世界で、そんな経験はない。


けれど——


手を離すわけにはいかなかった。


触れる。


そのまま、意識を集中させる。


内側の何かを、削るように。


流し込む。


見えないものが、わずかに歪む。


裂けた皮膚が、ほんの少しだけ戻る。


致命傷には、ならない程度まで。


「……っ」


視界が揺れる。


「大丈夫、大したことない」


そう言った。


それも、嘘だった。


---


救急車の中。


宗一郎は、意外と落ち着いていた。


「なんか、思ったより平気だわ」


「……そう」


「血すごかったけどな」


軽く笑う。


その言葉に、何も返せなかった。


---


その夜。


帰宅してすぐ、床に崩れ落ちる。


「……っ」


喉の奥から、熱いものが込み上げる。


吐き出す。


赤。


止まらない。


(……そうか)


理解する。


これは——


さっきの嘘の分だ。


体の奥が、明らかに削れている。


呼吸が、うまくできない。


それでも。


(……後悔は、ない)


---


翌日。


昼休み。


「食わねーの?」


宗一郎がパンをかじりながら言う。


「……うん」


「最近ずっとじゃね?」


「……そうかも」


「朝とか夜は?」


少しだけ、間が空く。


(これ以上は)


(嘘をつけない)


「……食べてない」


そう答えた。


初めて、本当のことを言った。


「……え?」


宗一郎の動きが、止まる。


「マジで?」


「……うん」


それ以上、言葉は続かない。


(……)


何かに、気づきかけている。


そんな空気だけが、残る。


---


それでも。


次の日も、その次の日も。


二人は、同じように並んで歩いた。


会話は少し減った。


間が、少し長くなった。


「……寒いな」


「……うん」


それでも、隣にいる。


それだけで、よかった。


---


やがて冬が来て。


終わりが、近づいていた。


「なあ、明日ちょっと行かね?」


金曜日の放課後、宗一郎が言った。


「前にさ、行ったとこ」


少しだけ、考える。


記憶の奥に、ぼんやりとした景色が浮かぶ。


「……いいよ」


それだけ答えた。


---


待ち合わせ場所に着いたとき、宗一郎が少しだけ目を細めた。


「……眼鏡は?」


「あ」


その時になって、気づく。


かけていない。


「……まあ、いいか」


宗一郎はそれ以上何も言わなかった。


ただ、そのまま歩き出す。


---


電車に乗り込む。


窓の外には、雨。


細かい水滴が、いくつも流れていく。


進行方向から後ろへ向かってーー。


いくつも、いくつも重なりながら。


そのまま、景色を歪めていく。


「……」


ぼんやりと、それを見ていた。


やがて、電車がトンネルに入る。


一瞬で、外の光が消える。


窓に映るのは、暗闇と——


窓に張り付いた水滴だけ。


それが、光を拾って、点々と浮かぶ。


まるで、どこか遠くの。


小さな光が散る、夜の空みたいに見えた。


(……)


「藤堂」


「……なに」


「雪」


顔を上げる。


トンネルを抜けていた。


さっきまでの雨が、いつのまにか白に変わっている。


小さな粒が、ゆっくりと落ちてくる。


「……あぁ」


それだけ返した。


ガタン、ゴトン、と電車が揺れる。


連結部分が軋む音が、やけに大きく聞こえた。


誰も話さない時間が、続く。


それでも——


隣にいる。


---


降りた場所は、静かだった。


人も少ない。


白いものが、ゆっくりと積もり始めている。


歩くたびに、足元で小さな音がする。


「……懐かしいな」


宗一郎が言う。


「……そうだな」


うっすらと、思い出す。


ここに来たこと。


何を話したかは覚えていない。


でも、隣にいたことだけは覚えている。


---


湖は、ほとんど動いていなかった。


表面に、薄く氷が張りかけている。


その隙間から、水が静かに覗いている。


光が反射して、揺れていた。


白と、淡い青と。


その中に、ただ立っていた。


冷たい光が、肌に当たる。


何もしていないのに、やけに白く見えた。


「……」


息を吐く。


白くなって、すぐに消える。


雪が、落ちてくる。


髪に、肩に、触れては消えていく。


長いまつ毛の先に、ひとつ乗る。


そのまま、溶けずに残った。


視界の中で、世界が少しだけ柔らかくなる。


藤堂の淡い色の瞳に、光が揺れる。


「……やっぱ似合うな」


宗一郎が、ぽつりと呟いた。


「なにが」


「こういうとこ」


それ以上は言わない。


聞き返すことも、しなかった。


ただ、並んで立つ。


何も起きない時間。


何も言わない時間。


それでも——


十分だった。


---


少しだけ、ふらつく。


足元が、曖昧になる。


「……大丈夫か」


「……うん」


反射的に、そう答える。


嘘だった。


でももう、何も起きなかった。


削れるものが、残っていないのかもしれない。


(……ああ)


ぼんやりと、思う。


終わりが近い。


それでも。


(……よかった)


ここに来れて。


隣にいられて。


視界が、少しずつ白くなる。


雪のせいか、それとも——


もうわからない。


そのまま、少しだけ目を閉じた。


---


夜の公園は、静かだった。


昼間は子どもたちの声で満ちている場所も、今は誰もいない。


街灯の光が、白く地面を照らしている。


遠くで、車の音がする。


空を見上げる。


雲の切れ間から、わずかに星が見えた。


(……)


どこか、似ている気がした。


あの電車の窓に映った光に。


もう、確かめることはできないけれど。


---


呼吸が、浅い。


視界がぼやける。


隣に、気配がある。


「……おい」


宗一郎の声だ。


少しだけ、焦っている。


「無理すんなって言っただろ」


返事をしようとして、できなかった。


声が出ない。


体が、動かない。


でも——


意識だけは、妙にはっきりしていた。


(ああ)


そうか、と思う。


ここまで来たんだ、と。


ずっと続けてきたものの、終わり。


言わなかったこと。

言えなかったこと。


全部、そのままにして。


それでも。


後悔は、なかった。


視界の端で、彼が何か言っている。


聞き取れない。


けれど、わかる。


(優しいな)


そう思った。


だから——


心の中でだけ、言葉を結ぶ。


——だから僕は、君を選んだんだ。


---


ふっと、力が抜ける。


わずかに、口元が緩む。


それは、誰に見せるでもない表情だった。


ただ、そこに残った。


静かに。


まるで、何も変わらないもののように。


宗一郎は、その瞳から最後まで目を離さなかった。

まるで、何かを見届けるみたいに。


---


ここで生まれて、ここで散りゆく。


寒い冬空の下、

まだあたたかな体温の中で。


散った彼の名前は、藤堂美影であった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


もしも、あなたの隣にいる誰かが、

少しだけ言葉を選んでいるのだとしたら。


それは、優しさかもしれません。


——どうか、そのままで。


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