嘘つきの僕は、君を選ぶ
テレビの音が、朝の空気に混ざっている。
『——昨夜未明、○○市で不可解な現象が確認され——』
「ねえこれ、絶対さ、人じゃないよね?」
パンをくわえながら、山田ミカが顔をしかめる。
「怖くない?こういうの。もし近くにいたらさ、どうする?」
「どうするって言われてもなぁ」
ソファに寝転がったまま、山田宗一郎は気のない声を返す。
「別に、見分けつくわけでもないし」
「いや無理無理!普通わかるって!」
「そうか?」
「そうだよ!だって——」
「ほら二人とも、いい加減にしなさい。遅れるわよ」
キッチンから母親の声が飛ぶ。
「はーい」
ミカは最後の一口を押し込んで、立ち上がった。
テレビはまだ何かを伝えている。
けれど誰ももう、聞いていなかった。
---
コンビニの前で待つのが、いつのまにか習慣になっていた。
高校一年の頃、偶然同じ時間に居合わせて。
何度かそれが重なって、気づけば「じゃあ明日もここで」と言うようになった。
それだけのことだ。
だから、彼の家は知らない。
「お、いたいた」
眼鏡の彼がこちらに気付いた。
東堂美影。
「……おはよう」
「おはよ」
それだけで、並んで歩き出す。
ミカも一緒だ。
「ねえねえ、さっきのニュースのやつさ——」
さっそく話し始める声に、曖昧に相槌を打つ。
怖いよね、という言葉。
人間じゃない何か、という言葉。
表情は動かさない。
動かす必要がないからだ。
けれど——
心の奥で、小さく、何かが軋んだ。
ミシッ、と。
「……」
気づかないふりは、できる程度の音だった。
「じゃ、あたしこっち!」
ミカが途中で手を振る。
曲がり角の向こうに友達を見つけたらしい。
「おー、気をつけろよ」
「はーい!」
軽い足取りで去っていく背中を見送る。
二人きりになる。
数歩、歩いたところで。
「ん?」
宗一郎がこちらを覗き込んだ。
「元気なくない?」
「……そう?」
「なんか、ぼーっとしてる」
少しだけ、間を置く。
「寝不足」
そう言った。
小さな嘘だった。
——その瞬間。
胸の奥が、じわりと重くなる。
息が浅くなる。
「……」
一瞬だけ、足が止まりかけた。
「大丈夫か?」
「……うん」
もう一度、嘘を重ねる。
さっきよりも、少しだけ深く。
違和感が残った。
けれど、その時はまだ——
ただの体調の問題だと思っていた。
---
最初の嘘は、名前だった。
「藤堂美影」
そう名乗った。
本来の名は、この世界の発音では表せない。
だから、適当にそれらしいものを選んだ。
それだけのことだった。
こちらの世界に来た理由も、単純だ。
人間は、嘘をつく。
それも日常的に、何のためらいもなく。
理解できなかった。
だから、見てみたくなった。
——ただ、それだけ。
自分たちの世界では、嘘をつく必要がない。
隠すものがないからだ。
だから、軽い興味だった。
少し観察して、帰るつもりだった。
そのはずだった。
---
体調の異変に気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。
最初は偶然だと思った。
少しだるい。
食欲が落ちる。
その程度のこと。
けれど——
「大丈夫」
「なんでもない」
「平気だよ」
そういう言葉を使うたびに、同じ感覚が積み重なる。
重くなる。
削られる。
呼吸が浅くなる。
ある日、ふと気づいた。
——嘘をついた時だけだ。
試すように、意図的に言葉を選ぶ。
本当のことを言った時は、何も起きない。
嘘を言った時だけ、確かに削れる。
仮説は、すぐに形になった。
けれど理由はわからない。
自分たちの世界に、そんな例はなかった。
共存しようとした者など、いなかったからだ。
人間に紛れ、長く留まろうとした存在も。
だから——
知らなかった。
こんな代償があるなんて。
---
教室は、いつも通りのざわめきに満ちていた。
笑い声。
机を叩く音。
誰かの陰口。
その全部が、混ざっている。
藤堂は、自分の席に座っていた。
話しかけてくる者はいない。
来たとしても、それは——
「藤堂ってさ、ほんと何考えてるかわかんないよな」
聞こえるように言われた言葉。
笑い声。
「無視されてんじゃね?」
「いや、あれ素でしょ」
表面上は、何も起きていない。
誰もこちらを見ていない。
でも、全部聞こえている。
(……)
不快ではない。
そういうものだと理解しているからだ。
人間は、嘘をつく。
表では笑い、裏では違う言葉を使う。
それだけのこと。
「藤堂」
不意に、声が落ちてくる。
顔を上げると、宗一郎が立っていた。
「ノート貸してくんない?」
「……いいよ」
差し出す。
「サンキュ」
何でもない調子で受け取った宗一郎は
そのまま、隣の席に座る。
特別なことは何も言わない。
気を遣う様子もない。
ただ、そこにいる。
「今日さ、昼どうする?」
「……別に」
「じゃ、一緒に食おうぜ」
それだけ。
理由も、説明もない。
(……変なやつだ)
最初はそう思った。
けれど——
その言葉に、嘘がないことはわかる。
好意を誇張するわけでもない。
距離を詰めるわけでもない。
ただ、自然にそこにある。
それが——
少しだけ、心地よかった。
⸻
昼休み。
屋上へ向かう途中で、小さな騒ぎがあった。
「え、ちょっと待って、消えたんだけど」
女子の声。
手すりに置いていたはずのスマートフォンがないらしい。
「さっきここに置いたって言ってたじゃん!」
「いやマジで!ほんとに!」
ざわつく空気。
疑いの視線が、周囲を巡る。
その中に、一瞬だけ——
藤堂も含まれた。
(……)
ありえないことではない。
“そういう役”に見えるのは理解している。
その時。
「いや、あるじゃん」
宗一郎が、あっさり言った。
「あんたさ、普通に見落としてるだけじゃん」
「え、うそ!?」
「うそじゃないって」
軽く笑う。
確かに手すりの上に置かれたスマホがそこにはあった。
場の空気が、一気に緩む。
「あーよかったー!」
「疑ってごめんねー!」
誰にともなく向けられる言葉。
けれどもう、視線は藤堂から外れていた。
(……)
宗一郎は、何も言わない。
こちらを見もしない。
ただ、いつも通りに歩き出す。
「ほら、行くぞ」
それだけ。
——嘘だった。
スマートフォンは、最初からそこにはなかった。
宗一郎が階段の影に落ちていたものを置いたのだ。
一瞬だけ見えた動きで、それがわかる。
「……どうして」
思わず、口に出る。
宗一郎は、少しだけ振り返って、
「ん?」
「いや、別に」
それ以上は言わない。
問い詰めることもしない。
ただ——
(ああ)
理解する。
あれは、誰かを守るための嘘だ。
傷つけないための嘘。
自分の世界には、なかったもの。
胸の奥が、強く軋む。
ミシッ、と。
さっきよりも、はっきりと。
(……)
気づいてしまった。
自分は——
この場所に、いたいと思っている。
---
「藤堂って、珍しいよな」
帰り道、ふと宗一郎が言った。
「……そう?」
「うん。あとさ」
少し考えてから、
「美影って、なんか綺麗な名前だな」
そう言って、笑った。
「……」
言葉が、出なかった。
それは嘘でできた名前だった。
意味も、由来もない。
ただの仮のもの。
それなのに。
その名前で呼ばれるたびに、
少しずつ、自分のものになっていく気がした。
胸の奥で、また何かが軋む。
さっきとは違う種類の音だった。
---
「藤堂さ、今日放課後空いてる?」
珍しく、クラスメイトの方から声をかけられた。
数人がこちらを見ている。
「みんなでちょっと遊びに行くんだけど」
間が空く。
「……ごめん」
藤堂は首を横に振った。
「今日はちょっと」
「そっか」
それだけ言って、相手は引いた。
小さく、
「やっぱりな」
と呟く声が、聞こえた。
(……)
別に、気にはならない。
そういうものだと理解している。
「行かねーの?」
隣から、宗一郎の声。
「……うん」
「なんで?」
少しだけ、考える。
「体調、あんまりよくなくて」
嘘だった。
けれど——
完全な嘘でもなかった。
最近は確かに、ずっと体が重い。
「そっか」
宗一郎はそれ以上聞かない。
(……)
内心で、言葉が落ちる。
(話せば、嘘が増える)
(嘘をつけば、削れる)
(……それなら)
(宗一郎と過ごす時間が、減る)
だから——
避けていた。
(無駄に、減らしたくない)
(この時間を)
---
その日の帰り道。
不意に、音がした。
鈍い衝突音。
「っ……!」
振り向くと、宗一郎が倒れていた。
自転車と接触したらしい。
地面に広がる赤。
「宗一郎!」
駆け寄る。
意識はある。
けれど、出血が多い。
(まずい)
手を伸ばそうとした、その時。
「ちょっと!素人は触らないで!」
通りかかった大人の声。
一瞬、止まる。
けれど——
「……違う」
気づけば、口が動いていた。
「慣れてる。こういうの」
嘘だった。
この世界で、そんな経験はない。
けれど——
手を離すわけにはいかなかった。
触れる。
そのまま、意識を集中させる。
内側の何かを、削るように。
流し込む。
見えないものが、わずかに歪む。
裂けた皮膚が、ほんの少しだけ戻る。
致命傷には、ならない程度まで。
「……っ」
視界が揺れる。
「大丈夫、大したことない」
そう言った。
それも、嘘だった。
---
救急車の中。
宗一郎は、意外と落ち着いていた。
「なんか、思ったより平気だわ」
「……そう」
「血すごかったけどな」
軽く笑う。
その言葉に、何も返せなかった。
---
その夜。
帰宅してすぐ、床に崩れ落ちる。
「……っ」
喉の奥から、熱いものが込み上げる。
吐き出す。
赤。
止まらない。
(……そうか)
理解する。
これは——
さっきの嘘の分だ。
体の奥が、明らかに削れている。
呼吸が、うまくできない。
それでも。
(……後悔は、ない)
---
翌日。
昼休み。
「食わねーの?」
宗一郎がパンをかじりながら言う。
「……うん」
「最近ずっとじゃね?」
「……そうかも」
「朝とか夜は?」
少しだけ、間が空く。
(これ以上は)
(嘘をつけない)
「……食べてない」
そう答えた。
初めて、本当のことを言った。
「……え?」
宗一郎の動きが、止まる。
「マジで?」
「……うん」
それ以上、言葉は続かない。
(……)
何かに、気づきかけている。
そんな空気だけが、残る。
---
それでも。
次の日も、その次の日も。
二人は、同じように並んで歩いた。
会話は少し減った。
間が、少し長くなった。
「……寒いな」
「……うん」
それでも、隣にいる。
それだけで、よかった。
---
やがて冬が来て。
終わりが、近づいていた。
「なあ、明日ちょっと行かね?」
金曜日の放課後、宗一郎が言った。
「前にさ、行ったとこ」
少しだけ、考える。
記憶の奥に、ぼんやりとした景色が浮かぶ。
「……いいよ」
それだけ答えた。
---
待ち合わせ場所に着いたとき、宗一郎が少しだけ目を細めた。
「……眼鏡は?」
「あ」
その時になって、気づく。
かけていない。
「……まあ、いいか」
宗一郎はそれ以上何も言わなかった。
ただ、そのまま歩き出す。
---
電車に乗り込む。
窓の外には、雨。
細かい水滴が、いくつも流れていく。
進行方向から後ろへ向かってーー。
いくつも、いくつも重なりながら。
そのまま、景色を歪めていく。
「……」
ぼんやりと、それを見ていた。
やがて、電車がトンネルに入る。
一瞬で、外の光が消える。
窓に映るのは、暗闇と——
窓に張り付いた水滴だけ。
それが、光を拾って、点々と浮かぶ。
まるで、どこか遠くの。
小さな光が散る、夜の空みたいに見えた。
(……)
「藤堂」
「……なに」
「雪」
顔を上げる。
トンネルを抜けていた。
さっきまでの雨が、いつのまにか白に変わっている。
小さな粒が、ゆっくりと落ちてくる。
「……あぁ」
それだけ返した。
ガタン、ゴトン、と電車が揺れる。
連結部分が軋む音が、やけに大きく聞こえた。
誰も話さない時間が、続く。
それでも——
隣にいる。
---
降りた場所は、静かだった。
人も少ない。
白いものが、ゆっくりと積もり始めている。
歩くたびに、足元で小さな音がする。
「……懐かしいな」
宗一郎が言う。
「……そうだな」
うっすらと、思い出す。
ここに来たこと。
何を話したかは覚えていない。
でも、隣にいたことだけは覚えている。
---
湖は、ほとんど動いていなかった。
表面に、薄く氷が張りかけている。
その隙間から、水が静かに覗いている。
光が反射して、揺れていた。
白と、淡い青と。
その中に、ただ立っていた。
冷たい光が、肌に当たる。
何もしていないのに、やけに白く見えた。
「……」
息を吐く。
白くなって、すぐに消える。
雪が、落ちてくる。
髪に、肩に、触れては消えていく。
長いまつ毛の先に、ひとつ乗る。
そのまま、溶けずに残った。
視界の中で、世界が少しだけ柔らかくなる。
藤堂の淡い色の瞳に、光が揺れる。
「……やっぱ似合うな」
宗一郎が、ぽつりと呟いた。
「なにが」
「こういうとこ」
それ以上は言わない。
聞き返すことも、しなかった。
ただ、並んで立つ。
何も起きない時間。
何も言わない時間。
それでも——
十分だった。
---
少しだけ、ふらつく。
足元が、曖昧になる。
「……大丈夫か」
「……うん」
反射的に、そう答える。
嘘だった。
でももう、何も起きなかった。
削れるものが、残っていないのかもしれない。
(……ああ)
ぼんやりと、思う。
終わりが近い。
それでも。
(……よかった)
ここに来れて。
隣にいられて。
視界が、少しずつ白くなる。
雪のせいか、それとも——
もうわからない。
そのまま、少しだけ目を閉じた。
---
夜の公園は、静かだった。
昼間は子どもたちの声で満ちている場所も、今は誰もいない。
街灯の光が、白く地面を照らしている。
遠くで、車の音がする。
空を見上げる。
雲の切れ間から、わずかに星が見えた。
(……)
どこか、似ている気がした。
あの電車の窓に映った光に。
もう、確かめることはできないけれど。
---
呼吸が、浅い。
視界がぼやける。
隣に、気配がある。
「……おい」
宗一郎の声だ。
少しだけ、焦っている。
「無理すんなって言っただろ」
返事をしようとして、できなかった。
声が出ない。
体が、動かない。
でも——
意識だけは、妙にはっきりしていた。
(ああ)
そうか、と思う。
ここまで来たんだ、と。
ずっと続けてきたものの、終わり。
言わなかったこと。
言えなかったこと。
全部、そのままにして。
それでも。
後悔は、なかった。
視界の端で、彼が何か言っている。
聞き取れない。
けれど、わかる。
(優しいな)
そう思った。
だから——
心の中でだけ、言葉を結ぶ。
——だから僕は、君を選んだんだ。
---
ふっと、力が抜ける。
わずかに、口元が緩む。
それは、誰に見せるでもない表情だった。
ただ、そこに残った。
静かに。
まるで、何も変わらないもののように。
宗一郎は、その瞳から最後まで目を離さなかった。
まるで、何かを見届けるみたいに。
---
ここで生まれて、ここで散りゆく。
寒い冬空の下、
まだあたたかな体温の中で。
散った彼の名前は、藤堂美影であった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
もしも、あなたの隣にいる誰かが、
少しだけ言葉を選んでいるのだとしたら。
それは、優しさかもしれません。
——どうか、そのままで。




