第四章:生理―支えるという授業
※Pixiv、ハーメルン、ノクターンに投稿しています。
◆届いたメッセージ
朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。
潮音郁は、鏡の前でそっと姿勢を整えた。
昨日選んだワイドパンツは、くすんだベージュで落ち着いた印象。
トップスは白のコットンシャツに、薄手のグレーのニット。
締め付けはなく、布の揺れも自然。
鏡に映る自分は、昨日よりも少しだけ柔らかい表情をしていた。
「……これなら、落ち着いて過ごせるかも」
スマートフォンを手に取り、時間を確認する。
今日も、鳥飼と話す予定だった。
“交換授業”の、二回目。
そのとき、画面にメッセージが届いた。
>先生、すみません。今日はちょっと、動けそうにないです。
郁は、思わず眉をひそめた。
文面は短く、けれど何かを隠しているような気配があった。
>具合悪いの?
>大丈夫?
返信を送ると、すぐに返事が来た。
>たぶん、生理です。予想はしてたんですけど、思ったより……きつくて。
>ナプキンもなくて、服が汚れそうで……外に出られません。
郁は、画面を見つめたまま、そっと息を吐いた。
鳥飼の身体の一部は、今──かつて自分が持っていたもの。
知識はあっても、体験は初めて。
その苦しさは、誰よりも郁が知っていた。
スマートフォンを握ったまま、郁は立ち上がった。
通話ボタンを押す。数秒の呼び出し音のあと、鳥飼の声が聞こえた。
「……先生」
「無理しないで。今日は、寝てていいから」
鳥飼の声は、少しだけ震えていた。
痛みと倦怠感が、言葉の端々に滲んでいる。
「ナプキンもないって言ってたけど、鎮痛剤は?」
「ないです。買おうと思ってたけど……動けなくて。通販も、届くの遅くて」
「わかった。授業が終わったら、買って持っていくね。何か欲しいものある?」
鳥飼は、少しだけ沈黙してから、静かに言った。
「……あったかい飲み物と、できれば……何か、甘いもの」
「了解。じゃあ、薬とナプキンと、飲み物と甘いもの。あと、湯たんぽも持っていこうか」
「……すみません。助かります」
通話を切ったあと、郁はカバンの中身を確認した。
授業の資料の隣に、買い物リストを書いたメモを差し込む。
薬局とスーパー、どちらも寄れるルートを頭の中で組み立てる。
「……教えるだけじゃなくて、支えることも、授業のうちよね」
自分に言い聞かせるように、郁はそっと微笑んだ。
今日の“授業”は、教室ではなく、鳥飼の部屋で始まる。
◆買い物のリスト
授業が終わると、郁は研究室で荷物をまとめて、そっと立ち上がった。
カバンの中には、朝書いたメモが入っている。
ナプキン、鎮痛剤、温かい飲み物、甘いもの──そして、湯たんぽ。
鳥飼のアパートの住所は、すでに確認済みだった。
大学から歩いても行ける距離。
夕方の光が、校舎の窓から斜めに差し込んでいる。
郁は、薬局へ向かった。
店内は静かで、棚の間を歩くたびに、過去の記憶がよみがえる。
自分が初めてナプキンを買ったときのこと。
何を選べばいいのかもわからず、棚の前で立ち尽くした。
今は、迷わない。
自分が普段使っているもの──羽根つき、昼夜兼用、肌に優しいタイプ。
パッケージの色も、落ち着いたブルーグレー。
「これなら、違和感なく使えるはず」
鎮痛剤は、いつも使っているものを選んだ。
効き目が穏やかで、胃に優しいタイプ。
「最初は、強すぎない方がいい」
次に、スーパーへ。
温かい飲み物は、カフェインレスのハーブティー。
甘いものは、個包装の焼き菓子をいくつか。
「すぐに食べられるものがいいよね」
最後に、湯たんぽ。
柔らかいカバー付きのものを選ぶ。
色は、くすんだグリーン。
「落ち着いた色なら、部屋にも馴染むはず」
レジを通すとき、郁は少しだけ息を整えた。
ナプキンのパッケージが、他の品物の間に埋もれている。
誰も気にしていない。
でも、鳥飼がこれを買うときは、きっと緊張していたはず。
「……私が使ってるものなら、きっと安心できる」
袋を手に持ち、郁は店を出た。
夕方の風が、少しだけ涼しくなっていた。
鳥飼のアパートへ向かう道を、ゆっくりと歩き始める。
今日の“授業”は、まだ終わっていない。
でも、教科書も黒板もいらない。
必要なのは、経験と、少しの優しさだけだった。
◆訪問
袋を手に持ち、郁は鳥飼のアパートの前に立っていた。
外階段を上がり、呼び鈴を押すと、しばらくして鍵の開く音がした。
扉が少しだけ開いて、鳥飼が顔をのぞかせる。
「……すみません。散らかってるかも」
「気にしないで。今日は、そういう日だから」
部屋の中は、こぢんまりとしていた。
ベッドの上には、くしゃくしゃになった毛布。
鳥飼は、ゆっくりと腰を下ろしながら、顔色はまだ優れない。
郁は、袋から鎮痛剤を取り出し、ペットボトルの水と一緒に差し出した。
「まず、これ。飲んで。少しは楽になると思う」
鳥飼は、黙って受け取り、薬を口に含んだ。
水を飲み干すと、そっと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
郁は、袋の中からナプキンのパッケージを取り出した。
落ち着いたブルーグレーの包みを、鳥飼の前に置く。
「これ、私がいつも使ってるやつ。羽根つきで、肌に優しいタイプ」
鳥飼は、パッケージを見つめたまま、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます。正直、どれを選べばいいのかもわからなくて」
「……最初は、みんなそうじゃないかな。うちは、母が準備してたけど」
郁は、湯を沸かすためにキッチンへ向かいながら、部屋の様子を見渡した。生活感はあるけれど、どこか“整えようとしている”気配があった。
「下着、どうしてる? ナプキン、固定できそう?」
鳥飼は、少しだけためらってから答えた。
「今はユニセックスなショーツを履いてます。量販店で買ったやつ。外出する時は上から、男性用の下着を重ねて……気づかれないように」
郁は、そっと頷いた。
「よく考えてるのね。その組み合わせなら、ナプキンはずれにくいと思う。羽根は、こう折り込むと安定するよ」
郁は、パッケージを開けて、実物を見せながら説明した。鳥飼は、真剣な表情で見つめていた。羞恥はある。けれど、それ以上に“知りたい”という気持ちが伝わってくる。
「あと、服装だけど……今日は……」
郁は、鳥飼の下半身に視線を向けた。ジーンズの生地が、腰回りをきつく締めている。
「ジーンズです。ちょっと、締め付けが強かったかも……」
郁は、少しだけ笑った。
「じゃあ、ワイドパンツか、柔らかい素材のスウェットがいいかも。ラインが出にくいし、ナプキンの厚みも目立たない」
鳥飼も、うつむいたまま、少しだけ笑った。
「……先生、ほんとに詳しいですね」
「経験者だからね。でも、こうやって誰かに教えるのは、初めてかも」
ふたりの間に、静かな安心感が漂っていた。
薬が効き始めるまで、少しだけ時間がかかる。
湯たんぽを準備する前に、ひと息つくにはちょうどいい空気だった。
◆少しだけ、楽になる
湯が沸いた音が、キッチンから聞こえてきた。
郁は、ハーブティーを淹れながら、鳥飼の様子をそっと確認する。
ベッドの上で、毛布を膝にかけたまま、鳥飼は静かに目を閉じていた。
「薬、効いてきた?」
「……はい。少しだけ、楽になってきました」
郁は、湯たんぽにお湯を注ぎ、柔らかいカバーをかけて手渡した。
「お腹に当ててみて。じんわり温まるから」
鳥飼は、毛布の下に湯たんぽを滑り込ませながら、そっと息を吐いた。
「……ありがとうございます。なんか、こういうの、すごく助かります」
「私も、何度も助けられてきたから。今度は、私が渡す番」
ハーブティーの香りが部屋に広がる。
カモミールとミントが混ざった、やさしい香り。
郁は、カップを鳥飼の手元に置き、自分も隣に腰を下ろした。
「飲めそう?」
「……はい。少しずつなら」
鳥飼は、カップを両手で包み込むように持ち、そっと口をつけた。
温かさが、喉を通って身体に染みていく。
「……こうしてると、なんか、普通に戻れる気がします」
郁は、少しだけ笑った。
「それが“普通”なんだと思うよ。ちゃんと休んで、ちゃんと温まって、ちゃんと支えられること」
鳥飼は、カップを見つめたまま、ぽつりと漏らした。
「……先生、ほんとに、ありがとうございます」
「どういたしまして。今日は、授業じゃなくて、休養日」
ふたりの間に、静かな時間が流れていた。
外は夕暮れ。窓の向こうに、淡い光が滲んでいる。
郁は、カップを手に取りながら、ふと考えた。
“交換授業”は、教えることだけじゃない。
支えること、寄り添うこと──それもまた、学びのひとつなのかもしれない。
◆待つ時間
郁は、湯たんぽを鳥飼の膝にそっと置いたあと、部屋の隅に腰を下ろした。
自分の服装をふと意識する。
今日のワイドパンツは、ナプキンの厚みを隠すためではなく、単に“締め付けが少ないから”という理由で選んだものだった。
でも、結果的に──こういう場面にも、ちょうどよかったのかもしれない。
「……先生の服装、参考になります」
鳥飼がそう言ったとき、郁は少しだけ笑った。
「生理のときは、最悪を考えて、ボトムスは暗い色にしてた。染みても目立たないように」
「……なるほど。じゃあ、ちょっと着替えてみます。見た目、確認してもらってもいいですか?」
「もちろん。別室、使って」
鳥飼は、ナプキンと着替えを手に取り、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音がして、部屋の中に静寂が戻る。
郁は、カップのハーブティーを手に取りながら、ふと自分の胸の奥がざわついていることに気づいた。
鳥飼が着替えている──それだけのことなのに、身体の中心が、じんわりと反応している。
「……また、勝手に……」
何も見ていない。何も聞こえていない。
それなのに、下腹部が、ゆっくりと熱を帯びていく。
布の内側で、わずかに膨らむ感覚があった。
羞恥が、胸の奥から込み上げてくる。
けれど、それは“興奮”ではなかった。
むしろ、“困惑”に近い。
昨日の朝と、同じような感覚。
鳥飼の言葉が、ふと頭をよぎる。
「反応すること自体は、止められないんです」
郁は、そっと息を吐いた。
これは、“知らない身体”との付き合い方のひとつ。
そう思えば、少しだけ落ち着ける気がした。
カップを置き、姿勢を整える。
布の上から、そっと位置を調整する。
誰にも見られていないのに、顔が熱くなる。
「……落ち着いて。これは、自然なこと」
そう言い聞かせながら、郁は扉の方に目を向けた。
鳥飼が戻ってくるまで、あと少し。
◆見た目の確認
扉が開いて、鳥飼がそっと部屋に戻ってきた。
着替えたばかりのワイドパンツは、濃いネイビー。
柔らかい素材で、腰回りもゆったりしている。
ナプキンの厚みは、見た目にはまったくわからなかった。
「どう? 変じゃないですか?」
鳥飼は、少しだけ照れくさそうに立ったまま尋ねた。
郁は、椅子に座ったまま、視線をゆっくりと下から上へと動かす。
「うん、大丈夫。ラインも出てないし、色も落ち着いてる。これなら、外出しても気づかれないと思う」
鳥飼は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった……。正直、履いてるだけで落ち着かなくて」
郁は、少しだけ笑った。
「それ、わかる。私も最初は、座るたびに気になってた」
鳥飼がベッドに腰を下ろすと、郁もそっと自分の服に目を向けた。
くすんだベージュのワイドパンツ。
昨日のスラックスとは違って、前の窮屈さがない。
「ところで、今日の服……どうかな? 昨日より前が楽なやつにしてみたんだけど。見た目、変じゃない?」
鳥飼は、郁の服装を見つめて、少しだけ首を振った。
「全然。むしろ、自然で……先生らしいです」
郁は、少しだけ頬を赤らめた。
“先生らしい”という言葉が、どこかくすぐったかった。
「ありがと。昨日は、隠すことばかり考えてたけど……今日は、ちょっとだけ扱えるようになった気がして」
鳥飼は、静かに頷いた。
「それって、すごく大事なことだと思います。僕も、今日で少しだけ“慣れる”って意味がわかった気がします」
ふたりの間に、静かな安心感が漂っていた。
羞恥も不安も、まだ完全には消えていない。
でも、言葉にできるようになったことで──少しだけ、前に進める気がした。
◆外の空気
郁は、鳥飼の服装をもう一度確認した。
濃いネイビーのワイドパンツ。ラインは出ていない。動きやすそうでもある。
「これなら、外に出ても問題なさそうね」
鳥飼は、少しだけ不安そうに首を傾げた。
「ほんとに……大丈夫ですか?」
「うん。見た目は自然だし、動きもスムーズ。私も、最初は怖かったけど、慣れてくると“気づかれない”ってわかるから」
郁は、カップを手に取りながら、ふと口にした。
「少しだけ、外の空気、吸いに行ってみる?」
鳥飼は、驚いたように目を見開いた。でも、その瞳の奥には、ほんの少しだけ──前向きな光が宿っていた。
◆コンビニまでの道
夕方の風が、少しだけ涼しくなっていた。
郁と鳥飼は、並んで歩いていた。
アパートの前の坂道を下り、角を曲がると、コンビニの看板が見えてくる。
鳥飼は、歩きながら何度か自分の腰元に手を添えた。
気にしているのが、郁にはすぐにわかった。
「歩くと、ナプキンがずれる気がするんです」
郁は、少しだけ笑った。
「最初はそう感じるけど、慣れてくると気にならなくなるよ。位置が安定してれば、動いても大丈夫」
鳥飼は、頷きながらも、周囲に視線を走らせていた。
「……見られてる気がします」
「それ、すごくわかる。でもね、見られてるんじゃなくて、自分が気にしてるだけかも。私も、最初はずっとそうだった」
ふたりの歩調が、少しずつ揃っていく。
鳥飼の肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。
「先生は、服装ってどうやって選んでたんですか?」
「素材と色。あと、座ったときに布が張らないかどうか。ナプキンの厚みが目立たないように、柔らかい生地を選んでた」
「そんなことまで考えてたんですね……」
「うん。でも、慣れてくると自然に選べるようになるよ。今のパンツ、すごくいいと思う」
鳥飼は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。先生の今日の服も、すごく自然で……先生らしいです」
郁は、頬が少しだけ熱くなるのを感じた。
“先生らしい”──その言葉が、どこかくすぐったかった。
コンビニの前に差しかかると、店内の明かりがふたりの顔を照らした。
自動ドアが開き、冷房の風がふわりと吹き抜ける。
「じゃあ、飲み物と甘いもの、選ぼうか」
「はい。冷たいのが飲みたいけど……体には良くないですよね」
「今日は温かいのにしておこう。冷たいのは、また元気な日に」
店内を歩きながら、鳥飼はお菓子の棚の前で立ち止まった。
「甘いもの、何がいいかな……」
「私は、チョコより焼き菓子派。腹持ちもいいし、口の中が重くならない」
「じゃあ、焼き菓子にします。先生のおすすめ、信じます」
レジの前に並びながら、鳥飼がぽつりと漏らした。
「ナプキン買うとき、すごく緊張しました。セルフレジで買ったんですけど、それでも手が震えて」
「わかる。私も昔は、店員さんの顔見られなかった。セルフレジ、ほんとありがたいよね」
会計を済ませ、袋を手に持って店を出る。
外の空気は、少しだけ湿っていて、夕暮れの匂いが混ざっていた。
ふたりは、並んで歩きながら、静かに帰路についた。
◆帰り道
コンビニを出ると、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
街灯がぽつぽつと灯り始め、ふたりの影が並んで歩道に伸びる。
袋の中には、温かい飲み物と焼き菓子。
ほんの少しの買い物だったけれど、鳥飼の表情は、来たときよりも柔らかくなっていた。
「外に出られるとは思ってなかったです」
鳥飼がぽつりと漏らした。
その声には、驚きと安堵が混ざっていた。
「ちゃんと準備して、ちゃんと支え合えば、できることって増えるのよ」
郁は、歩きながらそっと言った。
鳥飼は、頷きながらも、少しだけ不安そうに口を開いた。
「ナプキンって、どのくらいの頻度で替えればいいんですか?」
郁は、少しだけ考えてから答えた。
「こまめに交換した方がいいと思う。日中ならだいたい3〜4時間に一回、あるいはおトイレ行った時か、つけ心地悪くなった時。夜は途中で目が覚めちゃったら、その時に」
鳥飼は、真剣な表情で頷いた。
「……なるほど。そういう目安があると、ちょっと安心します」
郁は、ふと足を止めて、空を見上げた。
淡い雲が、夕焼けに溶けていく。
「蛇口から、ずっと細く水が出てるところを想像してみて。コップはありません」
鳥飼は、隣で静かに息を呑んだ。
「……つまり、溜まったら、出るしかない」
「そう。だから、受け止める準備が必要なの。それが、ナプキンだったり、服装だったり、心の準備だったり」
ふたりは、また歩き始めた。
歩道の先に、鳥飼のアパートの明かりが見えてくる。
「次は、コップの話の続きですか?」
鳥飼が、冗談めかして言った。
郁は、少しだけ笑った。
「それは、先生の様子次第かな。今日みたいに落ち着いてたら、授業は延期でいいかも」
「じゃあ、今日は“課外活動”ってことで」
「うん。実地研修、合格」
ふたりの笑い声が、夕暮れの街に静かに溶けていった。
◆帰宅
アパートの階段を上がると、鳥飼がそっと鍵を開けた。
部屋の中は、夕方の光が差し込んでいて、外出前よりも少しだけ暖かく感じられた。
郁は、買い物袋をキッチンのカウンターに置き、ペットボトルの飲み物と焼き菓子を取り出した。
「温かいうちに、飲んじゃおうか」
鳥飼は、頷きながらベッドに腰を下ろした。
湯たんぽはまだほんのり温かく、毛布の下で静かに熱を保っている。
郁は、カップを差し出しながら、ふと口にした。
「今日、外に出てみてどうだった?」
鳥飼は、少しだけ考えてから答えた。
「……怖かったです。でも、先生が一緒だったから、なんとか歩けました」
「それなら、合格。実地研修、無事終了」
鳥飼は、少しだけ笑った。
「次は、もう少し遠くまで行けるかもしれません」
「そのときは、服装とナプキンの予備、忘れずにね」
鳥飼は、焼き菓子の袋を開けながら、ぽつりと漏らした。
「先生って、ほんとに頼りになります」
郁は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「頼られるの、嫌いじゃないけど……ちょっと照れるわね」
ふたりの間に、静かな時間が流れていた。
窓の外では、街の灯りが少しずつ増えていく。
夕暮れが夜に変わる、その境目のような時間。
郁は、カップを手に取りながら、そっと目を閉じた。
今日のことを、ひとつずつ思い返す。
服を選んだこと。鳥飼の体調を気遣ったこと。
そして、外に出て、ふたりで歩いたこと。
“交換授業”は、教室の中だけじゃない。
こうして、日常の中で少しずつ学び合うこと──それもまた、授業の続きなのだと、郁は静かに思った。
◆静かな会話
鳥飼は、焼き菓子をひと口かじってから、そっとカップに口をつけた。
温かい飲み物が喉を通るたびに、身体の緊張が少しずつほどけていく。
郁は、隣の椅子に腰を下ろしながら、ふと口を開いた。
「……さっき、着替えてるとき、ちょっと反応しかけたの。自分の方が」
鳥飼は、驚いたように目を向けた。
「先生が?」
「うん。隣で着替えてるって思ったら、勝手に。でも、深呼吸して、位置を整えたら落ち着いた」
鳥飼は、少しだけ頷いた。
「……それって、昨日の授業の成果ですね」
「そうね。自分で落ち着かせられたの、たぶん初めてかも」
ふたりは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、居心地の悪いものではなく、むしろ安心を含んだものだった。
鳥飼は、毛布の端を指でなぞりながら、ぽつりと漏らした。
「先生は、いつからそういうことに慣れたんですか?」
郁は、少しだけ考えてから答えた。
「慣れたっていうより、諦めたのかも。“隠す”より、“扱う”方が楽だって気づいたのは、たぶん高校の終わり頃」
「扱う……」
「そう。反応することも、違和感も、全部“あるもの”として受け止める。そうすると、少しずつ怖くなくなる」
鳥飼は、カップを両手で包みながら、静かに頷いた。
「……僕も、そうなれるかな」
「なれるよ。今日、ちゃんと歩けたじゃない」
鳥飼は、少しだけ笑った。
「先生がいたからです」
郁は、照れくさそうに笑い返した。
「じゃあ、次は先生なしでも歩けるように、練習しないとね」
ふたりの間に、静かな笑いが広がった。
それは、羞恥を越えた先にある、ほんの少しの自信の芽だった。
◆復習と予習
鳥飼のアパートを出ると、空はすっかり夜の色に染まっていた。街灯の光が、歩道に細く伸びる影を落としている。郁は、ゆっくりと歩きながら、今日の出来事をひとつずつ思い返していた。
スラックスではなく、ワイドパンツを選んだこと。鳥飼の体調を気遣い、薬とナプキンを届けたこと。そして、ふたりでコンビニまで歩いたこと。
“先生”として教えるだけじゃなく、“支える”こともできた。それが、少しだけ誇らしかった。
スマートフォンの画面に、鳥飼からの短いメッセージが届いていた。
>今日は本当にありがとうございました。先生がいてくれて、助かりました。
郁は、画面を見つめながら、そっと微笑んだ。“先生”という呼び方が、今はもう少しだけ、自然に感じられる。
帰宅して部屋の灯りをつけると、鏡の前に立った。くすんだベージュのワイドパンツ。柔らかい素材が、今日一日を静かに支えてくれた。
「……前が窮屈にならないって、こんなに違うんだ」
鏡に映る自分は、昨日よりも少しだけ落ち着いて見えた。羞恥はまだある。でも、“扱えるようになった”という実感が、胸の奥に残っている。
郁は、カバンからメモ帳を取り出し、ページをめくった。次の授業の構成を、少しだけ考えてみる。
「コップを空にする授業」それは、今日ではなかった。でも、いつか必要になるかもしれない。
そのとき、どう尋ねればいいのか。どんな言葉なら、鳥飼が安心して受け止められるのか。
郁は、ペンを持ったまま、しばらく考えていた。窓の外では、夜の風が静かに吹いている。
“交換授業”は、まだ始まったばかり。でも、今日の一歩が、確かにその続きをつないでいる。




