第5章 パート1:研究の進展と平穏の兆し
王都の朝は、思った以上にあっけなく始まる。
鐘楼の鐘が鳴り、露店が並び、職人たちが扉を開ける。
人々は昨日と同じ顔で歩き、同じ挨拶を交わす。
――まるで、何もなかったかのように。
墓荒らしの件以来、フユコは完全に足を洗っていた。
夜に出歩くことはなくなり、
土の匂いをまとって帰ってくることもない。
今の彼女は、朝になるとリョウの部屋で目を覚まし、
簡単な朝食を作り、
そのまま工房の掃除や部品整理を手伝う。
「これ、どこに置くの?」
「それは“失敗作箱”だ。触るな、爆ぜる」
「えっ、危なっ」
軽口を叩きながらも、
フユコは真面目に仕事を覚えようとしていた。
元盗賊らしい手際の良さは健在で、
工具の扱いも、部品の分類も、驚くほど早い。
「……お前、向いてるな」
「でしょ?」
そう言って笑う顔は、
墓を掘っていた頃のものとは、まるで別人のようだった。
少なくとも――
リョウは、そう信じたかった。
一方、エルネアの研究チームは、王都でもちょっとした話題になっていた。
回復魔法の再定義。
再生過程の数式化。
損傷部位ごとの魔力反応の違い。
それらは、これまで感覚と経験に頼ってきた医療魔術を、
“学問”として引き上げる試みだった。
「若手研究者の中では、今一番勢いがありますね」
学会帰りの魔術師がそう語るのを、
リョウは酒場の隅で聞いた。
「エルネア准教授の論文、読みました?」
「ええ。特に“深部損傷に対する回復魔法の限界突破”は衝撃的でした」
称賛の言葉が、次々と並ぶ。
エルネア本人は相変わらず飄々としていたが、
研究所には資金が入り、助手も増え、
設備は格段に良くなっていた。
「……順調、すぎるな」
工房に戻る途中、リョウは呟く。
世の中は、こんなにも簡単にうまく回るものだっただろうか。
研究所を訪れた日、
リョウはエルネアの執務室で、何気なく棚を眺めていた。
標本瓶が並んでいる。
腕。
指。
内臓の一部。
どれも、魔術保存液に浸され、
時間が止まったかのように整然としている。
「……増えましたね」
リョウの言葉に、エルネアは書類から目を上げる。
「ええ。研究が進めば、当然です」
「前は、もっと……古いものが多かった気がしますが」
一瞬だけ、空気が止まった。
エルネアはすぐに微笑み直す。
「研究素材は、鮮度が重要ですから」
それは、理屈としては正しい。
だが、胸の奥に小さな棘が刺さる。
――“鮮度”。
その言葉が、妙に引っかかった。
「提供元が増えたんですか?」
「ええ、まあ……いろいろと」
言葉を濁すのは、彼女の癖だ。
だが以前は、もっと堂々としていた気がする。
リョウはそれ以上、踏み込まなかった。
踏み込めば、
何か取り返しのつかないものを見てしまう気がしたからだ。
帰り道、フユコが言った。
「エルネア先生、最近忙しそうだね」
「そうだな」
「でもさ」
フユコは少し考えるように歩調を落とす。
「前より、ちょっと……疲れてる顔してた」
「……そうか?」
「うん。笑ってるけど、目が笑ってないやつ」
盗賊時代の“人を見る目”。
それが、今も彼女に残っていることを、
リョウは忘れかけていた。
「気のせいだろ」
そう言いながらも、
自分の声に確信がないのを、リョウ自身が一番わかっていた。
王都は平穏だった。
研究は進み、
金は回り、
人々は未来に期待している。
だがその平穏の底で、
確かに何かが、少しずつ形を変えている。
標本瓶の中身が“新しく”なっていること。
エルネアの視線に混じる、説明できない影。
そして、
それをまだ誰も問題視していないという事実。
リョウはその夜、
設計図を前にしながら、ふと手を止めた。
インクの染みが、
血の跡のように見えた気がして、
思わず目を擦る。
「……考えすぎだ」
そう呟いて、
彼は作業に戻る。
このときはまだ、
王都が本当の意味で“揺れ始める”のが、
すぐそこまで来ていることを――
誰も知らなかった。




