第3章 パート1:回復魔法バブル
王都ラインベルクに、静かに――いや、誰が見ても大騒ぎで――“異変”が起きていた。
回復魔法研究の発展。
それ自体は誉れ高き文明の進歩であるはずだった。
しかし、市井の噂話を追えば追うほど、どうもその進歩は健全とは言いがたい方向に転がっている。
まず始まりは、王立学院の学術会議で発表されたある布告だった。
「回復魔法研究のため、治療費は当面“無料”とする。
また、研究に寄与する稀少な外傷・症例は、王国より報酬を支給する」
それがすべての狂気の引き金だった。
――傷つけば金になる。
――怪我をすれば国が喜ぶ。
――死ななければ丸儲け。
こんな最悪に歪んだ解釈が、庶民の間で猛烈な速度で広まり、気がつけば王都の冒険者ギルドは、もう見る影もないほどカオスに満ちていた。
「おい! さっきのゴブリン討伐、募集端から埋まってるぞ!
『全員軽傷保証』って書いてある!」
「“軽傷保証”ってなんだよ!? 怪我を保証すんなよ!」
「いや、逆だろ? 怪我しなかったほうが怒られるだろ、今の時代!」
耳を疑うような会話が、当たり前のように飛び交っている。
つい半年前まで、冒険者と言えば“命懸けの危険業務”として人材不足に悩んでいたのに、今では応募者が列を成し、窓口には“初心者歓迎・多少の骨折OK”と意味不明な看板まで立てられていた。
さらに、ギルド内の掲示板には奇妙な依頼が次々と貼り出される。
・【急募】デスホーネットの巣駆除 ※刺され経験者に報酬アップ
・【初心者向け】弱毒スライム踏み ※皮膚炎になれば追加ボーナス
・【高額】ドラゴンのブレスを“かすめるだけ”体験ツアー
王都の若者たちは、これを“回復魔法バブル”と呼び、狂ったように危険なクエストへ群がっていった。
ギルド職員は泣きそうな顔で言う。
「頼むから! 回復魔法があるとはいえ、死んだら終わりなんだぞ!?
軽い怪我で満足してくれよ!? 深手はもういらないから!!」
しかし若者たちは聞く耳を持たない。
「兄ちゃん! 一緒に手首の骨折りチャレンジしようぜ!
俺この前ひび止まりで悔しくてよ〜!」
「うるせぇ、俺は今日は内臓系を狙うんだよ! 報酬が一桁違ぇんだ!」
「お前ら、命惜しくねえのかよ……」
呆れ返る声は少数派で、むしろ異様な熱気の方が圧倒的に勝っていた。
この狂騒の渦巻くギルドから、少し離れた路地裏。
その角にある古びた魔道具工房の窓から、淡い光が漏れている。
リョウは今日も黙々と机に向かっていた。
街が狂っていようと、流行がどう転ぼうと、彼のやるべきことは変わらない。
地道に魔道具修行を積む。それだけだ。
「傷ついて金もらえるとか、正気の沙汰じゃないよな……」
窓の外から、また誰かが派手に転んだ悲鳴が聞こえる。
「いってぇぇ! これで軽傷カテゴリー入ったか!?」
「いやそのくらいじゃ報酬出ねえよ。せめて裂傷だろ!」
リョウは深々とため息をつくだけだった。
「……命あっての物種だろ、ほんとに」
工具を持つ手は、一切迷いがない。
魔力回路の設計図と、魔導石の研磨。
それらを組み合わせて、正しく動く魔道具を生み出すには、どれだけ時間があっても足りない。
そもそも、魔道具職人は派手さに欠ける――これは昔からの定説だ。
だが同時に、派手な魔法や武術より、生活と戦場のどちらにも役立つ“確かな技術”として重宝される。
リョウは地味で堅実な道を選んだ。
いや、選ばざるを得なかったと言うべきか。
異世界に転生してからというもの、身体能力が飛躍的に伸びたわけでもなければ、チート魔法を授かったわけでもない。
凡人のまま。ただ、生真面目さと継続力だけは、誰にも負けないつもりだった。
「……ま、あんな危険な真似、そもそも俺には無理だしな」
ぼそりとつぶやくと、また窓の向こうで爆発音が聞こえた。
「ぎゃああああ!! ブレスが直撃したぁぁ!!」
「大丈夫だ! 死ぬなよ! 死んだら報酬が出ねえぞ!!」
「……心配の方向が狂ってるんだよなぁ、今の王都」
リョウは苦笑しつつ、魔導石に微細な魔力ラインを刻み込んでいく。
騒ぎとはまったく無縁の、静かな時間。
夜の工房は、魔力ランプの淡い青光だけが揺れていた。
彼は毎晩こうして、誰にも気づかれない作業を積み重ねる。
一歩ずつ、一ミリずつ、自分の腕を磨き続ける。
「本当に必要とされる魔道具は、絶対にある。
誰かが大怪我する前に、“防ぐ”道具だって必要だろ……」
荒んだ王都の空気が少しでも和らぐような、そんな道具を作りたい。
それが、リョウの密かな願いだった。
外では若者が血を流し、ギルドが悲鳴を上げる狂気のバブル。
そのすぐ傍で――
ただ一人、凡人の青年は静かに魔道具と向き合い続けていた。
その姿は道化にも見えるし、ひどく理性的にも映る。
だが、この夜の静寂こそが、リョウにとっての“正気の領域”なのだった。




