第2章 パート5:動き出す禁忌
王立学院の研究棟は、夜になると驚くほど静かになる。
昼間は生徒や研究者たちが行き交い、講義室からは議論の声や魔法陣の起動音が響き渡るが、日が沈むとその喧噪は一気に途絶える。まるで建物そのものが眠りにつくかのようだった。
だが、その静寂の奥深く――たった一つだけ、灯りの消えぬ部屋がある。
エルネアの研究室。
扉の隙間から漏れる魔導灯の薄明かりが廊下をぼんやり照らし、その向こうで一人の少年が机に向かっていた。
ハービー。
講義の後処理も片付けも終え、普通なら寮に戻って眠っている時間だ。しかし彼は今、埃をかぶった古い魔導書を開き、そのページに刻まれた奇妙な文字列に視線を釘付けにしている。
――魂の器。
その言葉を見つけた瞬間、身体の奥底が妙な熱で満たされた。
まるで遠い昔から知っていた概念に再会したような、あるいはずっと求めていた答えに手が触れたような……そんな錯覚に近い興奮。
(魂……容れ物……? 肉体と別に、魂を保持する器?
でも、いったい何のために?)
ページには続きがある。
だが文字が古すぎる上に、保管状態も悪い。魔導書は何度も修復されている形跡があり、意味不明な欠落も多い。
それでも、かろうじて読み取れる部分だけでも、これがただの古代史の記録ではなく、明確な魔術研究の成果であることがわかる。
ハービーは指でその文字をなぞりながら、息を呑んだ。
(魂を一時的に移し替える……
それが可能なら、回復魔法の“限界”を超えられるのでは?)
そう思った瞬間、脳裏に鮮烈なイメージが浮かんだ。
失われた四肢を取り戻せない患者。
回復魔法では癒せない神経の断絶。
そして、ウィルソン兄弟が掲げた新理論――「魂と神経の結びつき」。
もし魂を一度取り除くことができれば、神経を再構築し、新たな肉体を調整し、魂を戻すことで――。
(人は、完全に“治る”……?)
その発想の危うさに気づきながらも、視線はページから離れない。
まるで、魔導書のほうが彼の心を掴んで離さないようだった。
やがて、研究室の扉が静かに開く音がした。
ゆっくりと、しかし確実に。
ギィ……と軋む音が部屋に響く。
ハービーの肩がビクリと震え、振り返る。
「……まだいたのね、ハービー」
灯りの中に現れたのは、エルネア。
昼間とは違う、白衣のままの姿。
青白い魔導灯の光に照らされ、彼女の表情はどこか影を帯びている。
「エルネア、先生……あ、いえ、これは……」
慌てて魔導書を閉じようとするが、彼女は手で制した。
「隠さなくていいわ。むしろ――開いたままで構わない」
その声は、冷静で、どこか甘い響きを帯びていた。
叱責ではない。
むしろ、嬉しそうですらある。
エルネアは彼のそばに歩み寄ると、魔導書を一瞥し、細い指でページを軽く撫でた。
「ずいぶん古い資料を見つけたのね。これは……私でも読めない部分が多いわ」
「でも……魂を移す、と書いてあるように見えて」
「ええ、見えるでしょう? 見えていいのよ」
エルネアは静かに微笑んだ。
「ハービー。あなたなら理解できるわ。この研究の意味を」
心臓が跳ねた。
エルネアの言葉は、ハービーの胸の奥にある“渇き”を正確に射抜いてくる。
「魂を、肉体から切り離せるなら――
失われた器官は再構築できる。
回復魔法の限界は、超えられる」
彼女の声は、まるで呪文のように部屋の空気を変えていく。
「私はずっと、次の段階に進もうと考えていた。
でも一人では難しい。正確に読み取り、臨機応変に動ける助手が必要だったの」
エルネアの視線が、真っ直ぐにハービーの瞳を射抜く。
「あなたなら――できるわ」
喉が乾く。
たった一言が、胸の奥に火をつけていく。
彼女は続けた。
「魂の器。
これは、ただの理論ではない。
古代に実際に行われていた“禁忌”よ」
その言葉が、静寂に深い影を落とす。
「禁忌……」
「ええ。でも、禁忌だからこそ価値がある。
人は知らないものを恐れ、学ばないだけ。
私はそれを正しく解き明かしたいの。
あなたと、共に」
ハービーの胸が熱く燃え上がる。
恐怖と興奮。
不安と期待。
尊敬と、……ほのかな執着にも似た感情。
全てが混ざりあい、もはやどれが本心なのか分からない。
気づけば、彼は頷いていた。
「……僕に、できますか」
「もちろんよ」
エルネアの手が、ハービーの肩にそっと触れた。
「あなたは“選ばれた”のだから」
その瞬間、研究室の魔導灯がひときわ強く輝き、そして一気に暗転した。
魔力の波動が空気を震わせ、窓ガラスがかすかに揺れる。
静まり返る夜の王立学院。
その奥深くで――
封じられていた禁忌が、静かに目を覚まし始めていた。
エルネアとハービー、師弟の足取りが、確実に常識の線を越えていく。
この夜を境に、彼らが進むのは“癒し”ではなく――
“創造と死の境界線”に踏み込む道だった。
再び、禁忌が動き出そうとしていた――。




