第2章 パート3:学問ブーム
エルネアが王都学術院で行った《治癒魔力の可視化と意志干渉による増幅理論》の発表は、翌日には王都のすべての研究者たちの話題をさらっていた。かつて学問といえば魔道具工学か錬金術が主流で、回復魔法の研究はどちらかといえば地味で敬遠されがちな分野だった。それがこの数日で一変した。
「聖女エルネアが回復魔法の未来を変えた」「治癒魔力の構造自体が見直される」「新時代の幕開けだ」
学問に興味のない市民まで、そんな言葉を口にする。街の書店には回復魔法の参考書が並べ直され、学術院の閲覧室には学生が押し寄せ、使い込まれた古い論文まで引っ張り出されていた。
エルネアの成功は、一種の社会現象になりつつあった。
だが当の本人は、注目に晒されながらも淡々と研究を続けていた。
「現象は説明できたけど、まだ証明は足りない。理論化できる領域はもっとあるはずよ」
そのとなりには、彼女の影のようについて回るハービーがいる。数歩後ろを歩き、必要な資料は先回りして準備し、エルネアが忘れがちな飲み水まで無言で手渡す。師弟という枠組みを越えて、彼はエルネアの研究を支える不可欠な存在となっていた。
だが、王都全体の熱狂が強まれば強まるほど、別の勢力も静かに動き始める。
――教会と、古くから学会を支配してきた貴族学者たちだ。
彼らは突然現れた「聖女エルネア」という存在に戸惑い、怯えもしていた。
回復魔法は教会の権威そのものと言ってよい領域であり、それを若い女性研究者が刷新したなど、面白く思うはずがない。
特に、王都学術院の重鎮として長く権威を持ってきた「ウィルソン兄弟」は早くから警戒心を示していた。
兄のグラント・ウィルソンは温厚な笑みを絶やさない中年紳士だが、発表に対しては辛辣だった。
「確かに興味深い理論ですが、問題点が多い。魔力の可視化は本当に安定するのか? 意志干渉の定義が曖昧だ。あれでは半分は彼女の感覚に頼っているではないか」
弟のエドワードは兄よりもさらに苛烈だ。
「若い娘が少し成果を出しただけで持ち上げ過ぎじゃないですか? 学会は遊びではない。理論とは積み重ねであり、伝統であり、先人の努力の結晶なのです。聖女だと? 滑稽だ」
彼らは長年、回復魔法の古い理論体系を守り続けてきた人物で、改革派とは常に対立してきた。
しかし今回ばかりは事情が違う。
なにせ、エルネアは「結果」を出してしまったのだ。
怪我人の治癒速度は実験的に向上し、魔力の流れも解析装置によって記録済み。
これは、王都の誰がどう反論しても覆せない“事実”だった。
それでも、ウィルソン兄弟のような古参勢力が黙るはずがない。
彼らはむしろこの流れを、自分たちの権威を取り戻す最良の機会と捉えた。
「我々も《新理論》を準備している。聖女の理論に対抗し得る、より歴史に根ざした学説をな。回復魔法の本質は“神意との同調”にあり、あんな実験的理論に委ねられるものではない」
彼らはそう豪語し、急遽、教会や古家系貴族の研究者を巻き込みながら、自分たちの新しい学説をまとめ始めた。
その名も――
《回帰型神託理論》
ひどく古めかしい響きだが、教会側としては非常に都合のいいもので、
「回復魔法は神の恩寵であり、個人の意志で魔力を歪めてはならない」
という従来の立場を強固にするものだった。
学会は一気に派閥争いの様相を呈した。
エルネアの研究室には毎日のように学生が来ては、最新理論について質問し、メモを取り、討論を交わしていく。彼女の言葉は常に理路整然としており、魔術的な現象を淡々と分解する姿は、まさに“異端の天才”と呼ばれるにふさわしい。
一方、ウィルソン兄弟の研究室では古参の教授たちが結集し、教会が提供した聖典を机に積み上げ、
「古文献から導かれる神意を再解釈する」
と称して新理論の肉付けをしていた。
王都の研究者たちは、二つの勢力のどちらに付くか判断を迫られるようになった。
学術院の廊下では、エルネア派とウィルソン派の学生同士が白熱した議論を交わし、研究内容とは関係ない“人物批判”さえ飛び交いはじめる。
「エルネア先生の理論の方が再現性が高い!」
「ウィルソン先生の方が学問としての深みがある!」
「教会が後ろ盾にいるのなら、ウィルソン派の方が将来は安泰だぞ」
「いや、時代を変えるのは常に若い才覚だ!」
学術院の雰囲気は、まるで戦場のようにざわついていた。
それでもエルネアは、周囲の雑音にほとんど耳を貸さなかった。
「私はただ、正しいと思うことを続けるだけよ。誰が何を言おうと、事実は変わらないもの」
そう言って淡々と魔力図を描き続けるエルネアの横顔を、ハービーは黙って見つめる。
彼の胸中には、別の種が芽生えつつあった。
――この人は、本当に世界を変えるかもしれない。
そしてその変化は、必ずしも穏やかなものではないかもしれない。
ウィルソン兄弟は学会を動かすだけの影響力を持ち、教会も彼らの背後にある。
エルネアの研究が広がれば広がるほど、彼女を疎む勢力は必ず増える。
ハービーは師を守るようにそっと距離を詰め、書類を片付けながら小さくつぶやいた。
「エルネア先生、どうか……無茶だけはしないでください」
エルネアは微笑む。
「大丈夫よ。あなたがいるでしょう?」
そのひと言に、ハービーの胸は熱く満たされた。
だが同時に、胸の奥に重い不安が沈殿する。
王都に立ち上る熱狂と対立の気配。
新時代の幕開けは、同時に大きな亀裂の予兆でもあった。




