第2章 パート1:出会い
エルネアとハービー──運命が静かに交わる瞬間
エルネアの公開解剖講義から数日。
王都アルマリシアは、いまだその話題で持ちきりだった。
「心臓をその場で修復したって本当か?」
「ええ、学院の生徒が震えながら話していたわよ。あの聖女が、あんな姿になるなんて……」
「いや、むしろ本物の学者ってやつじゃないのか? 神頼みで治すのとは違う、根本から命をとらえる研究だ」
街角のパン屋で、酒場で、路地裏の市場で。
王都のあらゆる層の人々が、興奮と畏怖と好奇心を入り混ぜた表情で語り合っていた。
エルネアの名声はかつてないほど高まった。
王都の教会は彼女を“神の光を理解した聖女”と讃え、学院は彼女を特別研究員に任命し、王宮の高官たちでさえ彼女を一目見ようと噂していた。
しかし――
そんな熱狂の中心にいる本人は、何の興味も示していなかった。
彼女の視線はただ一つ。
“治癒の原理”を支える肉体の構造と、死霊魔法の深淵。
世間がどう騒ごうとも、彼女の歩みを止めるものはなかった。
◆ ◆ ◆
そんなある日の午後。
王立学院の地下研究室で、エルネアは一人黙々と解剖台に向かっていた。
魔物の小型種、従属種の死骸。魔力を帯びた筋線維や特殊な臓器が、細かく分類されて机に並べられている。
その静寂の中――
「……失礼します!」
はっきりとした声が響いた。
エルネアがわずかに視線を向けると、そこには一人の少年が立っていた。
青年は痩せて小柄、粗末な灰色のローブを身に着け、肩には使い古した布製のカバン。だが、その瞳だけは驚くほど強い光を宿していた。
「あなたは?」
「……ハービーといいます。学院の一般生です。今日の解剖補助に……参加させてほしくて」
一般生。
つまり、貴族でも特待生でもない。
極めて珍しい“平民枠”の学生だった。
「ほかの学生たちは?」
「みんな……その……」
ハービーは口ごもった。
エルネアには分かっていた。
講義以来、解剖の実習に志願する者はほぼ皆無だった。
彼女の研究室は、優秀ゆえに恐れられる場所となってしまったのだ。
エルネアは青年を見つめる。
その瞳は、恐怖よりも好奇心が勝っていた。
「あなたは怖くないの?」
「正直……怖いです。でも、それ以上に知りたいんです」
「何を?」
「肉体の仕組みを。治癒の正体を。魔力が生命をどう動かしているのか——それが分かれば、きっと誰かの役に立てる」
その言葉に、エルネアの手が止まった。
役に立てる。
エルネアが幼いころ聞いた“聖女とは誰かを救う存在だ”という美辞麗句と同じ言葉。
だが、この青年の言葉は違っていた。
“救うためには知る必要がある”という、研究者の論理があった。
エルネアは静かに言った。
「……興味は、本物の才能よ。いいわ。手伝って」
ハービーはぱっと顔を明るくし、深く頭を下げた。
◆ ◆ ◆
それからの日々、ハービーは毎日のように研究室に通ってきた。
他の生徒たちが距離を置く解剖学の授業でも、
彼だけは臆せず小型のナイフを握った。
「この筋繊維、魔力に反応して震えています」
「傷口のふちが、魔力の流れでこう変形するんですね……!」
「心臓の魔回路って、こんなに複雑なんですか……」
ハービーの観察眼は鋭く、理解が早かった。
エルネアが説明する前に、構造の変化や魔力の動きを読み取ることすらあった。
そして――
彼は“恐怖”という感情を、驚くほど持っていなかった。
解剖台に並ぶ魔物の臓器にも、肉体の露出にも顔を青くするどころか、目を輝かせて覗き込むのだ。
「本当に、あなたは変わっているわね」
「え? ぼく、変ですか?」
「ええ。とても、いい意味で」
エルネアがそう言うと、ハービーは頬を赤くし、うつむいてしまった。
助手としての能力も高く、ナイフの扱いも丁寧。
血管の位置や内臓の重量バランスも正確に把握している。
彼は、生まれながら研究者であり、魔法使いの卵だった。
やがて学院内では噂が広まる。
「エルネア様の研究室に若い男が一人入り浸ってる」
「毎日解剖を見てるらしいぞ……!」
「でもあの子、やけに評価されてるよな」
誰も近寄ろうとしないエルネアの研究室に、
唯一平然と入り続ける青年。
そして、エルネアもまた、
青年を拒まず、むしろ歓迎している。
その関係性は、周囲の目から見ても異様だった。
◆ ◆ ◆
だが、その異様さの裏には――
エルネア自身も気づかぬ小さな運命の変化があった。
ハービーは、ただの貧しい家庭の青年ではない。
彼が持つ“観察眼”は、ときにエルネアすら気づかぬ魔力の動きを捉えた。
彼のノートには、肉体構造の詳細な図解と魔力の流れの仮説がぎっしりと描かれている。
そして彼は何より、
エルネアの研究を理解し、恐れず、近づいてくる唯一の人間だった。
その存在が、後に何を引き起こすのか――
まだ誰も知らない。
その日、エルネアは初めて、ハービーに心の底から言葉をかけた。
「あなたが来てくれて、助かっているわ。
……これからも、ここに来る?」
ハービーは迷いなく頷いた。
「はい。ぼくは、もっと知りたいんです。
――エルネア様の見ている“真実”を」
エルネアの胸に、ほんのわずかだが温かな何かが灯った。
それはまだ、誰にも見えない小さな光。
光は、やがて影にもなる。
二人の歩みは、この王都の運命を大きく揺るがす始まりだった。




