王都グランフェリア編 第7章:パート5「ダリウス・ヴァルモンド」
ギィ……と、乾いた音が耳を打った。
クラウスは手にしていた羊皮紙を慌てて懐へ滑り込ませ、素早く点検口へ身を縮めた。屋根裏へ身体を押し上げると、直後に――扉のノブがわずかに軋み、ゆっくりと回転し始めた。
心臓が喉までせり上がる。肺が破裂しそうなほど息が詰まる。
まさか……もう戻ってきたのか。
蝶番が軋むと同時に、重厚な扉が音もなく開いた。そこから足音一つしないまま現れたのは、ヴァルモンド家当主――ダリウス・ヴァルモンド本人だった。
炎を宿したような眼差しで室内を鋭く見渡し、まるで獲物の匂いを嗅ぎ取ろうとする獣のように視線を彷徨わせている。
クラウスは梁に腹這いになり、呼吸すら奪われたように身じろぎひとつしない。
下の男の靴音がカツリ、カツリと床板を踏むたび、全身が硬直する。
汗が首筋を伝い、顎の先から雫となって絨毯の上に落ちそうになった。必死に首を振り、袖で拭い取る。
ダリウスは机の前で立ち止まり、長い沈黙の末にゆっくりと腰を下ろした。
机の引き出しを開け、何やら帳簿を取り出す。その手つきに乱れはなく、むしろ狩人が獲物を仕留める直前の静けさを纏っていた。
気づかれてはいない……はずだ。
クラウスはそう念じながらも、いつ飛び出して斬り捨てられてもおかしくない緊張に、背筋が凍りつく思いだった。
時間の感覚が失われていく。
一分か、それとも一時間か。梁にしがみついたまま、ただ心臓の鼓動が耳を突き破るように響いていた。
やがて、ダリウスが扉の方へ向かった。
「……執事を呼べ」
低く、冷ややかな声。
扉の外で控えていた男がすぐに応じる気配がする。
クラウスはその一瞬の隙を逃さなかった。
梁から身を滑らせるように点検口へ後退し、軋む板を極力避けながら、闇の中へと身体を引き上げる。
音を立てれば一巻の終わり。胸を圧迫するほどの緊張のなか、猫のように四肢を張って進む。
後方ではまだ机に向かう衣擦れが聞こえていた。幸い、気取られた様子はない。
今だ……ここを離れるんだ。
長い屋根裏の通路を這い続け、ようやく月明かりの差す小窓に辿り着く。
外の冷気が肌を撫でた瞬間、張り詰めていた全身の筋肉が一気に弛緩する。
クラウスは窓を押し開け、夜気に満ちた屋根の上へ身を躍らせた。
広がる闇の下には街路灯が淡く石畳を照らし、遠くで犬の吠える声が響く。
振り返れば、ヴァルモンド邸はまるで眠らぬ巨獣のように月光を受けて沈黙していた。
深く、深く息を吸い込む。
屋敷の中で押し殺していた呼吸を、ようやく解き放つ。体中から汗が噴き出し、肺が焼けるように痛むほどだった。
危なかった……あと一歩で命を落とすところだった。
胸中でそう呟きながらも、クラウスの瞳には強い光が宿っていた。懐には確かに羊皮紙の断片がある。
あれは間違いなく、地下通路の一端を示す手掛かり――。
屋根瓦の上で身を低くし、静かに闇へと紛れていく。
夜風が衣をはためかせ、冷たさとともに生の実感を突き付けてきた。
こうしてクラウスは、命を賭けた潜入を終え、ヴァルモンド邸を後にした。




