王都グランフェリア編 第7章:パート3「書斎」
屋敷の奥から漂ってくる香ばしい肉の匂いと、杯を打ち合わせる乾いた音、それに混じる笑い声――それらが廊下にまで満ちていた。大広間での晩餐は、まだしばらく続くだろう。
クラウスは梁の上からするりと降り、暗がりに身を沈める。耳を澄ますと、背後の広間から漏れてくる人々の浮かれた声が、波のように押し寄せては引いていく。それが逆に、ここから先の廊下を「安全」にしてくれている。人の気配は遠ざかり、番兵も酒に釣られて気を緩めているのだろう。
「……今しかない」
心の中で呟くと同時に、クラウスは影のように動き出した。
赤い絨毯が敷かれた廊下。装飾の施された壁にかかる燭台が、淡い揺らめきを放っている。その光の下を、彼はまるで音を拒むかのように滑るように進んでいった。革靴の底を絨毯に軽く滑らせ、体重を均等に分散させて着地する。盗賊として培った身体の使い方が、今もなお生きていた。
目的地は書斎――ヴァルモンド家当主が日々を過ごす、秘密の多い場所。廊下の突き当たりにその重厚な扉があった。
クラウスはしゃがみ込み、腰の小袋から細い針金を取り出す。錠前の感触を確かめながら、わずか数秒で内部の仕組みを読み取る。小さな音がして、カチリと鍵が外れた。
「ふん……所詮は飾りか」
かすかな自嘲と共に、クラウスは扉を押し開いた。
――書斎。
豪華だが妙に整然としすぎている部屋だった。整列した本棚、埃一つない机、壁に掛けられた古い絵画。すべてが秩序を保ちすぎていて、不自然なほどの「完璧さ」がかえって不気味に感じられる。
空気は乾いており、香木の匂いが漂っていた。窓は厚手のカーテンで覆われ、外からの月光さえ届かない。蝋燭の一本も灯されていない暗闇の中、クラウスは扉を閉めて鍵をかけ、懐から小さなランプを取り出して最小限の光をともした。
「……さて」
時間は限られている。彼は机の上を素早く確認し、次に本棚の背表紙をなぞるように視線を走らせた。しかし、目に映るのは表向きの整頓された書類と本ばかり。机の引き出しや棚の一部には、隠すように複数の鍵が仕込まれている。
「やはり厄介な性格だな、あの男は」
クラウスは舌打ちを飲み込み、針金を取り出して次々と錠を開けていく。だが、それぞれの引き出しから出てくるのは会計帳簿や商会との契約書、貴族らしい手紙の束など。どれも重要ではあるが、彼の求める「地下の秘密」へ直結するものではなかった。
その間にも――時計の針が進む音が、異様なほど大きく聞こえる。
カチ、カチ、カチ……。
静まり返った部屋で、その規則的な響きがクラウスの神経を削っていった。まるで「時間がない」と背中を押し立てているようだ。
「……まずいな」
額にじわりと汗が滲む。大広間の宴がいつ終わるかは分からない。食後の一服を求めて、当主がふらりと戻ってくる可能性も十分にある。
クラウスは短く息を吐き、判断を下した。
「長居はできない。なら、もっとも使用頻度の高そうな場所……」
そう呟いて彼は視線を巡らせる。きっちり整理されすぎた本棚や引き出しとは対照的に、机の正面――椅子の脇にある大きな引き出しだけが、わずかに擦れた痕跡を残していた。日常的に使われ、触れられている証拠だ。
「……ここだな」
クラウスは素早く針金を差し込み、解錠を試みる。金属が触れ合う微細な音が指先から伝わり、緊張で喉が渇いた。外から聞こえる笑い声が、一瞬遠ざかった気がする。宴が山場を越えたのか、それとも――。
だが、考えている暇はない。錠前が外れる感触を得た瞬間、クラウスは音を殺して引き出しを開いた。
中には……。
厚く折り畳まれた羊皮紙の束が、黒い紐で括られて収められていた。机の上に広げると、地下へと続く通路の一部を示すような図面が浮かび上がる。
「……やはり地下か」
クラウスの胸が熱く高鳴る。
しかし同時に、足音の幻聴のような気配が背後の廊下から忍び寄ってくる。時計の音がさらに大きくなった気がした。時間はもう残されていない――。




