王都グランフェリア編 第7章:パート1「潜入」
夕日が沈み、王都全体が闇に包まれた。雲の切れ間から漏れる月明かりが、ヴァルモンド邸の壮麗な屋根を銀色に縁取っている。屋敷を囲む鉄柵は高く鋭く、外部の侵入者を拒むかのように威圧感を放っていた。柵の表面には、目を凝らすと淡い魔力の痕跡が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。魔道具による防御結界の痕だ。だがクラウスはそれを見て怯むどころか、逆に冷静に観察し、どの部分がもっとも効果の薄い「継ぎ目」になっているかを見極めた――そう、彼は四人のなかで潜入スキルを得意としており、単独での任務をこなした回数も突出していたのだ。
彼は深く息を吸い込むと、胸の奥で呼吸を細く分ける。音を殺し、影に溶け込むようにして身を低くし、ゆっくりと柵に近づいた。足裏に伝わる地面の感触、風が吹き抜ける方向、近くで眠る犬の気配。すべてをかつての盗賊時代に培った「感覚」で拾い上げ、頭の中で地図のように組み立てる。
柵を越える瞬間、手袋の布地が鉄の表面に擦れるわずかな音すら気にして、呼吸を止めた。魔力が薄い一点を通過したとき、背筋にぞくりとした冷気が走ったが、結界は反応を示さなかった。クラウスは静かに着地し、屋敷の敷地内に足を踏み入れた。月光を浴びる広い庭は手入れが行き届き、見事な花壇や石像が立ち並んでいる。だが今の彼にとってそれらはただの障害物に過ぎなかった。
歩を進めるごとに、彼は意識を研ぎ澄ませた。地面のきしみや小石の転がる音を予測し、体重をわずかに分散させることで音を殺す。風が吹けばその風に紛れて動き、風が止めば静止する。盗賊時代に培った感覚は、まるで獣が狩りをするように鋭敏だった。
屋敷の外壁に辿り着くと、いくつもの窓や扉に施された防犯用の罠が目に入った。魔力を感知する符、物理的なトラップ、そして複雑な錠前。これらを見たとき、クラウスの口元がわずかに歪んだ。自嘲にも似た笑み。
――「まるで昔に戻ったようだな」
彼は腰のポーチから小さなピックを取り出す。月光を反射して一瞬だけ銀の刃のように輝いたそれを、彼は指先に馴染ませ、迷いなく錠前に差し込んだ。耳を澄まし、金属の奥で小さく跳ねるピンの感触を指先に伝える。カチリと乾いた音が鳴るまで、ものの数秒だった。
その瞬間、胸の奥に忘れかけていた昂揚が走った。血が騒ぎ、体の隅々まで生きている実感が広がる。かつての盗賊稼業がいかに危険で、そして魅惑的だったかを、皮肉にも再確認してしまう。今は仲間のために、そして自分の誓いのためにここにいる。それは分かっている。だが錠前を開ける一瞬の快感、影に身を潜める緊張感は、どうしても体に染み付いて離れなかった。
クラウスは軽く頭を振り、その感覚を振り払う。今は懐古に浸っている場合ではない。静かに窓を押し開け、わずかに開いた隙間から中を覗く。部屋は真っ暗で、人の気配はない。彼は素早く身を滑り込ませ、床に着地する際も膝を使って音を消す。
屋敷の中は外観以上に広く、複雑に入り組んでいた。廊下には高価な絵画や装飾品が並んでいるが、クラウスの目はそれらに留まらない。今の目的は盗みではなく「情報」だ。足取りは軽く、それでいて一切の油断を許さぬ緊張感に満ちていた。
遠くから響いてくる、かすかな物音――使用人が歩く靴音か、それとも巡回する警備か。クラウスは立ち止まり、耳を澄ませる。呼吸を浅くし、影の中に完全に身を溶け込ませると、物音が通り過ぎるのを待つ。やがて静寂が戻ると、彼は再び動き出す。
屋敷を守る罠は巧妙だったが、クラウスにとっては懐かしい「遊び場」に等しかった。指先の感覚が覚えている。どう触れれば罠が作動しないか、どの位置を避ければ床板が軋まないか。彼はそれを本能のように利用し、音も痕跡も残さず邸内を進んでいった。
その一歩一歩が、過去と現在を繋げる鎖のように彼の心を締め付けていた。――自分は盗賊ではなく、仲間のために動いている。そう言い聞かせながらも、内心で抑えきれない高揚があった。
こうしてクラウスは、月明かりと影の狭間を渡り歩きながら、静かにヴァルモンド邸の奥へと侵入していった。




