第5章 パート5:不穏な予兆
研究所の廊下は、夜になると異様に広く感じられた。
昼間は学生や研究者の足音で満ちている場所が、
今はランプの光だけを残して静まり返っている。
石床に落ちる自分の足音が、
やけに大きく耳に残った。
――もう調査は終わった。
そう、表向きには。
リョウはそう自分に言い聞かせながら、
研究所の奥へと足を進めていた。
ハービーに謝罪した翌日。
彼は「必要な部品の相談」という名目で、
再び研究所を訪れていた。
疑いを解いた顔。
警戒を解いた態度。
それは、意図的な“芝居”だった。
(……証拠がない以上、
正面から問い詰めても意味はない)
だが、
だからといって引き下がれるほど、
胸のざわめきは小さくなっていなかった。
研究室の一角。
資材置き場として使われている区画。
そこで、
リョウは足を止めた。
「……?」
壁際に、
積み上げられた木箱。
よくある資材箱にしては、
やけに大きく、
やけに頑丈だ。
釘の打ち方。
木材の厚み。
そして、
微かに漂う――木の防腐剤の匂い。
リョウは、
無意識にその箱へと近づいていた。
蓋に手をかける。
重い。
だが、
中身は資材のはずだ。
そう思いながら、
力を込めて開けた。
中にあったのは――
板。
ただの板ではない。
滑らかに削られた曲線。
人の体を覆うために作られた、
独特の形。
「……棺桶の、蓋?」
しかも、
一枚や二枚ではない。
数えるまでもなく、
十を超えている。
新品。
傷も汚れもない。
(……なぜ、ここに)
背筋を冷たいものが走る。
そのときだった。
「それですか?」
背後から、
穏やかな声がした。
振り返ると、
ハービーが立っていた。
いつも通りの笑顔。
白衣姿。
何一つ変わらない。
「……これは?」
リョウは、
なるべく平静を装って尋ねた。
ハービーは、
箱の中を覗き込み、
軽く肩をすくめる。
「ああ、それですか。
サンプル保存のケース代わりですよ」
「……ケース?」
「ええ。
瓶だと大きさが足りないものもありますから。
湿気も防げますし、丈夫ですし」
冗談めかした口調。
「ちょっと物々しいですけど、
安く手に入るんです」
安く。
その言葉が、
耳に残る。
「……棺桶を?」
「教会関係者とつながりがあれば、
案外どうにでもなりますよ」
そう言って、
ハービーは笑った。
ただの笑顔。
悪意のない、
少し皮肉めいただけの笑み。
だが、
その表情が――
なぜか、
リョウの脳裏に焼き付いた。
(……おかしい)
理屈は、通っている。
保存容器。
研究用資材。
違法性も、
表向きにはない。
それなのに。
(なぜ、
こんなにも胸が重い)
「……分かりました」
リョウは、
それ以上何も言わなかった。
芝居は、
ここで終わらせるべきだ。
これ以上踏み込めば、
相手に警戒心を与える。
「それじゃ、失礼します」
「はい。
また何かあれば」
ハービーは、
最後まで丁寧だった。
その態度が、
余計に――
不気味だった。
その夜。
リョウは、
自室のランプを灯しながら、
設計図に向かっていた。
だが、
線が引けない。
木箱。
棺桶の蓋。
あの笑顔。
何度も、
頭の中で反芻される。
「……くそ」
自分は、
疑いすぎているだけなのか。
証拠はない。
決定打もない。
「……もう、やめるべきだ」
そう、
理性は言っている。
そのとき。
「リョウ」
背後から、
フユコの声がした。
振り返ると、
彼女は机の隅に腰掛けている。
いつも通りの姿。
だが、
表情が違った。
「……どうした」
フユコは、
しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるように。
そして、
ぽつりと口を開いた。
「ねえ……
あの人」
「……ハービーか?」
フユコは、
ゆっくり頷いた。
「人殺しの、においがする」
その言葉は、
あまりにも唐突で。
あまりにも、
断定的だった。
「……根拠は?」
リョウは、
そう聞かずにはいられなかった。
フユコは、
首を横に振る。
「ない」
即答だった。
「でも、
私…盗賊だったから…間違えない」
彼女は、
視線を落とす。
「仲間の中に、
“境界を越えたやつ”はにおいが違う」
「……」
「あいつらと、同じ匂いだった」
フユコは、
胸の辺りを指で押さえた。
「血の匂いじゃない。
死体の匂いでもない」
「……?」
「“慣れてる”匂い」
リョウは、
息を呑んだ。
それは、
言葉にできない感覚。
だが――
否定できない。
自分自身、
感じていたものと、
重なっていた。
「……調査は、やめた」
リョウは、
低く言った。
「証拠がない以上、
これ以上は無理だ」
フユコは、
黙って聞いている。
「でも――」
リョウは、
拳を握った。
「見張ることは、
やめない」
謝罪も、
訪問も、
全部――
相手を油断させるための芝居。
「尻尾を出すまで、
待つ」
フユコは、
小さく笑った。
「……それでいい」
王都の夜は、
静かだった。
何も起きていないように。
すべてが、
元通りのように。
だが、
リョウの胸の奥では。
疑惑が、
確信に近づきつつあった。
――証拠はない。
だが、
“におい”だけが、
消えなかった。




