彼を守りたかっただけ
彼の選んだ特訓場所は、王国の近郊だが、癖のある魔物の住む森として知られている。
木々は高く鬱蒼と茂り、風が通るたびに、どこか獣の息遣いを含んだ音を立てた。
森の入り口にある停車場所には、ドノバンたちの馬車が数台停まっていた。
「さて、参りましょうか」
漆黒のドレスの裾を絞り、スパッツをはき、ポーションの詰まったポシェットを肩に掛ける。登山靴の紐を強く締めた瞬間、足元の土の冷たさが、戦場の現実を告げた。
「御意」
セバスも冒険者の装いに着替えている。普段は完璧な執事の彼が、泥を踏む姿は妙に新鮮だった。
入り口から、道についた足跡を追って、私たちは森を歩く。
私はゲームの世界で、この森に何度か足を踏み入れたことがある。経験値稼ぎには悪くない場所だが、同時に危険度も群を抜いて高い。
なぜなら、この地に棲む魔物たちは皆、それぞれ異なる種類の猛毒を持ち、どれも命を奪うに足る強力なものだからだ。
甘く淀んだ空気が、まるで森全体が毒そのものであるかのように、肌にまとわりつく。
「セバス、このポーションを今すぐ飲みなさい!」
寝れなくて作った薬から、高度な毒無効の薬を渡し、私も諦めて飲んだ。
「……苦いですね」
文句を言わないセバスが、珍しく弱音を吐く。
「そうなの、味変すると効果が下がるのよ」
臭み、苦味、五感すべてが拒絶するほど酷い薬だ。だが、効果はある。舌が痺れ、体の奥が熱くなる。命が拒絶反応を起こしているような感覚。
「どちらに行きましょうか?」
足跡が分岐している場所があった。
「真っ直ぐよ。彼ならそうする。それに、この奥にいる魔物がとても厄介なの」
ドノバンたちも、この森に潜る以上、解毒薬はちゃんと揃えて持ってきているはずだ。
けど——ジャイアント・ホーネットの毒だけは別だ。
あいつの毒に解毒薬を使うと、次に刺されたときアナフィラキシーショックが起きて確実に死ぬ。
治るけど、次はない。まったく、助かるための薬で死ぬなんて、皮肉なもんだ。
……今のドノバンは、絶対に逃げないだろうな。
だからこそ、怖い。あいつ、仲間を守ろうとして、自分を追い詰めるタイプだから。
胸の奥で、焦げたような不安が静かに広がった。
「急ぎましょう!」
前方より、金属がぶつかる音と、野太い咆哮が響く。空気が一瞬で戦場の温度に変わった。
開かれた野原に、狼の魔物シャドウファングや蜂の魔物ホーネットに追われて苦戦している冒険者たち。見たことのある顔だ。間違いない、ドノバンの家臣団だ。
「みんな伏せて!」
「リリカ様!」
「ウインド!」
ただの風魔術。だが、私の持つ最大出力だ。
空気が唸り、世界が裂ける。大嵐がすべてのものを吹き飛ばした。
ドノバンの家臣も飛ばされないように、地面に剣を突き立ててしがみつく。
魔狼も魔蜂も、その地にいたすべての魔物は風に巻き上げられ、宙を舞った。
森林の枝は軋み、裂け、折れた。森の奥地で風が止むと、魔物たちは無慈悲に突き落とされ、地面に叩きつけられた。
破片と悲鳴が空気を震わせ、森全体が怒り狂う風に飲み込まれていた。
「ドノバンはどこ?」
「ドノバン様は、我々を逃して奥に……!」
倒れている家臣たちが指を差したのは、野原の先。
「セバスチャン、彼らを手当てして。私は奥に向かいます」
「ですが……」
「問題ありません。手当てをしてあげてください」
冷静に言ったつもりでも、足はもう前へと動いていた。
奥地には、魔物の蜂の巣がいくつもあり、その近くには魔物の死体が転がっていた。
「もう、何をやってるの……出鱈目だわ」
何せ、奴らは数が多い。いちいち剣で倒していたらキリがない。魔術を使うしかないのに、何をしてるのかしら。
まだ空中に残っている小さな魔物を風で集める。
「それでこれ、ファイヤー!」
ばちばちと空中で燃えて、地上に落ちる。焦げた匂いが広がり、森の毒の匂いと混ざって、息が詰まるほど濃密になった。
「まだ結構残っていたわね。さて、ドノバンはどこかしら?」
地面に血の跡がある。私はその後を追って走った。
ポーションを飲む時間すらないんだわ。——違う、魔物を引き寄せてるのだ。
「おりゃあ、これでもくらえ!」
ドノバンの叫び声が耳をつんざく。
私は息をのんだ。あの声を聞けば、まだ戦えているのがわかる。
声の方角に、全身傷だらけで血まみれの彼の姿を見つけた。
だが、次の瞬間、ドノバンは魔物の突撃に吹き飛ばされ、手から剣が離れた。
「刺されたの?」
その魔物——私が心配していた魔蜂の女王だ。転がったドノバンが、ポーションをすかさず飲んだのがわかった。
旋回して、再び彼を狙う。
「駄目、それだけは……!」
思考より先に身体が動いた。
私は、頭が真っ白になり、彼とジャイアント・ホーネットの間に身体を投げ出していた。
ぶすり。私の背に、大魔蜂の大きな針が突き刺さった。
「え?」
ドノバンはいきなり現れた私に驚いた。
倒れる私を、彼は抱き抱えながら片手でサブソードを蜂の腹部に何度も突き刺した。
「ふざけるな! お前を殺す……お前を殺す‼︎」
すでに息絶えている魔物を、怒りに任せて切り刻んでいる。
その剣筋に、彼の恐怖と悔しさが滲んでいた。
「リリカ様、大丈夫か⁉︎」
私は刺された痛みで口が聞けない。ていうか、私の心配の方が先でしょ、普通?
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……!」
私は話すのも辛かったが、ドノバンに声をかけた。
「ポーションを飲んでるから大丈夫よ。馬車まで運んで」
「わかった!」
ドノバンは、私を背負うと走り出した。
いや、振動が激しくて痛いんだが。それと、針も抜いて欲しいんだが……。
結局わかったことが二つある。
一つは、毒は効かないが、針は刺されるととっても痛い。そしてもう一つ。
「まあ、ドノが無事でよかったわ」
胸の奥に張りつめていた糸が、ふっと緩む。
私は安心したのか、そんな異常な状況でも、まぶたがゆっくりと重くなる。
——違う。毒が中和されると、猛烈に眠くなるのだ。
彼の背中は驚くほど温かく、広く、揺れに合わせて心臓の鼓動が伝わってくる。
それを数えるうちに、私は安心しきって、静かに眠りへと落ちていった。
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