王都商会と寝巻きジャージ
リリカの住んでいた屋敷は、実はよく知らない。なにせ、ゲームでは敵の本拠地だったのだ。いったい何があるのだろう? 拷問道具? 怪しい魔道着?
「……あの、宰相様のお屋敷は、既に大商人イセヤが王国から譲り受けております。詳しい事情は分かりませんが……たしか、息子のカンクローが住んでいるとか」
「何ですって!」
ああ、見たかったのに。何が隠されていたのか……!
私が興奮していたのを怒りと勘違いしたのか、ナイルは口を閉ざしてしまった。
「イセヤ、ねぇ。伊勢屋勘九郎。いせやのかんちゃん」
透き通るような白い肌。まるまると太った体型。少し動くだけで滝のような汗をかき、興奮すれば頬が真っ赤に染まる――まるで子どものような外見。
ゲームでは、いつも無理難題を押しつけられていた、気の毒な子だった。
「せっかくだし、会いに行きましょう」
私が自分から外出を望むなんて、歴史的快挙である。
「ですが……会ってもらえるか、わかりませんよ、リリカ。相手は王国の御用商人ですから」
「かまわないわ。王都に戻ったら、立ち寄りましょう。それで、私はどこに泊まるの?」
「すみません……我が家に」
ナイルはそう答えると、どこか気まずそうに目を伏せた。
ちょうどそのとき、密談を終えたエマが応接に戻ってきて、話をさらりと中断した。
「さて、リリカ様。王都に戻るとなれば、必要なものがいろいろございます。買い物に出かけましょう?」
エマは嬉しそうに微笑んでいた。おそらく、これまで貧しさの中で何も買えなかったのだろう。泡銭の勢いで物欲を解放したい、という気配が溢れている。
「え? でも……」
人に会うのは、正直気が進まない。でも、王都に戻るなら、嫌でも人の中に飛び込まなくてはならない。その予行演習と思えば、悪くはないのかもしれない。
「それでは、私もご一緒して宜しいですか? この国でしか手に入らない品もございますので」
ナイルがそっと同行を申し出てきた。
私は、人に会うことへの恐怖と、買い物への無関心を押し殺して――ゲームには存在しなかったこの国の市場を、ほんの少しだけ、楽しみに思いながら、外出に同意した。
※
村から少し離れた、大きな町。
エマが連れてきたのは、天井にシャンデリアがきらめく、高級そうな服屋だった。
「リリカ様が、王国に戻って恥ずかしくないように」
「お金の無駄よ」
ごちゃごちゃ着飾るのは好きじゃない。コルセットなんて、綺麗に見えるかもしれないけど、ただただ苦しいだけ。
「ああ、黒のドレスはお願いね。今と同じデザインのやつ」
私の勝負服だけは、絶対に妥協できない。
「それなら、王都の店ですね」
ナイルが控えめに口を挟む。
「じゃあ、ここでは――下着と、エマのメイド服を買いましょう!」
エマに可愛いメイド服を着せたい! 私のヲタク心に、いきなり火がついた。
エマでファッションショーだ。フリル、レース、クラシカルな黒、ゆるふわな白――。
試着室のカーテンが開くたびに、至福の時間が流れていく。
「……なんだか、リリカ様のご趣味が広がっておられる気がしますね……」
ナイルが小声で呟いた。呆れと困惑と、それでもどこか微笑ましさの滲んだ表情。止めようとしないのは、諦めか、理解か――あるいはその両方。
「ところで、ジャージはないの?」
「ジャージですか……?」
首を傾げるエマに、私は真剣な顔で答えた。
「うーん、庶民の服屋に行きましょう」
薄くて、軽くて、そのまま寝られる服が欲しい。できればリユース品なら最高だ。
「これこれ!」
私は気に入った服を、次々と荷箱に放り込んでいく。デザインも素材も無視して、ひたすら直感に従って。
「……この素材をリリカ様が……いえ、止めませんが……」
ナイルが眼鏡を軽く持ち上げる。その横顔には、わずかに呆れと、ほんの少しの親しみが混ざっていた。
……が、エマのチェックは容赦なかった。ほとんどが却下されていく。
「もう、エマったら……もう買い物飽きたわ。あとは任せる。ご飯に行きましょう」
寝巻き用の服だけは死守して、私たちは食事に向かった。
店員とほとんど会話せずに済んだことに、私は内心ひっそりと安堵していた。
※
その町でも指折りの、少し高級な食堂。
「え、こんなに美味しかったっけ!」
パンをチーズの池に浸す――いわゆるチーズフォンデュ。なのに、とんでもなく美味しい。さすがはグルマン、ナイルのチョイスだ。
いつもの私の朝食(昼食)は、食パンにスライスチーズ。それと比べたら、まさに天と地。
チーズがまろやかに絡みつき、口の中でとろける。エマも嬉しそうに頬を緩めている。この店は、この国でも有名なカフェらしい。
「他にも、プレーンオムレツ、グリルビーフ、チョコレートムースも注文しましたので」
ナイルがさりげなく告げた料理は、どれも文句なしの絶品だった。くやしいけれど、本当に美味しかった。
「……ファミレスとコンビニレベルかしら?」
「え?」
「いや、何でもない」
満腹になった私は、だんだんとまぶたが重くなってきた。
ナイルの野郎が、「良い香りですよ」とワインまで勧めてきたせいもある。
けれど――ふと、不安がよぎった。
「……これ、夢オチじゃないよね」
絶対に寝ない、そう決めたはずだった。けれど。
帰りの馬車の中、私はエマに抱きつくようにもたれかかり、そのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
まどろみの中、誰かが肩にそっと布をかけてくれた気がした。
あたたかくて、柔らかくて、少しだけ泣きそうになるほど、心地よかった。
これが夢でないことを祈りながら、私は静かに眠りに落ちた。