百万ゴールドの壺
「……とにかく、一度帰って、ナイルと話をしなきゃ」
心臓の奥に、また石を詰め込まれたような重さを覚える。けど、逃げてばかりはいられない。
私はナイルとガンツ、二人と正面から向き合うと決めた。立会人はセバスチャン。面会は別々だ。
まずは、ナイル。
「私はね、思ってることを正直に話すわ。そのほうがきっと届くと思うの」
彼は無言でうなずき、眼鏡を指先で整えた。小さな仕草が、彼の真面目さを雄弁に語っている。
最初に抱いた“腹黒い商人”なんて印象は、とっくに消えていた。
「……わかりました。私も特別な思想があるわけではありません。それより……モリス教授との関係、どうなさいます?」
「そこが問題なんだよね」
眼鏡のブリッジを直す彼を見て、私は小さく笑う。するとセバスチャンが口を開いた。
「では、ナイルには……スパイをしてもらう、というのはどうでしょう?」
「スパイ!?」
思わず声が裏返る。ナイルがスパイって、どう考えても似合わない。
「わかりました。ぜひやらせてください。……得意なんですよ、こういうの」
本人は自信満々。いや、どの口が言ってるの?
ともあれ次はガンツだ。
セバスチャンは最初から彼を疑っていなかった。
「彼は、困っている人間を放っておけない性分ですから」
「そうそう、お嬢!」
ガンツが豪快に笑う。
「俺はあんたについてくぜ。なんてったって“社員”だろ、俺たち!」
“社員”という言葉が少し照れ隠しっぽく聞こえる。彼なりの忠誠表現なのだろう。
「……でも、あなたの仲間には――」
「わかってる」
ガンツが真剣な目を向けてくる。
「教授に肩入れしてる奴もいる。そいつらはナイルに預ける。……俺はお嬢を信じる」
迷いのない言葉だった。ガンツがナイルを信じ、私は二人を信じる。それでいい。
※
「そうだ、ナイル。訴えられてるって言ってたわね」
「はい。イセヤ達の大商会です。理由は……まあ独占の方便ですね」
「なら、逆に訴えましょう」
「えっ!? で、ですが、リリカ様の立場が――」
「立場? そんなのもう無いわ」
――いや、違う。守りたいから戦うんだ。誇りも、自由も、仲間も。
「ですが、それではモリス教授と繋がっていると――」
「もう思われてるでしょ? 逆に説明するチャンスよ。ナイル、敵の敵は味方じゃないわ!」
「ええっ!? そ、その理屈は飛躍しすぎでは……!」
彼の困惑顔に、私はふっと笑った。私の目指す道は簡単じゃない。でも、示さなきゃならない。父が望んだ未来を。
※
ナイル商会が伊勢屋と紀伊國屋を訴えた――その噂は、瞬く間に王都を駆け巡った。
「無謀だな。報復されるぞ」
実際、大商会はギャングを使って嫌がらせを仕掛けたが……残念、それはもう我々の支配下だ。
「前金はありがたくいただいた」
「寄付の名目で。いい心がけだわ」
彼らは約束違反だと訴えることすらできない。だが、次の一手はもっと露骨だった。警備隊を差し向けてきたのだ。
「ドノバン、お願い」
私は渋々、頭を下げる。
「お安い御用。もちろんリリカ様も一緒ですよね?」
またその嘘くさい笑み。
「……ええ、一緒よ」
※
「ナイルはいるか! 不正の疑いがある、捜査に入るぞ!」
警備隊が乱入し、陶磁器を次々と放り投げた。高価な器が粉々に砕ける。
「お静かに願えますか、商談中で――」
「黙れ!」
隊長の拳がナイルを殴り飛ばした。眼鏡が宙を舞い、床で砕ける。私の胸が締めつけられる。
「誰だ、邪魔をするのは?」
私とドラガンが飛び出すと、隊長は顔をしかめ――そしてドノバンを見て固まった。
「う、うるさい商人風情が――」
「“商人風情”で悪かったな」
「ど、ドノバン様!? そ、それは全部隊長の命令で!」
隊員たちが一斉に正座して、隊長を指差した。
「入り口の陶磁器、俺のだぞ。国宝級だ。弁償してもらおうか」
「な、ナイル商会の商品では……」
「いや、リリカ様に贈ろうと置いていた。……置いた俺が悪いのか?」
「ドノバン。器物損壊罪と損害賠償、彼らの過失です。時価で十分でしょう」
「そうか。じゃあ百万ゴールドで」
ふっかけた。警備隊長の年収が数十ゴールドだと知っていて。
隊員たちは砕け散った破片を呆然と見つめていた。
その中に――小さく光るレンズ。砕けたナイルの眼鏡。
私はその欠片を見つめ、静かに息を吸う。
もう奪われるだけの娘では終わらない。
守る。戦う。そして掴む。
私は拳を握った。
――ここからが、私たちの始まりだ。
お忙しい中、拙著をお読み頂きありがとうございます。もしよろしければ、ご評価をいただけると幸いです。又、ご感想をお待ちしております。




