田舎屋敷と眼鏡と、漆黒の令嬢
本日2話目
だが、ゲームで私が知っているエマは――もっと傲岸で、人を見下すような視線を向けていたはずだ。主であるリリカにも遠慮のない口をきき、まるで悪友のような態度だった。
そんな彼女の手を、私は思わず握っていた。
「じゃあ、連れてって」
「はぁ……何、甘えてるんですか? まあ、仕方ないですね。今日は珍しく元気みたいですしぃ」
どこが自宅なのかもわからない。いや、そもそも、ここがどこの国なのかすら不明だ。エマが「田舎」と言っていたから、少なくとも王都ではないのだろう。
私たちは牧場を抜け、草の匂いが漂う小道をしばらく歩いたのち、ぽつんと建つ一軒家の前にたどり着いた。
「はい、着きましたよ!」
それは、外観だけで言えば完全に幽霊屋敷だった。二階建てではあるが、壁はくすみ、屋根の一部には苔が生え、庭には野草が好き放題に伸びている。窓枠の隅には蜘蛛の巣が揺れていた。
「駄目よ。……私の部屋まで」
「まったく……」
エマに手を引かれながら、家の中へと入る。きしむ床板を踏みしめて進み、ようやく自室らしき扉の前に立つと――
バタン、と扉を開ける。
そこにあったのは、見覚えのないというか……何もない空間だった。
「え? なにも……ない……?」
あるのは、小さな机が一つと、くたびれたベッドが一つだけ。ワードローブも見当たらず、部屋の隅にある棚を開けると、かろうじて吊るされた一着のドレスが目に入った。
「無いに決まってるでしょ。鏡、持ってきますね」
どきどきしてきた。洗面台で歯を磨く時くらいにしか鏡を見ない私にとって、全身鏡を間近に見るのは、ちょっとした儀式のようなものだ。
やがて、ゴロゴロと音を立てて、エマが大きな鏡を引きずってきた。
「リリカ様、服くらい自分で着てくださいね!」
「……ええ」
仕方なくドレスを手に取る。けれど、細い紐がいくつもついていて、どこをどう通せばいいのかわからない。
……いや、それよりも、大事なことがある。
「私は……悪役令嬢、リリカ・ノクスフォードよ!」
鏡の前に立ち、じっと映る自分の姿を見つめる。
村娘の格好ではあるが、そこに映るのは――長く流れる黒髪。吊り上がった鋭い目。背は高く、華奢な体つき。
そう、これだ。これが「私」だ。
「そんなこと、王国で知らない人はいませんよ」
エマは冷ややかな視線を投げ、ため息をついた。
……聞きたいことは山ほどある。けれど、記憶喪失のフリは難しい。仕方ない、素でぼんやりしてる天然系お嬢様設定で押し通すか。
「早く着替えましょう。唯一の勝負服を、着てください」
エマはぶつぶつ文句を言いながらも、甲斐甲斐しく手伝ってくれる。
そう、これこれ。リリカといえば、漆黒のドレスだ。
だが、よく見るとそのドレスには繕った跡があり、生地もところどころ擦り切れていた。
……ここまでで分かったこと――貧乏である。理由はわからないが、状況的にそれは確からしい。
けれど、今はそれよりも、ナイルだ。
王国一の新興商人にして、巨万の富を築いた大金持ち。ゲームでは、私――リリカの悪の組織の資金担当だったはず。
「それで、ナイルは何しに……?」
「はぁ……リリカ様がお呼びになったんでしょ? お忙しいナイル様を」
「ああ、そうだったわね」
とぼけるしかない。天然系お嬢様、がんばれ私。
⸻
しばらくして、一台の馬車が屋敷に到着した。
出迎えに出たのは、私とエマ、そして執事の……誰だったか。仕方ない。リリカの屋敷は、ゲームには登場しなかったのだ。……それにしても、使用人はこの三人だけなのか?
馬車の扉が開き、ナイルが降りてきた。
「お久しぶりです、リリカ様」
痩せぎすの眼鏡男。ゲームではもっと堂々としていたはずだが、今の彼はどこかやつれて見えた。
「そうね。わざわざありがとう」
それしか言えなかった。
「へぇ? リリカ様がお礼を?」
ナイルは、目を見開いた。
「では、お部屋にどうぞ!」エマが張り切って案内する。
応接室に通すと、家具はみな拾ってきたかのように古びていた。椅子も机も、どこか心許ない。エマと執事が茶の用意で部屋を出ると、ナイルがすぐさま声を低めた。
「心配したんですよ。……あんな手紙、受け取ったら誰だって慌てますって」
「どれくらいかかったの?」
位置関係の把握は情報収集の基本。地図はないが、頭の中にはまだ残っている。
「三日です。馬車飛ばして、なんとか……」
「三日なのね」
「もっと驚いてくださいよ! 普通は一週間かかるでしょう!」
「あ、そうね。ありがとう。それで……どの道を通って来たの?」
我ながら良い質問だ。
「もちろん、最短ルートですよ。山を越えて……国境の検問を……」
ナイルの説明を聞きながら、私は静かに結論を出す。
――この村は、私の知る王国の中ではない。
つまり、異国だ。しかも、ゲームの情報が効かない未知の土地。
「ごめんね。無理を言ったみたいで」
「構いませんよ。……お会いしたかったですから」
そう言って、ナイルは眼鏡をクイッと上げた。
――来た。ゲームと同じ仕草だ。ナイルが“本当のこと”を言う時、彼は眼鏡に触れる。逆に、嘘をつくときは絶対に触らない。
「それで、王都の様子はどう?」
私が知っているわけがない。だからこそ、聞ける。
「はい。市民の暴動は鎮圧され、主犯格はすでに拘束されています。モリス教授も……」
来た。
悪の組織のブレーン、知能担当・モリス教授。ナイルは資金担当。……今ここで、仲間の一角が落ちたということか。
「監獄、ですか?」
笑いを噛み殺しながら尋ねる。
――いきなり、来た。これはもう、「監獄エンド」確定だ。いや、本当は笑えないのだが。
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