夕焼けの境界線
「ここで、休憩にしましょう」
部屋の外へ休憩に向かう参加者たちが、ざわざわと廊下へ流れていく。
その隙を突くみたいに、ソフィアがマリアへ歩み寄った。
まるで蝶を捕まえる名人みたいに、迷いなく手を伸ばす。
「ちょ――」
ぱしっ。
マリアの手首が捕まる。
「湊姉ちゃん、ほんとに痛いってば……!」
振りほどこうとするけど、ソフィアの指は思ったより強い。
白く細い指先に力がこもり、わずかに震えている。
怒ってる、というより――焦ってる。
「もっと早く会いに来なさい!」
きつい言い方。でも、その奥は切実だ。
私は廊下の奥を指さす。
「二人で話すなら、あっち。今なら誰もいないよ」
小さな会議用の控室。
ソフィアは一瞬だけ私を見ると、うなずいた。マリアの手を引いたまま歩き出す。
数歩進んで、くるりと振り返る。
「リリカも来なさいよ」
強い声。
でも、その目はほんの少しだけ不安そうだった。私は小さく息を吐いて、後を追う。
部屋に入ると、扉が重たい音を立てて閉まった。
そこでようやく、ソフィアは手を離す。
赤くなった手首に視線が落ちる。
謝らない。
でも、その沈黙はきっと謝罪だ。
顔を上げる。
「茉莉奈。ここにいつまでもいては駄目よ。帰れなくなってしまうわよ!」
空気が、ぴんと張り詰める。
窓辺に立つ茉莉奈は、夕焼けを見たまま動かない。
赤い光が頬を染め、横顔をやわらかく縁取っている。
やがて、ゆっくり振り向いた。
「……帰るって、どこへ?」
静かな声だった。
夕焼けはさらに濃くなり、床を真っ赤に染めていく。
見えない線みたいに、部屋を二つに分けながら。
「元の世界よ!」
ソフィアの声が震える。
茉莉奈は小さく首を振った。
「無理だよ。魂が完全に飛び越えちゃったから、戻れない」
言いながら、胸元をぎゅっとつかむ。
「ここに長くいるとね、境目がわからなくなるの。向こうの私と、こっちの私。……もう、混ざっちゃった」
その言い方は、妙に確信めいていた。
私は窓の外を見る。
帰れない。うん、知ってる。
この世界に長くいると、自分の魂がやがて、こちらの魂と溶け合ってしまう。
マリアと茉莉奈は、私たちより遅く来たのに、きっと早く一つになったのだろう。
理由は、何だろう。
それほど、この世界に――
「それがわかっているなら、どうして?」
ソフィアの問いに、茉莉奈は一瞬だけ黙った。
次の瞬間、ぽろっと涙がこぼれる。
「澪姉ちゃんのいない人生なんて、考えられないよ! それに元の世界には何もない」
そのまま、勢いよく抱きつく。
「……馬鹿な子ね」
そう言いながら、ソフィアも強く抱きしめ返す。
なんだこれ。恋人同士か?
その私の不思議そうな様子に気づいたマリアが言った。
「お姉ちゃんは、両親を亡くした私を育ててくれたの。それと、神代湊の作る世界は世間では認められなかったけど、私は好きでした」
「認められないって……」
ソフィアは怒ったふりをしているが、少しだけ照れている。
「コアなファンに支えられてるから、安心しなさい。……そこで生きていたいと思うくらいには」
私も同じ気持ちだった。
「ありがとうで良いのかな? 茉莉奈、辛かったのね。ごめん、一人にさせて」
「うん……」
胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっとした。
夕焼けが三人の影を長く伸ばす。
帰れない。それでも。
茉莉奈は涙を拭いて、はっきり言った。
「私は、ここで生きる」
選んだんだ。
逃げるんじゃない。流されるんでもない。
ソフィアは何か言おうとして、やめた。
その目が、もう答えをわかってしまっている。
私は肩をすくめる。
「じゃ、決まりだね」
二人がこっちを見る。
「ここまでにしよ。会議、再開するよ」
ちょうどそのとき、再開を告げる鐘が鳴った。
私は扉に手をかける。
――ここが、今の私たちの世界だから。
帰れないんじゃない。
私たちが、ここを選んだ。
※
それでは、明日にも本日決めたことを発表し、順次実行に移します」
「はぁ、まずは教会からだろう! 聖女様よぉ!」
人民軍のグエンが叫ぶ。
「わかりました。まずは傭兵の解雇と武器の回収を行いましょう」
「本当か! それは愉快だ。寝ている枢機卿が起きたら喚くんじゃないか?」
その一言が、場の空気を冷やした。
「ご安心ください。枢機卿もご納得されています」
枢機卿代理の大司教が、穏やかに微笑む。
「ふうん、聞き分けが良くなったんだな」
グエンは疑うように鼻を鳴らした。
「同じ東方聖教会です。話し合えばわかります。――次回の開催ですが、またこちらで……」
「いや、閉じ込められてはかなわん。次は議会でやろう」
沈黙を破ったのは、元老院筆頭だった。
「誤解なさらず。構いませんよ。門は開けておきます」
ソフィアもまた、聖女の微笑みを浮かべる。
「もちろんだ。さあ、帰るとするか」
二人の侯爵と談笑しながら、連れ立って帰路につく。まるで盾にするかのように。
マリアも、少し寂しげにその後ろへついていく。
すでに聖教会から出られるように、彼女がしている筈だ。
「近いうちに会いましょう!」
ソフィアは、彼女に向けて――いや、背を向けた全員へと言った。
廊下に出ると、大司教がグエンをうまく引き止める。
「国軍の護衛をお願いします」
「お前もわかってるじゃないか!」
「それで、少しご相談が……」
廊下の奥へ、二人の姿が消えていく。蜘蛛の巣に誘い込まれた虫と同じだ。
辿る結末も、また。
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