悪役平民、坂を登る
ナイルの家は、下町の裏路地にひっそりと佇んでいた。
くすんだ壁に、ひび割れた窓。三階建ての古びた建物は、まるで時間に見放されたような風情をまとっていた。
「……あれ? こんな場所だったっけ」
思わず漏れた一言に、しまった、と内心で舌打ちする。
気を抜きすぎていた。無意識に昔との落差を口に出すなんて。
「いえ、もとの店舗は追い出されまして……今は、こちらで」
「そうなんだ」
ナイルは苦笑を浮かべ、私は曖昧に頷いた。
商店スペースの上階が住居で、私にあてがわれたのは、エマと同室の狭い部屋だった。
エマは少し不満そうだったけれど、私はむしろありがたかった。誰かが隣にいてくれることが、今の私には何より心強かったから。
「すまん。他の部屋、まだ清掃が……」
「いいの。明日、片付ければいいだけよ」
部屋の隅には売り物の荷が乱雑に積まれ、古びた家具にはうっすらと埃が積もっている。明らかに手が回っていない。
「ナイル、人手、足りてないんでしょう?」
「……ええ。従業員のほとんどが引き抜かれてしまって。親父の代からの番頭まで……」
「それは大変ね。だったら、人手、貸してあげる。ちょうどいい人材を拾ったばかりだから」
私は後ろにいるセバスチャンを振り返る。
「明日、手配しておいてくれる?」
「はい、ご指示のままに」
セバスチャンは優雅に一礼し、柔らかく笑った。
「これは心強い……」
ナイルは心底ほっとした様子だった。――まあ、ね。
あの人たちは、心だけは、どこまでも強いから。
「じゃあ、ご飯に行こう!」
「いや、まだやることが……」
「明日でいいじゃない。“明日できることは明日やる”って言うし。下町メシ、私けっこう好きなの。ちょっと着替えてくるわね!」
一張羅の勝負服を脱ぎ捨て、町娘スタイルにさっと着替える。変身というほどのことじゃない。むしろ、こっちのほうが落ち着く。楽ちんだし。
脱ぎ捨てた服を、エマが丁寧にハンガーへ掛けてくれる。擦り切れているけど気に入っている服。次も同じのを買う予定だ。
そんなふうに扱ってくれる手が、少しだけ嬉しかった。
「それで、明日ですが……モリス教授に会いに?」
「いいえ」
即答した私を、ナイルが驚いた目で見た。
「えっ……? でも、弁護を引き受けたのはあなたご自身――」
「もちろん、覚えてるわ。でも、その前に――パールに会いに行くわ」
私の唇が自然と尖る。ナイルの眉がわずかに動いた。
「……彼はもう引退したとお話しましたよ?」
「ええ、だからよ」
――パール。
ゲームのあらゆるルートで、どれほど正論を重ねても、証拠を突きつけても、最後にはすべてを“無効”にしてきた判事。
いつだって聖女サイドには冷淡で、悪役令嬢にばかり肩入れしてきた、あの男。
その彼が、今さら“引退”だなんて。
……冗談じゃない。
悪役令嬢――もとい、悪役“平民”になったんだから。
パールをこのまま、終わらせるつもりはない。
私は、牛丼をかき込むと決意を新たにした。
⸻
※
パールの家は王都にはなかった。南に半日、馬車で向かった先――斜面に家々が並ぶ、小さな港町・オノミチ。
道という道がすべて坂でできている、海と山がひとつに混ざるような街だった。
「……すいません、リリカ様。ここから先は……」
セバスチャンが足元を見て、申し訳なさそうに声を落とす。
「……つまり、徒歩ね」
溜息をひとつ。
日差しがきつい中、なぜ好き好んで坂の上に住むのか――理解に苦しむ。
急な坂を踏みしめるたびに、体の中の熱が逃げずにこもっていく。
まだ何段目かも数えていないのに、息が上がる。
ようやく丘の上にたどり着いたとき、視界がふっと開けた。
港が見えた。海風が頬をなで、下のほうで小舟がひとつ、渡島へと滑っていく。
「ふぅ……」
静かに寄ってきたエマが、私の額にそっとハンカチを当てる。
「ありがとう。でも日傘はいいわ、自分で差すから。水、もらえる?」
ぬるい水筒の口当たりに、少しだけ眉をひそめる。
それでも、口の中の熱が和らいでいく気がした。
「さて……」
振り返ったとき、背後に気配があった。
麦わら帽子をかぶった年老いた男。パールだった。
「リリカ嬢、どういう風の吹き回しだ」
その声はぶっきらぼうだったが、目の奥に一瞬だけ、懐かしさのような色が灯った。
「お嬢様じゃなくていいわよ。久しぶり、パール様」
「まったく……何しに来た。こんな場所、誰も歓迎せん」
呆れたように言うその声には、怒鳴り声のような鋭さはなかった。
ただ、困っているような、少しだけ寂しそうな響きがあった。
「王都に戻ってきたの。せっかくだから挨拶くらい、ね?」
「……よせ。ここに、足を踏み入れるな」
「でも、私は来たわ」
私は微笑みながら先に歩き出す。
セバスチャンが無言で続くのは、忠義というより、もはや“慣れ”の問題だ。
「おい、勝手に――!」
パールが追いつき、私たちの前に立ちはだかる。
「駄目だ。ここに足を踏み入れてはならん」
今度の声には、拒絶の響きがあった――そのとき。
扉が開いた。
「じいじ、かえってきた……ごほっ、ごほっ……」
小さな女の子がよろめきながら現れ、パールの足にすがりついた。
その顔を見た瞬間、息が止まった。
頬は青白く、目に力はなく。手足は細く、骨が透けそうだった。
まるで、生きていること自体が、奇跡のような存在だった。
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