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短編『国道と紙花』

作者: 有間ゆう

 国道の上り、片側ニ車線のその真ん中で、枕カバーを被った男は紙花を折っていた。やる気のない間隔で置かれた街灯の灯りだけではよく見えなかったが、それはどうやら色のない紙のようだった。枕カバーを被った男が、親指と人差し指の間の水かきを口に咥えてふぅと息を吐き出すと、そこから紙が現れて、波打ちながら夜空へ上り、翻るたびにその形を次第に変えてゆき、花となって男のそばに舞い降りた。

 丸い眼鏡をかけた女は、信号が青に変わるのを待つあいだずっとその様子を見るともなく見ていた。


 三十分は待っただろうか。女はスカートの中に手を入れてタイツの些細なしわを伸ばしていた。

 人も車両も流れ星も通らず、街灯が作る光の水槽を無数の小虫が泳ぐばかりだった。虫は群れているのではない。志もなく集まった彼らはしかし、明らかな規則性をもって動き回り、夜の闇へメッセージを送信していた。

 しかし、丸い眼鏡の女が虫に目をくれることはなかった。

 増え続ける紙花が枕カバーを被った男の周りに降り積もっていった。


 突然、赤信号が激しく点滅し始める。立ち止まった歩行者を示すピクトグラムが、不器用なパラパラ漫画のように支離滅裂に動き出す。手を振り、飛び跳ね、ついには逆立ちまでしてみせた。女は丸い眼鏡を指の爪で押し上げて直した。柄に絡んだ髪の毛を指に巻きつけて雑に引っ張ると毛はぷつりと音を立てて切れた。女は瞬きを繰り返し、歪んだ目元を隠すように俯いてまた眼鏡を直した。

 そして、今度もやはり突然、信号は青に変わった。


 街灯の庇護下を抜け出すと、スニーカーの裏に挟まった小石がアスファルトと擦れる音だけが女の輪郭を描くアタリになった。女が白線を踏むと、足音はわずかに柔らかい響きに変わった。


「あっ」


 女は短い悲鳴をあげた。女は中央分離帯にある段差に躓いたようだった。都会を指差す道路標識がニヤリと笑う。しかし、女は転ばなかった。女は転ばなかったのだ。人差し指の爪と眼鏡が触れ、女は静かに歩き出した。スニーカーに挟まっていた小石は路傍へ消えた。ツツジの、薄く引き伸ばしたジャムのようなささやかな甘い香りが、積み重なる紙花の隙間を通り抜けた。


 国道を横断した女は再び街灯の下に姿を現した。そして、立ち止まり、紙花を折る男のいる方向をもどかしそうな目つきで見た。中央分離帯に植えられたツツジの間から、積もった紙花が少しだけ見えた。丸い眼鏡の女が悩む素振りをみせていると、レンタルビデオ屋の上から月明かりが灯った。女はそのとき初めて、道に歩道橋が架けられていることに気が付いた。女は速足で歩道橋へ向かった。こうして街灯はその役割を終えた。


 歩道橋は錆びて小さな穴が無数に空いていた。女は砂に埋もれた小さな貝殻を踏んだような気がして、スカートを撫でてその折り目の感触を確かめた。柱にはプラスチックのリサイクルを促すポスターが何枚も横向きに巻きつけられ、その上からゴルフクラブで殴ったような窪みと”ZAM”という文字がスプレーで繰り返し噴きつけられていた。国道の陰は、悪意が飛び出す予感がある。

 しかし、女はためらいもなく階段を駆け上がった。晴れた海に飛び込むように。軽快な金属の音にブルゾンの尖った襟が波打ち、月は照り、女は口元をほころばせた。夜の国道は広く遠く、ここは世界の待ち合わせ場所から最も離れた柔らかで不確かな一文字だった。


 丸い眼鏡の女は歩道橋の手すりに座り、枕カバーを被った男に話しかける。


「いつからそうしてるんですか?」

「思い立ったときからさ」

「じゃあ、いつまでそうしてるんですか?」

「渡したい相手がいるのさ。渡せるような花束になるまで」


 東京タワーにでも渡すのだろうか。山脈となっている紙花を見て女は訝しんだが、それもまた良いと思い、眼鏡を爪で押し上げて直した。そうしているとまた紙が一枚宙に舞い、女の目の前で花へと化粧する。それは折り紙を折るといった順序のある作業ではなく、変ホ長調のようなまろやかで魔法的な変形だった。


「お嬢さん、名前は?」

「ごめんなさい。ここに来る前に電車と線路の隙間に落としてしまって」

「奇遇だね。おじさんもちょうど今、自分の名前を忘れたところさ」


 男は厚さのある枕カバー越しにも看破できる嘘をついた。一方で女は名乗る名前がないことに真剣に気を落としているようだった。名前がなければどうして人繋がることができるだろう。

 男は被った枕カバーを整えるように叩き、信号を見上げた。信号は至って穏やかに赤と黄を往復して思考のリズムを整えてくれる。庇のない現代的な信号機は車のメーターを連想させた。男はふと、若い頃に惚れていた女のことを思い出した。二人で何度か、正確には七回だったか、ドライブに出かけたことがあった。背の低い二人乗りの車で男を迎えに来て、窓を開けて言うのだ、「荷物はいらないよ」と。


「昔はシドミラと呼ばれていたんだ。歌が、ははは、とびきりに下手でさ。しかし良く通るいい声だと褒められたんだ」


 丸い眼鏡の女は満月の下で少し笑った。そして信号は青に変わり、女は答えた。


「じゃあ私は、バイトさんで」

「バイトをしているのかい?」

「秘密」

「秘密は好きじゃないな。昔惚れてた女がさ、女は秘密を泳いで迎えに来てくれる男に惹かれるんだって、そう言ったんだ。それで、初めてできた恋人の秘密を根掘り葉掘り明かしていったら燃えるフライパンで殴られて病院に運ばれた」

「秘密を泳ぐってそういう意味じゃないと思うけど」

「そう言っても、モデルやら俳優やら御用達の美容師の部屋から毛が詰められた小瓶がいくつも見つかったらどうするよ」

「それは気になる」

「そうでしょうよ」

「、、、飛行機雲を描く職人を手伝っているの。時給が良いし、空に絵を描く仕事ってウケるかなって」

「なら将来は虹職人とか?」

「流れ星の方が好みかも。“今”って感じがして」

「そうかもしれない」


 そうして二人が話をしていると、先の交差点からシティポップの浮くようなビートをかき鳴らしながら、一頭のイノシシがシドミラがいる国道を駆け上がってきた。イノシシの上には柄シャツを着崩した壮齢の男がえらく胸を張って跨っている。柄シャツの男は道の真ん中にシドミラがいることに気が付いていない。それどころか道を完全に覆っている紙花にも、歩道橋にも月明かりにも気が付いておらず、颯爽としたシティポップ以外のすべてに対して耳を塞いでいた。


「山下達郎か。苦い思い出がよぎるね」


 イノシシは紙花を激しく踏みつぶしては巻き上げ、足音を響かせて夜の街へ駆け消えていった。舞う幾輪もの紙花は穏やかな月明かりに照らされて、それはそれは綺麗だった。あれだけ積まれていた紙花は、香りも残さず全て消えてしまった。


「また一から折り直しか」


 シドミラは事もなげにそう言った。バイトさんは眼鏡を押し上げて訝しげに彼を見つめる。彼は明らかにイノシシに轢かれていた。しかし、まあ、それもまた良いと思い、何事もなかったかのように会話を続けた。


「場所を変えたら?」

「それができたらよかったんだけど」


 シドミラは、鼻の奥を溶かすような獣の香りを振り払おうと腕を必死で振るう。よく見ると彼の膝から下は道路に埋まっていた。シドミラは枕カバーをしっかりと被り直し、指の間を口に咥えて息を吐き出す。色のない紙が夜空に踊る。月は昇り、さらに丸く大きく夜の国道と一輪の紙花を照らす。

 バイトさんの吐く息は、白い煙となってどこまでも昇った。




 丸い眼鏡の女がいなくなると、月も一緒にどこかへ消えた。そして当然、歩道橋も。頼りない街灯の灯りの谷で、枕カバーを被った男はいつまでも紙花を折り続ける。


 しかし、今、か細い光の線が紙花の山の上を走り抜ける。

読んでいただきありがとうございます。


なんとなく、米津玄師の『Paper Flower』を聴いていたら小説が書きたくなりました。曲から着想を得ていますが、内容は特に関係ありません。


短編集になるよう、今後も書いていければと思います。

あと、感想など貰えるととても喜びます。

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