第92話 その時──
王城内で清掃や食事を作るといった作業に準じている力を持たない者たちは、蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑っていた。
その群れの中にはロクトと、その背中のリュックの中から顔をだしているマイちゃんの姿もあった。
「怖い、怖いよ……怖い、怖いよ……」
記憶をもたないロクトにとっての初めて混沌。背中でマイちゃんが「大丈夫。大丈夫だよロクちゃん」と慰めていた。
「──ミョクちゃんも言っていたんだよ。戦争が起きても、力を持つ人は力を持たない人を無闇には傷つけないって。だからこうやって皆と逃げていれば大丈夫だよロクちゃん。だから怯えないで」
だが、
──基本的にはマイちゃんが言った今の発言は正しいのだが、今回の暴徒であるスローザは、最近その力を持つ側になった者であり、そんな善意に委ねられたルールはそもそも知らず、いや知っていた所で彼はそれを遵守するような性格ではなかった。
皆殺し。
取り敢えず王城内に居る者たちは例外なく。事が済んだ後で自身の体力が残っていれば王城外の者たちも全員。
皆殺し。
故にスローザは現時点で2階に居たにも関わらず、下層の大広間に力を持たない者たちがわっと流れ込んだ時にわざわざそこへ飛び降り、躊躇する事なくその者たちを容赦なく斬り飛ばしていった。
恐怖と断末魔の悲鳴と怒号と泣き叫ぶ声が轟く中で、ロクトはたまらず膝を突いて肩を震わせながら涙を流し、マイちゃんの中ては生まれて初めての怒りが芽生えようとしていた。
「や、止めて! もう止めて!!」
その時、
──世界の時間が止まった。
◇◇◇
マイちゃんは気付けば涙が溢れていて、恐らく初めて感じたであろう好奇心以外の興奮に暫く頭の中が真っ白になっていたのだが、やがて、「……あれ? 世界の時間が止まってる……」と気がついた。
「──ミョクちゃん? 居るのミョクちゃん?」
だが返事はなく、そこでマイちゃんは初めてミヨクが居ない時に世界の時間が止まるのを体感して不思議な気持ちになった。
ちなみに、この時にミヨクはこのカネアの大陸ではなくオアの大陸に居て、ただ何となく世界の時間を止める魔法が使える時間になったから使用しただけであった。
ただ、何にせよ今は世界の時間が止まっている。
ミヨクとマイちゃん(と睡眠中のファファル)以外は。
そしてマイちゃんは必然的にある事を思い出す。
──世界の時間が止まっている間は、生物の肉体は物凄く脆弱になっている。
と、いう事を。
「──だったら、今のオラでもこの悪者を倒せちゃうんだね」
そう、しかもいとも簡単に。
──だが、
「──……でも、オラ、ミョクちゃんにそれは絶対にダメだよって言われてるだよ……。人の命は奪ってはいけないよ、て」
マイちゃんは基本的には良い子。だから親のような存在であるミヨクとの約束事は絶対なのであった。
「──……でもなあ……。このまま世界の時間が戻っちゃうと、きっとここにいる人たちが全員殺されちゃうだよなあ……ロクちゃんもきっと……それって凄く悲しい事なんだよな……なんとかしたいな……でも、ミョクちゃんとの約束を破っちゃいけないし、それにオラだって人の命を奪いたくしなあ……うーん、どうしよう……どうしよう……
そしてマイちゃんは実に30分を考えに考え抜いた末にこう結論を出すのだった。
「──取り敢えず、ロクちゃんだけは守ろう」
そう言うとマイちゃんはリュックから這い出てきて、それから時間を掛けてロクトの顔面まで登っていき、そしてその小さな身体で彼の顔面を覆い隠した。
「──本当は誰にも死んで欲しくないんだけど、オラ身体がちっちゃいから、ロクちゃんしか守れないんだよ」
健気なマイちゃん。ただ、その身体構造が綿で出来ているぬいぐるみに防御力があるのかは不明であった。
「──安心してねロクちゃん。オラが絶対に守るから」
そして3時間後、世界の時間が動き出す。
◇◇◇
と、同時に、
ロクトは先ず急に自分の目の前が真っ暗になった事に驚いた。
「……え、あっ、ま、マイちゃん?」
と、同時に、
──ドォーンッ!! と、大地を揺るがす激しい衝撃と音が響いた。そして、その刹那スローザの足元の床が勢いよく捲れ上がっていき、崩壊と共に彼はその穴へと落下していった。
何が何やら。
だがスローザは割と冷静であった。随分と対空時間の長い落下の最中にも関わらず、近くに壁でもあれば剣を突き刺さして落下速度を緩やかにしようと考え、けれど暗くて周りがよく見えないのでそれは得策ではないと考えを改めて、最終的には、このまま落下を続けても自分はたぶん死にはしないだろうと判断をしていた。英雄種の頑丈な肉体はこの程度では死なないだろう、と。
体感だが、落下時間が10秒は経過した。だとするとこの時点で高さは100メートルくらいだろうか。
「まさかこのまま地底の遥か奥まで行っちまうって事はないよな……」
冗談混じりにそう思っていると、急に辺りが明るくなり、待望の着地点が現れて、そこに勢いよく足裏が衝突した瞬間に全身に雷で打たれたような衝撃が走り、それにはスローザも驚いた。
「──お、おお……これが遥か上空からの落下か……」
ただ、身体に不調は無かった。数秒後には足も普通に動かす事ができた。
「──さすがは英雄種と言ったところか。予想はしていたが、頑丈だな俺の身体は。ハハハハ」
自身の身体能力の高さに満足気に笑う。
「──さて」
明るく広い地下室内。太く長い柱が幾つも立っていて、その中にはそれに負けないくらい巨大な体格をした何かが鬼のような形相でスローザを見下ろし睨みつけていた。
「──……いや、まさしく鬼か……」
天に伸びた2本の黄色い角に、赤い身体。右手には柱ほどに太く長い黄色い棍棒を持っていた。
キオウ。ポトスの国の護り神。




