第68話 ラグン・ラグロクト少年とマイちゃん②
友達云々の件はともかくとして、ラグン少年はマイちゃんに名前を問われ、それは隠す必要がない事だったので素直に答えようとした。
ラグン・ラグロクト。
──なのだが、驚く事にその名が口から出ていかなかった。
ラグン・ラグロクト。
何故?
その瞬間、その問いに答えるように心、もしくは脳に呼ばれた気がして、ラグン少年はそっと瞳を閉じた。
心──もしくは脳の中に何かが存在していた。まるで身体中の全ての毛を逆立てたハリネズミのような何かが。
ハリネズミのような何かは、ただジーとラグン少年を見つめていた。特別に言葉を発する事はなかったが、ラグン少年は暗黙にその何かが名前を言う事を堰き止めているのではないかと思った。
拒み。
「理由は?」
ラグン少年が問う。けれどその何かが答える事はやや暫くが経過をしてもなく、寧ろその何かは目を閉じてたぶん眠ったようだった。
ラグン少年は仕方がないので瞼を開けた。と、同時に「お名前はなんていうの?」と目の前のぬいぐるみ (マイちゃん)にまた問われた。
ラグン少年は困った。何故ならこんな事で嘘をつきたいとは思わなかったから。
「──ねえ、お名前は? ねえ、ねえ」
「…….」
「オラの名前はマイちゃんだよ。ねえ、ねえ」
「……」
可愛らしいぬいぐるみの「ねえ、ねえ」攻撃に心が苦しくなり始めたラグン少年は、少考の後に仕方がないので、声が出せないのであれば床に指で自分の名前をなぞろうとした。
その瞬間、「そ、それはまさか、文字書きごっこだね! オラ、文字書きごっこ大好きだよ! 書いて、書いて。えへへ」とマイちゃんがとても喜んだ。
そんなマイちゃんを見てラグン少年もまた自然と笑みが溢れた。
◇◇◇
ラグン・ラグロクト。
ラグン少年は床に指でゆっくりと分かりやすく文字を記した。それに対して心の中のハリネズミに似た何かが「えっ……」という表情をしてきたような気がしたが、邪魔をしてまでは来なかったのでラグン少年はあまり気にしなかった。邪魔をしてこないのであればそれは仕方がない事、と。
だが、ここで思わぬ誤算が生じた。
実はマイちゃんは文字の読み書きが得意ではなかったのだ。一応は全ての文字を読めるのだが、それは文字としてはっきりとした形が残っているのが条件であり、今回のように、ごっこ、つまりは形として残らない書き方ではイマイチ何て書いてあるかが分からなかった。
「もっかい! もっかい書いて! オラ、よく分かんなかったよ。もっかい、もっかい。次こそはオラちゃんと読むから、もっかい書いて」
「……」
それからラグン少年は指で文字をなぞり、マイちゃんが「もっかい」を繰り返すこと、実に10分が経過した。
「もっかい! もっかい! うーん、ロとクとトは分かるんだけどなー。最初の、棒線をひっぱって、その下に平仮名の、つ、みたいな字がよく分かんないんだよ。そんな片仮名あったっかな? オラ、知らないよ、そんな字?」
ラ。正直マイちゃんはノートに鉛筆で記された文字なら読めるのだが、ごっこでそれを読む想像力は乏しかった。単純に、ラ、グ、ン、のように一つの文字が離れ離れになっているのを読むのが苦手であった。ちなみに、ラはマイちゃんの口癖のオラのラではあった。
「もっかい。もっかい、書いて! 次こそオラ、ちゃんと読むから」
マイちゃんは健気に一生懸命だ。故にラグン少年は困った。10分読んでも読めなかったという事は、たぶんこの後も読めない確率が高そうだから。だが、このごっこを終わらせる訳にはいかない。健気で一生懸命なマイちゃんの為にも。
なのでラグン少年は──
最初の文字を消した。いや、次の文字も。マイちゃんが読める文字までの全てを。
残ったのは、
ロクト。
「えっ? それでいいの?」
マイちゃんがそう問い、ラグンは微笑みを浮かべたまま頷いた。
ロクト。
──つまりそれはラグン少年が勝手に改名をした事を意味した。
ロクト。
「じゃあ、じゃあ、オラ、ロクちゃんって呼びたい! その方が可愛いから。駄目かな?」
更にロクちゃん。
勿論ラグン少年はそれも快諾した。
ロクちゃん。
ラグン・ラグロクトはこの瞬間からそんな名前になった……。
ロクト。
ロクちゃん。
…………。
◇◇◇
「……一つ質問があるんだけど……」
ラグン……いやロクトがそう言い、マイちゃんは先ず驚いた。
「しゃ、喋れるんだね。オラ、ロクちゃんはてっきり喋れないと思っていたから驚いたよ。って、早速オラ、ロクちゃんって呼んだんだよ。えへへ」
「……うん、喋れるよ。自分の名……特定の言葉だけが何故か言えなかったんだ……」
「そうだったんだね。喋れるんなら、オラ会話は得意だよ。質問ってなに?」
「……うん。ボクは……」
そこで彼はやや暫く口篭った。そして、それから意を決したようにこう続けた。
「──ボクは生きていていいの?」
その瞬間、マイちゃんは驚いた。何故なら、生きる事に理由が必要と考えた事がなかったから。ぬいぐるみのオラでさえ普通に生きているのに、と。
故に、
「うん、いいよ」
と、マイちゃんは当たり前のようにそう答えた。
「──ぜんぜん生きていていいよ。ダメとかないんだよ。なんでそんな事を言うの? 生きていてダメな生き物なんていないんだよ。何を言っているの? オラなんて基本的にはぬいぐるみだよ。ほぼ綿で出来ているんだよ。でも生きているんだよ。生きる事に理由なんて必要ないってミョクちゃんも言っていたんだよ」
「……ミョクちゃん?」
「だから全然生きていていいんだよ」
「……ボクは許されるの?」
「うん、いいよ。いいんだよ。何に許されるのかよく分からないけど、どうしても誰かの許可が必要なら、オラが許すんだよ」
えっへん。
許す。生きる事を。
その言葉が正直に嬉しかった。目覚めた時にあの幽閉の地で、扉の外に出るまでに色々な事を考えていたから、それら全てから救われる気がした。
許す。生きる事を。
無論、それはただの言葉での約束でしかないのだが、それでもロクトは涙が溢れるほどに嬉しかった。
「……生きていていいんだね。許してくれて、ありがとう」
「えへへ。いっぱい生きるんだよ。えへへ」
800年ぶりに目覚めたラグン・ラグロクトは、800年ぶりに優しさに触れた。




