8. ストライクゾーンはトロ子
教室の扉を開くと、泣いている早坂がそこにいた。
予想だにしない展開に、一瞬思考が固まる。
「ど、どうしたんだよ、早坂」
「ごめんなさい!私、みんなから櫻木くんをとっちゃって…練習のせいで友達とも遊べなくて!め、迷惑ばかりかけてごめんなさい!」
早坂の口から出るのは謝罪の言葉ばかりで、内容からさっきの話を聞いていたことに気付いた。
それにしたって、そんなに俺の行動は嫌々ながらも仕方なくしているものに映るのだろうか。
それはかなり心外だ。
自分の純粋な好意をそうとは受け止めてもらえないことが、こんなに辛いことだなんて初めて知った。
悲しくて、空しくて、少し腹立たしい。
「…早坂は他人のことは気にかけるくせに、肝心の『俺』の気持ちは聞こうともしないんだな」
口に出せば、確かにその通りだと自分でも納得してしまった。
そうだ、早坂は『俺』自身を見てくれていない。
「大事なのは俺がどうしたいか、だろ。俺は誰かに指図されておまえのこと助けてる訳じゃないし、時間を無駄にしてると思ったこともない」
早坂はおずおずと聞き返してきた。
「ほんとう、に…?」
潤む瞳で上目遣いに見つめられ、俺は彼女を安心させるために自然とその頭を撫でる。
「嘘をつく理由なんてないだろ?」
それに、それを言うなら俺の方が早坂の時間を奪っているじゃないか。
俺は、先日ついに訊けなかった図書委員の当番の一件を思い出していた。
「ごめんな、早坂に練習を強要してたんだな。俺、委員の仕事があるなんて知らなくて…」
そう呟くと、早坂は大慌てで両手を左右に振り出した。
「強要なんてされてないよ!?私、櫻木くんと特訓したくて!だから、自分のわがままで当番を代わってもらっただけだから」
今度は俺が、本当か?と確かめる番になった。
必死で頷く早坂の真剣さに、笑いが込み上げる。
「なんか俺たち、相手を気遣いすぎてすれ違ってばっかりだな」
それに早坂は賛同するように、照れ笑いをこぼした。
そのあとの彼女の問いかけは、俺の中の曖昧な感情をひとつの答えに導く、決定打になる。
「でも、どうして?入学して今まで話す機会も特にあった訳じゃないのに。どうして私のこと、助けてくれるの?」
どうしてって?
俺はただ、危なっかしくて放っておけない早坂に手を貸したいんだ。
でもそれなら、『トロい』やつは全て助けてやらなくちゃならないな。
…いや。きっと、そうじゃない。
大事なのは、『早坂』なんだ。
『そのこと』に思い至った瞬間、俺は全てを理解した。
ああ、そうか。
俺は、早坂のことが『好き』なんだ。
そうとわかれば、俺は今までなんて鈍かったんだろう。
俺は思い返せばいつだって、彼女を見ていた。
ふと思いついて、早坂の問いをあえて無視して訊ねる。
「おまえ、50メートル走の記録覚えてるか?」
早坂は突然の話題転換に目をパチクリさせながらも答えを返そうとし、ややして断念した。
「ごめん、遅いのはわかるけど」
「15秒64」
「……え?」
跳び箱は三段でリタイア、水泳は個性的な泳法を駆使しても12メートルが呼吸の限界。
今月に入って躓いた回数は、俺が知る限りで7回。
そこに『愛情』がなければ、どうして張本人さえ覚えていないダメ記録を俺が記憶してる?
最初は物珍しいだけだった、それは確かだ。だけど興味本位で観察を続ける内に、いつからか『俺』がなんとかしてやりたいって思えたんだ。
俺って案外女の好みが変わってるんだな、と苦笑。
だけど早坂。
いつだってめげずに一生懸命なおまえの姿は、俺を惹きつけてやまないんだ。