マップシェイク
オンラインマップに掲載されている店が存在しないことに救われながら歩いていた。
すでになくなっているはずなのに、じつはなくなっていないかもしれないと期待させてくれる。
靴底が剥がれそうなスニーカー、三年前に流行った秋服、胸ポケットに入れた合皮のミニコインケース、肩にかけたぺっらぺらのトートバッグ、吊りひもで首にかけて今は右手でしっかりと持っているおなじみの電子端末、さっきファストフード店でテイクアウトして今は左手でふんわりと持っている謎の甘ったるい飲み物。親切な忠告にしたがって今日の俺はミニマリストだ。
★注意★
なくしたものは、
二度と見つからないので、
貴重品はなるべく持ち歩かずに、
最小限の装備で、行いましょう♪
俺はマップを見ながら花屋に向かっていた。右手のファストフード店を横目に北方向へ直進する。次の交差点で右折をして進んだ道に大きな書店がある。ふらっと入ってみたくなったが、片手には何が混ざっているのかわからない甘ったるいことだけは確かな飲み物があった。ストローをくわえてニュ~と謎の甘ったるいシェイクを吸いながら書店の前に陳列された吹きさらしの雑誌群を見る。ひもで縛られたりテープで留められたりして立ち読みできないように工夫されている。
雑誌を立ち読みしていた俺に、ちづこちゃんは「そこに『立ち読み禁止』って手書きでぶら下がっているでしょ」と目に見えてわかる事実を述べた。棚板にテープで留められた紙はしわくちゃで黄色く劣化しており、文字は赤いマーカーで太く書かれ、テープの両端には黒い汚れがこびりついていた。俺たちはまだ小学生で、背の高さも同じぐらいだったのに、ちづこちゃんと俺では見えるものがまったく違っていた。「あー、本日も幸先よく間違えてるね、ちづこちゃん。長時間の立ち読みが迷惑なだけで立ち読みそのものは禁止されていないんだよ。本当に禁止なら、カバーで覆ったりひもで縛ったりするはずでしょ」ちづこちゃんは反論せずに舌打ちして、俺は勝ち誇ったものだ。
でも本当はいくらでも反論できたんだと思う。
左手の書店に見送られながら次の交差点で左折する。横断歩道を渡って左折した先に文房具等を取りあつかうチェーン店のビルがあった。ふらっと入ってみたくなったが、片手には何が混ざっているのかわからない甘ったるいことだけは確かな飲み物があった。ストローをくわえてニュ~と謎の甘ったるいシェイクを吸いながら目を軽く閉じて想像する。ビルの二階に広がっている白くて生活感のない空間の中ほどまで歩いたところにボールペンの売り場がある。
ボールペンの一本一本でカラフルなうんこを一巻きずつ試し書きしていた俺に、ちづこちゃんは「あんたみたいに無駄に試し書きをするやつがいるから線がカッスカスになって書けなくなるボールペンが誕生するのよ」とやつあたり気味の暴言を吐いた。俺たちはもう中学生で、少し前まで似ていた体つきもかけ離れつつあり、俺はちづこちゃんのきれいな鼻筋から視線を滑らせ、うんこの並んだ紙を見た。「目の前にあるものがわからないのかね、ちづこちゃん。これは試し書き用の紙って言うんだよ。つまり店は試し書きを推奨しているんだ。線がカッスカスのボールペンを買わないで済むようにね」ちづこちゃんは言い返さずに腕組みをして、俺は持ち上げられた胸を凝視したものだ。
たぶんその視線も気づいていたんだと思う。
右手のビルに見送られながら二つの交差点を直進した先、俺は目的地にたどり着いた。ストローをくわえてニュ~と謎の甘ったるいシェイクを吸ってからその店に入る。
「すみません、好きなひとに花を贈りたいのですが」
一本の花をトートバッグに挿し、ぐるりと転回して南方向に進む。見たことのないカレー屋に鼻がぴくぴくと動く。出しっぱなしのモーニングの看板、出しっぱなしのランチタイムの看板、出しっぱなしのディナーの看板。営業時間は決まっていても街はいつでも存在している。営業を終了した途端にパッと消えたり営業を開始した途端にパッと現れたりはしない。だから地図が発行されている。オンラインでも地図で場所を検索できる。記載に間違いはあっても、道や建物が急に変わらないことには違いない、とされているから地図屋が儲かる。
二つ目の交差点の角に喫茶店はなかった。オンラインの地図上ではまだ営業していることになっている。しかしどんなに寒い冬でも開店中のあいだは開け放たれていた扉は今や固く閉まり、壁には「テナント募集」と書かれたつやつやのシートが貼られている。
存在しない喫茶店に背を向けて直進すれば、ファストフード店が見えてくる。ストローをくわえてニュ~と謎の甘ったるいシェイクを吸いながらファストフード店の前で立ち止まる。窓ガラスの向こう側では大勢の客でごったがえしており、店員たちは慌ただしく働いている。
安いハンバーガー一個と水でねばっていた俺に、ちづこちゃんは「長居したらお店に迷惑でしょ」と単純明快な文句で怒った。俺たちはまだ中学三年生で、ちづこちゃんのくちびるはポテトの油でてらてらと光って見えた。「まだ世の中の仕組みをわかってないのかね、ちづこちゃん。混雑してないからいいんだよ。むしろすぐに退店されたら困るさ。客がだれもいない店なんて不吉だからね」ちづこちゃんがズズズと無言で謎の甘ったるいシェイクをストローで吸い上げる姿を見て、俺は帰りたくない理由を追及されなくてよかったと安堵したものだ。
だけどわかっていたから聞かなかったんだと思う。
マップを見ながら花屋に向かう。北方向へ直進し、次の交差点で右折、次の交差点で左折、次の交差点で左折、横断歩道を渡り、二つの交差点を直進した先、俺は目的地にたどり着いた。ストローをくわえてニュ~と謎の甘ったるいシェイクを吸ってからその店に入る。
「すみません、好きだったひとに花を贈りたいのですが」
一本の花をトートバッグに挿し、ぐるりと転回して南方向に進む。
そこにはかつて喫茶店があった。オンラインの地図上ではまだ営業していることになっている。俺はストローをくわえてニュ~と謎の甘ったるいシェイクを吸いながら固く閉ざされた扉を見つめる。
オムライスのソースがついた皿を舐めようとしていた俺に、ちづこちゃんは「たまごに包まれただけのライス」と心ここにあらずといった様子でつぶやいた。俺たちはもう高校生で、久しぶりに会ったちづこちゃんはとても小さく見えた。「いつになったらわかるんだい、ちづこちゃん。このライスが存在しなかったらたまごだって存在できなかったんだ。考えてみてよ、いったいどこのだれが薄く広く伸ばされただけのとろとろたまごにお金を払うんだい」ちづこちゃんはナイフでオムライスのオムの部分だけを四角に切り取ってから上手にぺしと折って三角にし、俺はうっすら心配したものだ。
でも本当は深入りしたくなかったし聞きたくなかったし相談されたくなかったんだと思う。
存在しない喫茶店に背を向けて直進すれば、ファストフード店が見えてくる。注文を待つ列と受け取りをまばらに立って待つ人たちでごったがえしている様子をガラス越しに見物し、謎の甘ったるいシェイクをチュー、ジュ、ジュー。
ちづこちゃんは両手で顔を覆って「結局、あんたの言うとおりだった」と漏らした。俺たちがここにいるためのジュースもハンバーガーも今や腹の中。店内にいた客たちは空気遠近法で青くかすんだ背景のように存在感を失い、ここには俺たちしかいないような気がした。「もう帰ろうよ、長居したらお店に迷惑だし、受験生だろ」「事故と説明されたけどわたしは信じない。あの子は自分から車に飛びこんだ」「きみには関係ない話じゃないか。きみがその場にいようといまいと結末は変わらなかったさ」「さっきから認めているでしょ。いつもあんたが正しかったって」「そんなのいやだよ」ちづこちゃんはいきなり顔を上げた。大きな目をさらに見開き、今にも涙がこぼれそうだった。「何がいやなの」俺はしどろもどろになって、いろいろと言葉を重ねて、でも軽くて薄い言葉だったから、すぐにばらばらと崩れてしまった。
いったい何がいやだったんだろう。
マップを見ながら花屋に向かう。北方向へ直進、交差点を直進、交差点を左折、横断、そのまま直進した先、俺は目的地にたどり着いた。ストローをくわえてズッズズッと謎の甘ったるいシェイクを吸ってからその店に入る。
「すみません、さよならするひとに花を贈りたいのですが」
一本の花をトートバッグに挿し、ぐるりと転回して南方向に進む。
善意で行われているとき、あるいは悪意で行われているとき、人の手によって行われているとき、それは確実ではない。なぜなら人はミスをする、誤る、間違える、嘘をつく、手が滑る。
ある日、俺は滑らせた。――正しいんじゃなくて応用が利かないだけだよ。
片手でマップを見ながら歩く。ある場所をタップする。情報がなかなか読みこまれない。みんな、応用が利くふりをして、要領がいいふりをして、いつだって怠惰だ。わざわざ振りかえってまで己の間違いに気づこうとしない。あるいは気づいても誤りを放置する。つまり地図は完璧じゃない。
だから俺は期待している。誤っている地図を正しいと信じて迷っているうちに、きみに出会えるかもしれないって。
喫茶店の写真、店名、営業時間、電話番号、そして【営業中】の表示がマップに現れる。俺は立ち止まり、古きよきつくりの喫茶店に入る。
ちづこちゃんは二人がけのテーブルで壁側のソファ席にゆったりと座ってメロンソーダの泡がはじけるさまを眺めていた。彼女はまだ大学生で、私服を上品に着こなしていて、だけど完璧には垢抜けていなくて、これからもっともっときれいになる、はずだった。ドアベルの余韻が響く、だれの気配も感じない店内を歩き、彼女の正面に腰を下ろす。「遅れてごめん」でも本当は遅れもしなかった。面倒で、だるくて、なんとなく顔を見たくなくて、嫌気がさしていて、うんざりしていて、あの日、俺は約束をすっぽかしたんだ。
「とんだ周回遅れね、ばかみたい」
やわらかな声で、いつになく機嫌がよさそうだった。俺はずっと手に持っていた何が入っているのかよくわからない謎の甘ったるいシェイクをテーブルの上に置いた。この飲み物はどうやって作られているんだろう。そんなことも知らずに甘くておいしくて定番だからと飲んでいた。よくわからないものを栄養として取りこんで混ぜこんで今の俺ができた。何もわかっていなかった俺が。
「ゲームの裏ワザ投稿サイトに書いてあったんだよ。花屋のマーケティングだって一蹴されていた」
「あんたは今でも裏技を使って裏道を通って裏切っているのね。いつもそうだった。調子がいい、要領がいい、外面がいい。全部、わたしと正反対だった」
罵倒のような甘やかしのような響きだった。ちづこちゃんは頬杖をついて、俺をやさしいまなざしで見つめていた。目をそらしたくなった。でも目をそらしたくなかった。本来は見ることができないもので、今後も見ることはできないから。
「俺は思うんだよ、ちづこちゃん。現実は簡単な図形と線で描かれた地図とは違う。もっと曲がりくねっていて思いがけない道があって必要性のない階段がある。だから、さ、まっすぐ生きようとしたらコースアウトしてしまう」
「あんたは横転するわたしを見て笑いたいのかと思ったけど」
ぎょっとする俺をよそに、ちづこちゃんはストローでちゅーとメロンソーダを吸い上げた。半透明の赤いストローにメロン色が合成され、ちづこちゃんのくちびるにすーっと近づいてゆく。が、たどり着く前にメロン色は降下し、ストローは元の色を取り戻した。視線を上げると、彼女はにやにやとしていた。見ていたことを見ていたのだ。
「良くんはまじめで不器用なわたしが嫌いで好きだったんでしょう」
息をのんだ。
「わたしも嫌いで、だけど好きだった。もっとばかみたいに生きられたらと悔しがった夜の翌朝にはしゃんとしていた。得しなくたって損しかなくたって、わたしはわたしが正しいと思うことをやりたい。規範や規則が正しいから正しくあろうとしているんじゃない。規範や規則の正しさに惚れ惚れしているから正しくありたい。光だけを浴びたいから光でありたい。罪悪感という陰を自分の人生に落としたくない」
よどみなく話していたと思うと、ちづこちゃんは急にまじめな顔をした。と思ったら眉を下げて悲しげになった。と思ったら眉をつり上げてよく見た顔になった。その後もころころと着せ替えし、ようやくお似合いの表情が見つかったのか、彼女は、学級委員だったときのように、風紀委員だったときのように、生徒会長だったときのように、俺がしでかしたとき、俺が嘘をついたとき、俺がからかったときにキメた――それはそれで行儀が悪いんじゃありませんかね、でおなじみのポーズ、つまり俺の鼻先に指を突きつけた。
「あんたみたいに後悔したくないから」
そして無防備な俺の額をとん、と押した。
俺は押された方向に倒れてゆく。ちづこちゃんとメロンソーダとテーブルがどんどん遠ざかって小さくなる。
「これに懲りたら、もうすっぽかさないようにね。ま、あんたが約束通りに来たところで、わたしは見知らぬガキをかばって死んでいたでしょうけど」
――顔はきれいなままだったということで、俺はちづこちゃんの最期の顔を見せてもらった。
そのときと同じ、おだやかな笑みを浮かべていた。
気づくと、目の前には横断歩道と信号とガードレールがあった。いまいましい。何も守れなかったくせにまだ存在してやがる。
振りかえると、そこにはかつて喫茶店があった場所がある。
オンラインマップには【閉業】と書かれている。
結局、白昼夢か。思い出を再構成しただけの物語か。自分に都合のよい励ましをもらって納得して安心するだけの自己陶酔か。ぐるぐると回っただけで、どこにも行けなかった、どこにも進めなかった……今にも膝から崩れ落ちそうな疲れを感じ、俺は何かよくわからない謎の甘ったるいシェイクをチューチューしようとした。
が、手には何も持っていなかった。
三本の花を束ねて、ガードレールの手前に不法投棄する。さようなら、ちづこちゃん。俺は前を向いて歩く。