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異世界恋愛系(短編)

いらないのなら、返してもらうわね。

「即刻、この国から出ていけ」

「もう、あたしはいらないの?」

「いらない。必要ない」


 硬く強張った王太子の顔を見ながら、聖女はくすくすと声を立てて笑った。恩知らずとも言える王太子の言葉など、意にも介していないようだ。


 王太子が結婚式を挙げる予定の神殿はどこもかしこも真っ白に彩られていた。けれど今は、王太子と聖女以外誰もいないせいか、妙に寒々しい。婚姻を結ぶよりも、いっそ葬儀において別離を惜しむかのような静けさに満ちている。


「あんたがあたしを求めたのに?」

「俺の知ったことではない」


 みるみるうちに、外が薄暗くなっていく。遠くで雷が鳴る音がした。



 ***



 この日は、救国の英雄である王太子の結婚式だ。王国の有力貴族の娘と婚姻を結ぶ大事な日。そこに、現れたのは招待されていなかった聖女だった。


 聖女は警備を任された騎士たちの間を軽やかにすりぬけ、神殿の中に足を踏み入れた。しかし神殿の中の人々は、聖女がそこにいないかのように振舞うばかり。


「えー、これ、なあに? あたし、何も聞いてないんだけど?」


 響き渡る聖女のこの場に相応しくない言葉も、最初は完全に無視されていた。しかし、すぐに腹に据えかねたのか人々が聖女を排除しようと動き出す。ところが、主役であるはずの王太子はそれを許さなかなった。


「やめろ、お前たちは何もするな」

「しかし、殿下!」

「うるさい、黙れ!」


 とはいえ王太子の言葉を無視し、何人もの貴族が立ち上がる。慌てる王太子を尻目に、やれやれと聖女が髪をかきあげた。ぱちんと指を鳴らすと、周囲からざわめきが消える。王太子と聖女以外の人間がいなくなった。


「はあ、もう本当にうるさいったらありゃしない。これじゃあ、落ち着いて話をすることもできないじゃないの」

「何をした」

「別に殺したりしてないわよ。そんなことしたら、あんた怒るでしょ」

「……それはそうだ」

「だから最初の約束を守っていい子にしてるでしょ。ほら、ちゃんと誉めて」


 王太子は肩を落とし、頭痛をこらえるように静かに頭を押さえた。


「ねえ、あんたに出会った日のこと、覚えている?」

「……忘れたことなどない」

「たった今、約束を破ろうとしたくせに?」


 王太子の返事など聞いていないかのように、聖女は楽しげに軽やかな足取りで踊り始める。



 ***



 王太子は砂漠の国で生まれた。もともと彼らの祖国は、緑あふれる美しい土地だったらしい。けれど度重なる干ばつと戦により、大地は荒れ果てやがて砂ばかりの国になったのだという。


 かつての美しい祖国を知るものは、もういない。それでも彼らはかつての夢を見る。青々とした森に咲き誇る花々。魚が踊る冷たく澄んだ小川。見渡す限りの砂漠で彼らが何より欲したものは、清らかな水だった。


 めったに降ることのない雨を待ち、ひとたび雨が降り始めたならば何をさておいても水の確保に躍起になる。そんな暮らしをしていた王太子は、他国に当たり前のようにある井戸や、川や、海を見て羨望から出るため息を抑えることができなかった。そしてある日を境に、頼みの綱である雨さえ降らなくなってしまったのである。


 水がなければひとは死ぬ。


 このまま指を咥えて雨を持つわけにはいかない。だが、砂漠の国でできることはもうほとんどない。井戸など掘っても水が出てこないことはわかりきっている。水が欲しいのなら、他国を襲って土地と水源を奪い取るしかないのだ。


 王太子は自国の民を守るために、他国の民の命と生活を脅かす存在になることを決意した。自ら望んで化け物に成り下がるのだ。だが彼の決意とは裏腹に、王太子が戦場に出ることはなかった。



 ***



「兄上には、別の仕事がある。水の乙女を探すという大役だ」

「夢物語を信じていいのは幼子だけだぞ。それに国の命運を分ける戦だ。俺が行かずして、誰が出る」

「もちろん僕が」

「何を寝ぼけたことを。書物ばかり読んでいるお前に務まるはずがないだろうが。さっさと今のうちに避難する準備をしておけ。万が一の場合には、お前に王太子を務めてもらわねばならんのだから」

「駄目だよ。戦を指揮するのは僕でもできる。でもね、ひ弱な僕では水の乙女を探しに行くことはできないから」

「夢物語を本気にするとは愚かな」

「僕はこの上なく真剣さ」


 弟が王太子に話していたのは、この国に伝わる聖なる乙女の伝説だ。かつて今と同じように水不足にあえいでいた際、ふらりと現れた少女が歌を歌うと、たちまち雨が降り始めたのだという。


「大丈夫、僕の勘はよく当たるんだ」


 弟の言葉とともに、王太子の足元が不意に光り出した。四方に置かれていたのは、王族に伝わる秘宝。


「脱出用の転移陣を弄ったのか!」

「このために頑張ったんだ。悪いけど、攻め込む予定の国境とはうんと離れた場所に送るよ」

「馬鹿、やめろ! 王になるのは、お前の方だ! この国をよりよく導くために必要なのは脳筋の俺ではなく、賢いお前なんだ!」

「僕、兄さんなら水の乙女を見つけられるって信じているんだ。乙女は、心優しく純粋なひとの前にしか現れないそうだから」


 それが兄弟の交わした最後の言葉。

 王太子の弟は、それから作戦中にあっけなく死んだ。水と食料不足でまともな戦にもならなかった。


 一方、戦地とは反対方向に飛ばされた王太子は、たったひとりで盗賊や他国の間者と戦いながら王都を目指していた。こんな状態で水の乙女が見つかるとはとても思えない。手足もぼろぼろになり、痩せこけ、それでも彼が願ったのは、民草の誰もが当たり前に水を飲むことができるごくごく当たり前の暮らしだった。


 とうとう一歩も歩けなくなったとき、砂の中に埋もれながら王太子はきらめく泉のような声を耳にした。幻聴かと思ったが、その声は王太子が意識を手放すことを執拗に邪魔してくる。


「水がほしいの?」

「……ああ」

「どれくらい?」

「国民が平和に暮らせるだけ」

「それだけの水があれば、あんたは嬉しいの?」

「嬉しいさ。幸せすぎて、死んでもいい」

「いいわ。あんたが望むのなら、好きなだけ雨を降らせてあげる。でも、その代わりにあたしと約束をしてくれる?」

「俺に何を望む」


 死に際に死神と取引か。それもまあ悪くはない。霞む目をこらしつつ、顔を上げた王太子は間近にあった美しい少女の姿に息を呑んだ。


「あんたの隣にずっとおいてくれたなら、あたしはそれで十分だわ。でも、約束は絶対よ。破ったら、どうなっても知らないんだから」

「承知した」


 そうして、王太子は稀代の聖女を得たのだ。



 ***



 聖女は美しく、あどけない少女だった。


 貴族の礼儀には総じて疎く、けれどかといって粗忽さが目立つことはない。どこかふわふわ浮世離れしていて、まるで妖精のように純真無垢だった。


 周囲が自然とひざまずきたくなるような、そんな涼やかな泉のような少女。何より、国民の信頼も大きい王太子が連れてきた少女である。例え聖女ではなかったとしても、王太子の命の恩人というだけで下にもおかない扱いになるだろうと簡単に想像がついた。


 その上聖女は、この国に再び豊かな恵みをもたらした。


 彼女が歌えば、世界に光が満ちる。空はまたたき、雲を呼び、雨を降らせるのだ。ひび割れた大地に雨が染み込み、緑が顔を見せたとき、人々は涙を流して聖女にこうべを垂れた。何があろうとも、聖女に付き従っていこう。彼らは手に手を取りあい、そう誓いあった。彼女は王国の民にとって、神にも等しい存在となったのだ。


 けれど、人間というのは愚かな生き物である。時が経つにつれて受けた恩も忘れ、目の前のことに不平不満を漏らし始めた。


 特にその気が強かったのは、娘を未来の王妃として王太子に嫁がせたい高位貴族たちだった。


 聖女はいずれ国王となる王太子の正妃になるには身分が不確かすぎるだとか。


 聖女の力は単なる偶然。長い歴史の間では、干ばつも起こりうるだろう。たまたま聖女の歌が、雨を呼んだように見えただけなのだとか。


 聖女の力は本物かもしれないが、あまりにも見た目が貧相すぎるだとか。いっそ不可侵の存在として神殿に繋いでしまえという乱暴なものまで出始める始末。


 とうとう、王太子は側近の言葉に従うことにした。救国の英雄とはいえ、王族は周囲の貴族の言葉に耳を傾けねば国をまとめることは難しい。そして、有力貴族の娘を正妃として迎え入れることにし、彼の隣にいた聖女を国外へ追放することにしたのである。



 ***



「即刻、この国から出ていけ」

「もう、あたしはいらないの?」

「いらない。必要ない」


 硬く強張った王太子の顔を見ながら、聖女はくすくすと声を立てて笑った。恩知らずとも言える王太子の言葉など、意にも介していないようだ。


 王太子が結婚式を挙げる予定の神殿はどこもかしこも真っ白に彩られていた。けれど今は、王太子と聖女以外誰もいないせいか、妙に寒々しい。婚姻を結ぶよりも、いっそ葬儀において別離を惜しむかのような静けさに満ちている。


「あんたがあたしを求めたのに?」

「俺の知ったことではない」


 みるみるうちに、外が薄暗くなっていく。遠くで雷が鳴る音がした。


「いいの? あたしがいなくなったら、全部元通りになっちゃうわよ」

「……わかっている。それでも、俺は君をこの国から追放する」

「嘘つき。あたしがいなくなったら、この国は元通りになっちゃうのに。あんたが大事にしているみんな、飢えて死んじゃうよ。それが嫌であたしを探していたんじゃなかったの?」


 王太子が苦しそうに顔をゆがめた。神殿の中にいるというのに、真夏の砂漠の真ん中で水を求めさまよう旅人のように、虚ろな眼差しで聖女を見上げる。


 自分が何を口にしたのか、今さらながらに気がついたような、けれど最初からわかっていたかのような、不思議な色を瞳に乗せて、力なく床に膝をついた。それは、神を前に懺悔を行う敬虔な信者によく似ている。


 聖女が歌えば、空から雨が降ってくる。だから王太子は何度もねだった。彼女の雨乞い歌を。彼女が歌を歌えばどうなるか、知っていて見ない振りをした。多くの命が助かるのなら仕方がない。傲慢にもそう考えていたのだ。


「前回、雨を降らせてからどれくらい経ったっけ? もっと雨を降らせた方がいいんじゃないの?」


 聖女が微笑み、思い切り息を吸い込もうとするのを、王太子は悲鳴を上げて遮った。


「やめろ! これ以上、力を使うんじゃない! 雨を降らせるたびに、君はぼろぼろになっていくじゃないか。このまま力を使ったら、死んでしまう!」


 水晶のように輝いていた長い髪は千切れ、すっかり色を失くしてしまっていた。黄金のごとく艶めいていた肌もかさかさになり、唇もひび割れている。ただ青い瞳だけが、かつての彼女のまま深く澄みきっていた。


 このまま力を使い続ければ、この瞳の色さえ白く濁ってしまうに違いない。わかっていて自分が願ったはずなのに、彼にはこれ以上耐えられなかった。勇猛果敢な英雄は、結局のところただの臆病な卑怯者でしかない。


「頼む、君が君でいられるうちに、ここから逃げてくれ」

「勝手なひとね」

「本当にその通りだ。返す言葉がない」

「わかったわ。じゃあいらないのなら、返してもらうわね」


 聖女が両手を横にひらき、くるりと踊るように一回りする。


 ぱちん。シャボン玉が割れるような、どこか涼やかな音がして、何かが弾けるのがわかった。ああ、魔法が解けるのだと王太子は天を仰ぐ。


「これで終わりだなんて思ってない?」

「やっぱりそうなるよな」

「あたしがあんたにあげた分、あんたもあたしにちょうだいな。あげたものを返してもらうだけじゃ足りないもん」

「……俺に払える対価ならなんなりと。ああ、でもこの国の民全員の命、なんて条件は無理だぞ。払えるのは俺の命だけだ。何回なぶり殺してもらってもかまわない」

「ふうん、じゃあ、あたしが丸呑みにしてもいいんだ」

「俺は、頭のてっぺんから足の先まで君のものだ。もちろん、この心も」


 彼女の好意につけこんで、存在が擦りきれるくらい力を使わせた。このまま何もなく終わるはずがない。しっぺ返しもくるだろう。それでも、罪はこの身だけにしてほしい。


「てのひら返しが得意な民たちばかりなのに、どうしてそんなに庇うの?」

「俺が生まれた国であり、いつか俺が治める国だったからだ。君を傷つけたことは許されないが、それでも俺はこの国とともにあることしかできない。それが、家族をみすみす死に追いやった無能な王太子が果たすベき最後の役割なんだ」

「いやになっちゃう。最後まで、あたしより国のことが大事なのね」

「比べられるものじゃないんだがな。今さら信じてもらえないかもしれないけれど、一目ぼれだったんだ。君は誰よりも強く優しい。でも、その優しさに俺はつけこんだんだ。これに懲りたら、もう俺みたいな強欲な人間に騙されないようにしてくれ。他人のことなんて考えずに、自由に生きろ」


 今まで王太子は、砂漠の国を救った英雄として祀り上げられてきた。そして明日からは、稀代の聖女を追放した愚か者として、国の歴史に名を刻むのだ。その国さえ、いつまであるかは謎なのだが。


「自分で救った国なのに、自分でとどめを刺すの? 変なの」

「国も大事で、君のことも大切だった。ただそれだけなのに、どうしてうまくいかないんだろうな。君にも悪いことをした。弟にも合わせる顔がない」

「たぶんあんたは、なんでも考えすぎなんじゃない? あんたの弟は、あんたが生きて幸せでいることを何より望んでいるんだろうし」

「そうかもしれない」


 肩をすくめつつ、困りきった顔で少しばかり口角を上げた。大切な宝物に触れるかのごとく、震える手で静かに聖女を抱き寄せる。それから別れを惜しむように、王太子は聖女と唇を重ねた。



 ***



 彼女と唇を重ねた瞬間、雨上がりの匂いがした。むせかえるような緑と土の香り。生きる喜びを歌い続ける生き物の声がする。驚いてまばたきをすると、眼球に薄い膜が張ったような気がした。


 慌ててまぶたを閉じ改めて周りを見渡せば、いつもと同じ風景のはずなのにひとつひとつの色合いが異なって見える。普段見ていた世界よりも、もっと密に色分けされた世界。白一色で統一されたはずの会場が、淡く色づいていることに困惑した。


「これは、一体?」

「だって、全部くれるんでしょう? だからあたしと同じ世界をずっと一緒に生きられるようにしちゃった」

「俺は、何になったんだ?」


 ぺろりと聖女が唇を舐める。桃色の舌でなぞられた桜色の唇が、てらてらと艶めいた。無邪気で人間の悪意すら知らなかったはずの聖女が見せた突然の色気に、思わずめまいがする。


「あんたは龍になったのよ。可愛いあたしの番さん」

「龍? 俺が? 君は龍なのか? 精霊じゃなく?」

「そうよ。あたしは水龍。精霊でも、聖女でもない。勝手に聖女だと崇められただけ。まあ、神殿に祀られる龍は多いから、完全な嘘でもないけれど」


 ぱちんと片目をつぶってゆっくりと目を開けば、確かに瞳孔が縦長になっている。今まで気が付かなかったのは、ただ見落としていただけなのか。それとも姿を偽るのを止めたのか。


「その姿は」

「隠していたわけじゃあないわ。番のいない龍はね、少しずつ魔力を失っていくの。皿の上にある食べ物は食べればなくなってしまうように、魔力も使えばなくなってしまう」

「完全になくなるとどうなる?」

「あんたもあたしをずっと見ていたでしょう? 最後は干からびて死ぬのよ」

「そんな」

「でも、それが普通。それが当たり前。こんなに広い世界の中で、番に出会えることの方がまれ」


 もちろん番を見つけられなくても、相性のいい相手を見つけて、魔力を交換することは可能だ。でも自分は、そんな節操なしでふしだらなやり方はしないのだと聖女が囁けば、意図を理解した王太子が柄にもなく顔を赤くした。


「俺と番になったから、本来の力を取り戻したと?」

「ここが結婚式の会場でちょうどよかったわ」

「君のために用意したものじゃない」

「でも、あたしを思い浮かべて飾り付けたくせに。あの子、陰で般若みたいな顔になっていたわよ」

「そうなのか」

「あんたって、本当にひどいひと。でも、そういう馬鹿なところも含めて、あたしはあんたが全部好き」


 聖女は、ころころと笑った。すっかり短くなったはずの髪の毛が、出会った頃のように長く、艶やかにたなびいている。


「番がいたから、わざわざこんな暮らしにくい場所に住んだのか?」

「どうかしら。呼ばれた気がしたのよね。だから水場がなくて、住みづらいことはわかっていたけれど、あえてこの辺りを根城にしていたの。時々、気まぐれで雨を降らしていたから、おとぎ話の精霊扱いされるのも面白かったわ」

「まさか、君以外にも属性に合わないところに住んでいる奴がいるのか」

「そうねえ。ずっと北の雪山には火龍が住んでるわよ」

「想像していた以上の場所だな」

「神さまなんて崇められたあげく、彼も力を失って消え失せるかと思っていたのだけれど」

「彼か」

「なあに。焼きもち?」

「悪いか」

「うふふふ、なんだか嬉しいわ。大丈夫よ、安心して。その火龍はね、最近結婚したのよ。惚気自慢が鬱陶しいくらい奥さんに夢中なんだから」

「へえ、詳しいんだな」

「まあ龍はいろんなものに手紙を託せるから。届くまでにちょっと時間はかかるけれど便利よ。安心して。番は以心伝心、手紙を託す必要さえないの」

「そうか」

「今、ちょっとほっとしたでしょ」

「別に」

「もう、いつまで経っても素直じゃないんだから。まあ、そういうところも好きだからいいんだけど」


 当然のごとく彼女が手を差し出せば、王太子は恭しくその手を取り指先に口づける。


「さあ、行くわよ」

「行くって、どこへ?」

「新婚旅行。しばらくあたしの気が済むまで付き合ってくれたら、またここに戻ってきてあげる。大丈夫よ、それまでこの国がなくならないように手伝ってあげればいいんだから。本当ならあたしを追放した瞬間に滅んでても、おかしくないのよ?」

「……それは」

「あんたみたいに国を背負うことは大事だけど、自分たちで生きていけるように何でもやってあげずに見守らなくちゃ。それも、親の仕事でしょ?」

「……そうかもしれないな」


 ずっとずっと国のために生きてきた。これからは、愛する彼女のために生きても許されるのかもしれない。ふと見上げた窓の向こう、雨はすっかりやみ、空には見事な虹がかかっている。



 ***



 星の降る音が聞こえる砂漠の真ん中。


 小さな家の中で赤子を抱き、聖女と呼ばれた女は語りかける。澄んだ瞳で母を見上げる赤子は、言葉を理解しているかのようにくうくうと声を出していた。


「あたしも、あたしのお母さまに習ったのよ。大切な人間を見つけたら、すべてを捧げる勢いで相手に寄り添いなさいって」

「人間は、愚かで純粋で、欲深く謙虚で、冷たく温かく、意地悪で優しい生き物。その矛盾を全部受け入れるのよ。怒らず騒がず焦らずに、にっこり笑ってね。相手が喜ぶなら少しは焼きもちを焼いてもいいわ。ああ、焼かせてみるのもね。でもやりすぎは禁物よ。あたしたちの愛はね、重すぎるらしいから」

「え、それでも最後までいいように扱われて、自分に振り向いてもらえなかったらどうするのかって? そうなったら、最後の手段をとるしかないわね。そうよ、その大きなお口を開けてぱくりと呑み込むの」


 ひとりごとのように見えて、どうにも会話は成立しているらしい。きゃっきゃっと赤子は機嫌よさそうに目を細める。小さな口から見える、可愛いらしい牙をちょんと指ではじきながら、女はくつくつと喉を鳴らした。


「やだあ、とんだ悪女だなんて。性格が悪いのはお互いさま。それでもあんたのことは、ちゃんと探し出してやったでしょう」

「でもね、どんな形でもひとつになれたなら、それはきっと涙が出るほど幸せなことだと思うのよ。あんただってわかってるくせに」


 隣で眠る王太子の首に甘く歯を立てながら、女は歌うように笑ってみせた。

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