第三話『声の主。』
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「さっきの女の声って………日本語だったよな………?」
あわや殺されそうになった瞬間に自分を救ってくれた声が効き馴染みのある言語だった気がしてきたのだ。
「でも、おーい、だけだったしなぁ………たまたまそういう風に聞こえただけだったかなぁ………アイツの喋ってたわけのわからん言葉よりは日本語ぽかったけどなぁ………。
と、とりあえず、この森出よう!!まだ逃げきれたのかわかんないし、どこか人のいるところに…また言葉通じなくて殺されそうになるかなぁ……でもアイツが特別乱暴だった気もするんだよなぁ………」
ブツブツと独り言を唱えながらリクはゆっくりと立ち上がった。
少しずつ薄れていく恐怖の内からフツフツと希望が沸き上がってくるのを感じながら。冒頭の死亡イベントを回避出来た為に自分のスタートが今ようやく切れた様な気分になっていたし、さっきの声の主の事がどうにも気になっていた。
女だった、ということが一番の理由だったが、なぜだか不思議な声だった気がしてきたのだ。
女にしては少し低く感じる、中性的で、浮遊感のあるような透明なものを連想させる優しい声だった気がしていた。
ただのリクの妄想が補完したものかもしれなかったが、それにしても何故だか気持ちがとても落ち着いていくのを感じていた。
「行ってみるか。この先へ」
そう言ってリクは深い森の出口を探す事にした。
◆◆
リクは物凄い後悔に襲われていた。
彼はこの一年間自宅に引きこもり、それ以前にも活発に外で遊ぶタイプでもなかったので根本的に体力が無かった。
リクが知るものとは少し違う大きな名前もわからない樹木が鬱蒼と立ち並ぶ深い森を歩き続けるのはとても困難なものに思えていた。
自分が今どこへ向いて歩いているのかを見失いはじめ、周りを見渡してもほとんど見分けがつかないような同じ木々の中を、ぐるぐると彷徨っているような気分はとにかく不安でしかなかった。
時折風が吹いて木葉を揺らす音が、だれかに声をかけられたような気がして飛び上がるほどに驚き、振り返っても誰もいないということもさきほどから何度も繰り返していた。
駆け出しの異世界転移者にとって迷宮のように広大な森はあまりに広すぎた。
「ゼェ…太陽の……位置で方角がわかるんだっけかな……ハァハァ………マジ……ゼェ……きつい………ここどこだよ……ゼェゼェ……水……水飲みたい………森マジきつい………なめてた……」
もはや瀕死に近い様相のリクが汗をぬぐいながら息も絶え絶えに呟いた。汗は身体中から滝のように出るが、森はひどく寒かった。鼻血はもう止まっていたが蹴り飛ばされた顔面がひどく痛んできていた。重たくなった足取りで随分と歩いて、どのくらい時間が経ったのかわからなかったがひっそりと忍び寄るように辺りがだんだんと薄暗くなってきていたのはわかっていた。
このまま夜になるのは絶対にまずい気がする、そう考えたリクは焦る気持ちがどんどんと抑えきれなくなってきていた。
あれからなぜだか生き物に出会してはなかったが、夜になってしまえば狼や熊のような獰猛な獣にでも遭遇してしまう気がした。
もう足をひきずるように歩き、言うことのきかない身体を懸命に動かすことしか出来なかった。
それでも相変わらず景色が変わることはなく、森は巨大な生物が密かに横たわるように不穏の中静まりかえっていた。牙を隠して口を開き、このままリクが息絶える瞬間を待ち構えているかのようだった。
リクはいつの間にか自分の足が止まっていたことに気づいた瞬間つまづいて受け身を取ることも出来ず転倒し、自分の意思とは反した混濁していく意識の中、全身の疲れが身体を痺れさせるような感覚を覚え、そのまま静かに気を失っていた。
◆◆◆
どのくらいの時間が経ったのかわからなかった。
微かに聞こえた水が跳ねるような音で奥深くに沈んでしまっていた意識が徐々に浮かびあがるように覚めていった。
グラスに注がれる水音の様な気がしてきてカラカラに乾いた喉がごくりと鳴った。
“水……?水ならマジで飲みたい………めっっっっちゃ喉乾いた…………頼むから誰か……飲ませてくれ…………”
リクは動かなくなった身体をどうにか動かしたかったが、覚めてきた意識とは逆に指の一本さえ固まってしまったようになって
いてまだ動かすことが出来なかった。
───ジャリッ。
靴音がして誰かが自分に近づいてきているのがわかった。あの男
だったらもう本当におしまいだと思ったが、もうどのみち身体を動かすことは出来ないのでどうすることも出来ない、リクは動かない身体をどうにかよじろうと力を込めた。
そして何か冷たくて柔らかいものがリクの口に触れた。
それはリクの閉じた口をこじ開けて開かせると、小さな石くらいの大きさのなにかを放り込んできた。慌てたリクがそれを吐き出そうとすると今度は口を無理矢理閉じられ、頬を軽くぺちぺちと叩かれた。
「飲み込めそうかい?」
シンとした空気の中、ゆっくりと喋る柔らかな声が聞こえた。
“さっきの女……?言葉、わかる……でもちょっと待って……なにこれ……ゴリゴリしてる……木の実?無理無理無理無理無理………”
声の主に向かって必死に首ふって拒否したつもりだったが、ほとんど動いてはいなかったかも知れない。
「ふむ」
そう返事が聞こえたあと、また口を開けさせられ水を流し込まれた。口の中にある訳のわからないものは飲み込みたくなかったが、砂漠のように乾いた喉が冷たい水の清涼感を感じた瞬間に水と一緒に飲み込んでしまった。
“水うま………ッッッ!!でも……の、飲んじまったーーーッッッ!!”
「迷い木のくだらない毒気にやられてしまったんだよ。今飲ませたのは毒気覚ましの実だからね。じきに楽になるだろう」
声の主はそう言いながらリクの頭をしばらくの間優しく撫でた。時折顔についた泥や汚れを払ってくれて、顔にこびりついた血の跡も拭いてくれたようだった。
くすぐったくも感じたがとても心地よかった。小さな細い指だった。──きっと、さっきの女だ。リクが思うところの浮遊感のある不思議な声。その声が本当に沁みわたるように思えて、しばらくの間そのままリクは自分の頭を撫でる優しい感触に身を委ねていた。
“助けてくれたのか……?”
「さて、ぼちぼち目くらい開くんじゃないかい?」
そう言われて身体に少し力が入る気持ちになり、目をゆっくりと開けるとちょうどリクの顔面近くにしゃがみこんでいたのか、目の前にあるのはとても短い黒のハーフパンツを履いた誰かの股座だった。ハーフパンツとは違う白いレースのついた布地がほんの少しだけ覗いていてそれが下着であることはリクには明確に判断がついた。
“パ………パンツ……パンツ的なもの見えてるんですけど……ついに来たか………この子が俺のヒロイン………顔……顔確認させてほしい……美少女………なんだよね?”
「やれやれ」
声の主はサッと立ち上がると尻についた埃を払うような仕草をした。
真っ黒なブーツから伸びた真っ白で細いしなやな足がとても艶やかにリクの視点からも見えた。
リクは声の主の顔を見ようとしてゆっくりと視線を上げると太陽の光で目が眩んだが、顔をしかめた後一呼吸置いて、もう一度ゆっくり目を開けて、声の主の顔をようやく見ることができた。
美しい少女がそこには立っていた。
少女は化粧気の無い瑞々しい白い肌で、まるで人形のように整った顔立ちをしており、長い睫毛と鋭い切れ長の眼がまだ幼げな少女に凛とした美しさを纏わせていた。
少女のとても大きな金色の瞳と視線が合ったリクはしばらく見惚れてしまっていた。声も出せずに固まってしまったリクの様子を少女は冷静に観察するように、スンとした素っ気なさそうな表情で見下ろしていた。
タンクトップとショートパンツという出で立ちの上に、簡素な装飾の施された羽織をだらしなく肩を落として着ていて、それらはどこかアンニュイで物憂げな雰囲気を出しており、リクの眼には彼女の美しさを更に引き立てているように感じられた。
風が吹くと艶のある灰色がかった美しい黒髪がサラサラと揺れて、彼女はどこかこの世のものではないかのような幽玄な存在感を放っていた。
“び………美少女キタッッッ………!顔ちっさ………この子がさっきの声の子だよな………?マジかよ!?想像を遥かに上回る桁外れの美少女なんだが!?来たわ。俺の異世界生活の薔薇色のスタートが来たわッッッ!!異世界の神様ッッッ!!ありがとうございますッッッ!!”
まだ立ち上がることは出来ないリクだったが精一杯の力を出して少女に向けて微笑んで見せた。自分のルックスに自信などこれっぽっちも無かったが幾分か、色男に見えるように。
少女はそれを見て、表情を崩して本当に楽しそうに声を出して笑った。
なんて愛くるしい笑顔なんだ、とリクは思った。
「アハハ。君は随分気色の悪い顔で笑うんだね」
“…………………ん?今、サラッとものすごい悪口言われた……?”
少女はまだ楽しそうに笑っていて目にかかった髪をソッと指で払った。その仕草が本当に美しかった為、リクの胸中はぞくぞくとした興奮と一緒に、ぐさりと刺さった言葉の痕がズキリと痛む気がした。
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