『鼎。』
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名無しの魔女。
肉叢の魔女と名乗るシージにそうやって呼ばれたとしても、あまりに適当につけられた、何処にも辿り着くことの無い虚しいものにしか思えなくて、特になんの感想も抱くことは出来なかった。
「俺が思うに」
シージは、こちらの様子に特に何か気付くこともなく勢いよく話し続ける。
「お前が旧世界的とも呼べる精霊魔法に秀でているのも無関係じゃア無い筈だ。お前の中に在る、女神の由来が数多の精霊を引き寄せるんだろうよ」
「ただの偶然かも知れない」
「偶然であってたまるか」
彼女は笑いながら、そう言ったが、それはとても乾いていて、冷たい笑い方だった。
「俺が知る限り、言葉の精霊と契約を交わせた魔法使いなんて、指を折って数えるほども居なかった。古の精霊と対話をする為の、旧世界の精霊語を、お前はどうやって知り得た?既に失われて悠久の時が過ぎた言語を、孤児だったお前に誰がどうやって教えた?」
「はじめから知ってたんだよ」
「それが、お前が女神の化身であると云う動かない証拠だと俺は思う。女神は精霊と深いところで繋がり、隣人と呼ばれて愛でられた最初の魔法使いだ。旧世界の精霊語とは、女神と精霊の対話の記録を模倣して編み出されたものだが、それを書き写した古の魔法使いたちが使っていたものと、お前がマオライと対話を行う時に使うものとでは、かなり意味合いが違っている。お前とマオライは、語り合うのに共通した言語を介することを必要としていない」
マオライの言ったことを思い出す。
「つまり、君はボクに何が言いたいんだろう?君の云うとおり、ボクが女神様の転生した存在だとして、結局のところ、ボクにはどうもできやしないし、どうするつもりもない。それなのに、君はボクに女神との共通点を教えてくる。頼んでもいないのに。君はボクに何を求めてるんだろう?それとも、君が、ただ単におしゃべりな魔女って云うだけの話なのだろうか」
「話が早くて助かる。勿論、俺はただお前と話をするだけが目的じゃア無い。俺は、お前から封印が解けることを防ぎたいと思っている。お前がコトハから与えられた、その名前で、お前の中に閉じ込められて、姿を顕現させることの出来ない、女神の霊魂を、お前の中に封じ込めたままにしておきたい」
「でも、君はボクが女神を復活させることの出来る唯一の存在だと言った。それに、眼を醒ませとも言ってたじゃないか。なんだか矛盾して聞こえるんだけれど」
「その通りさ。だが、矛盾なんてしていないんだぜ?お前には女神としての意識を呼び覚ましながらも、女神の意識そのものは封じ込めたままにしておいて欲しいのさ。解るか?お前が女神の主人格になることが、俺がお前に求める要望のひとつだ」
一体、なにがどうなると、そんなことを望まれなければならないことになるんだろう。
「それと、おそらくだがな、女神は、己を呼び覚ます為の鍵である言葉を持つお前に転生しつつ、その意識を宿す肉体は別個に用意している。俺は女神として覚醒したお前が、その肉体と融合して、女神として完全に甦って欲しくない。それは俺の要望にはそぐわない」
「ボクは転生者のことに詳しくはないんだけど、霊魂と肉体が別に用意されてると云うのは、少しややこしくないかな?」
「女神の転生だからな、殊更にややこしいのさ。その理由として、女神は魂魄の洗浄を狙っていたんだろうな」
「魂魄の洗浄?何だいそれは?」
「まア、簡単に云えば、女神が女神で在ったことを御破算にして、一度、白紙の状態に戻すと云うことだ。白紙に書き換えると表現した方法が正しい」
「余計にわからない」
「ふふふ。前提として、女神は不老不死で最強の魔法使いだった。それなのに、何故、女神は一度死んで、この世界から姿を消したんだと思う?」
「不老不死の女神を殺す方法が、この世界に存在していたから?」
「その通りだ。不老不死の女神を殺すことの出来る、あの忌々しい女を、滅ぼすことを可能とした方法が、たしかに、この世界に在った。俺たちは、それを“病”と呼んでいた。何故、俺たちがそう名付けたかと云うとだな、それは、女神にしか罹らず、それでいて、唯一、女神から不老不死を奪い、死に至らしめることの出来た病原菌の様だったからさ」
「それで、君と仲間たちは、その病とやらで女神を殺したと?」
「俺たちは、女神が患っていた、呪いのようなそれに気づいたが、直接、手をかけてはいない。と云うよりも、俺たちが手をくだせるような代物じゃアなかったのさ。結果的にそうなっただけで、女神は病に罹って、自分で自害するような形で、くたばったと云った方が正しい」
「最強の女神様を殺せたのは、結局は女神様だけだったってことかな」
「まア、その表現も正しい。だが、厄介なのは女神が死んでからだった。一度は、女神がこの世界から消え失せたことに狂喜乱舞した俺たちだったが、女神の本当の狙いが魂魄の洗浄だったことに気づいたときの落胆ぶりと云ったら。あれ以上に絶望を感じたことは無い。女神が魂魄の洗浄を行った目的は、病の呪縛から己を解き放つ為だ。唯一、己を蝕んで死に至らしめる病原菌に対する、抗体と呼べるものを産み出す為に、あの女は自分の魂魄に刻まれた情報をゼロから書き換えやがったのさ」
一度、言葉が途切れる。
「あの女しか、あの女だからこそ、想像を創造し得て、具現化を可能にした、世界で一番、狂った魔法だ。“自らの情報を初期化して転生する魔法”。その対価は、俺たちの想像など遥かに絶する。つまり、支払うことなんて出来やしないのさ。魔法を用いて、輪廻のサイクルに触れようとすれば、その魔法は必ず術者に牙を剥く。それなのにもかかわらず、あの女はそれを躊躇無くやってのけてみせた。転生の定義とは、現在の自分とは別の存在に生まれ変わることだと俺は思うが、あの女は自分にもう一度生まれ変わることを選択し、それを叶えた。魔法的に優れた、神だの魔族だのと云っても、所詮は生物だ。生や死と云ったものとは無縁では無い。幾ら、転生を可能とすることが出来たとしても、行方を輪廻に委ねることは避けられない。あの女は、もはや生物とは云えない。生物としての定義から、あの女は完全に逸脱してしまったのだからな」
「全てを叶える女神様」
「そうだ。あの女はそうやって、今度は正真正銘の不老不死になって、この世界に再び甦ることを企んでいる」
「君たちにとって、それは都合が悪いと」
「まアな。だから、俺たちは考えたよ」
ニヤア、とした嫌な笑い方をシージが浮かべる。
「女神を完全な状態で甦らせない方法を」
「それには、ボクの存在が必要だってことか」
「そうだ。お前には“鼎”と邂逅してもらっては困る。鼎と、女神の意識を呼び覚ました、お前が出逢えば、不老不死の女神が必ず復活する。女神には不完全な状態でいてもらわないといけない。もっと云えば、俺たちには鼎はいらない」
「鼎?」
「解らないか?女神の魂魄を等分した、お前の片割れは、中央の魔女だ。あいつも転生者なのさ。もっとも、コトハは異世界からの転生者だがな」
「転生者?コトハさんが?」
「女神に見初められた、異世界の氏族の血統持ちがコトハの正体だ。コトハはニホンで命を落とし、魂に記憶を記録して刻んだまま、この世界に転生している。なまじ記憶が残っていた為に、本人は転移してきたものだと思っているみたいだがな。あいつはニホン人なんかじゃアない。この世界の人間だ」
ちょっと待ってほしい、と言いたかったけど、何故か、そうすることが出来ずにいた。
とても聞いていられないと思っていたのに、シージの話の続きを求めてしまったんだ。
「コトハとお前が、この世界で出逢い、仮初めの親子ごっこをしたのは偶然じゃア無い。お前たちが自分で選択したと思える自分の人生は、女神の意思に因って、その全てを調えられて、必然的に歩まされたものでしかない。鼎のコトハと、その鼎の肉体に女神を顕現させる為の装置。お前たち親子の結びつきの深い繋がりが、女神の強烈な自己愛だとすれば、何とも虚しいものだと俺には感じられる。だが、一概に虚しいものだとは思っていない。それは、お前が名無しの名前を、鼎である筈のコトハから与えられたからだ。お前が、お前であることを封じる名前をだ。そこに、果たして女神の意思があったのか?無意識だとしても、本質的には女神の一部のお前たちが、自らの復活を遮る、枷のようなものを一体なんの為にだ?」
誰ひとりとして、他に音をたてることの無い、灰色に滞る空間。
「そもそもとして、魂魄の洗浄なんて、俺たちの理解の範疇の外にしか無い。俺たちが何かを考えたとして、知り得る由など有り得ないのだとしたら、俺たちは俺たちにとっての最善の策を取るしかない。スイ。お前は自分から何を奪うんだと、俺に問いかけたな?」
邪悪。禍々しいとしか表現出来ない、もはや、悪意が、たまたま人の形をしていただけのように思えるシージは、こっちの返事なんて待ってはいなかった。
「俺はお前から声と言葉を奪うことにしたよ」
わざとらしく、それほど長くも鋭くもない犬歯をシージが見せつける。それは、この世界で、最も恐怖しなければいけないものなんじゃないかとしか、どうしても思えなかった。
「勿論、不完全な状態での復活を遂げたあとにだがな。鼎には逢わせない。それから、先刻の、お前に噛みついてみせた模倣する魔法は予行演習だ。噛みついて判った。俺がお前の声と言葉を模倣してみせることは可能だ」
「そうしたあとには、ボクは用済みってこと?」
声や身体が震えてしまって仕方ない。
「とんでもない。お前が用済みになることは、そのあとのことだ。俺たちは不老不死では無いお前を顕現させて、その顔も、手足や肉と骨と臓器と、皮膚も粘膜も、髪の毛のひとつさえ残さずに、文字通り、食事として綺麗に喰らい尽くしてやる。そうすれば、女神の魔法は必ず俺たちに宿る。教えてやる。それは、俺たちが不老になることが出来た、女神の母親を喰った出来事の模倣なんだぜ?」
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