『その罪。』
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わたしは腕に噛みついているシージの頭を力一杯殴りつけていた。滅茶苦茶に殴ったものだから、わたしの手も非常に痛い。人の頭蓋骨は意外と硬い。
魔法に喰われて消失してしまった筈の指が酷く痛む。間接のひとつひとつが裂けていくみたいに。
物理的な攻撃が効かない所為か、それとも、わたしが非力な所為なのか、幾ら殴ったってシージはまるで平気そうで、わたしのささやかな抵抗なんて、ちっとも意に介してやしなかった。
まァ、シャオにあれだけ殴られても平気だったんだから、当然といえば当然か。
指の皮が破れて、握った拳の掌に爪が食い込み、人間の硬い頭骨を殴った衝撃で指の付け根あたりから爪先までがズキズキと痛む。
「……長い時間を生きていると言っていたけど、随分と行儀が悪いものだね。君の魔法の正体の、なんて汚らわしいことだろう。魔法?この下品な行動の、一体どこに、その本質を見出だせばいい?はっきり言おう。本当に気持ちが悪い。頭のてっぺんから爪先まで、言動から魔法の質から何から何まで。ボクは君のコトが嫌いだ」
勿論、苦し紛れだ。情けないコトに、痛さのあまりに、わたしは泣きながら悪態を吐いた。
それに、舌の先を魔法に取られてしまったから、早口で喋った癖に呂律も回ってなくて、シージにはハッキリ聞こえていなかったかも知れない。
「それにさ。ボクは精霊との契約を解除した。君の魔法で一体、何を模写するつもりなんだろう?君は、ボクの腕に、ただ噛みついているだけだ。これ以上、ボクから何を奪えるっていうんだ?くだらない。奪えるものなら奪ってみろ」
血と汚れで、みっともないくらいにズタボロの癖に、よく喋るものだと我ながら思う。
──プッ!
わたしはシージの頭を目掛けて唾を吐いた。まるで子どもの喧嘩だ。魔法を失くした魔法使いなんて、案外こんなものなのかもしれない。
喪失した強大な力と自分との間に空いてしまった空虚な距離の隙間を埋めようと踠く。それは多分、とても幼稚で愚かな姿なのだろう。今のわたしみたいに。
酷い有り様だ。
そんなわたしの行為の原理を見透かすみたいに、シージは噛みついたわたしの腕から唇を離して、幸福なようにも、蔑むようにも見える奇妙な笑みを浮かべる。
わたしの血と、シージの涎とか交じって糸をひく。汚くも妖しい。良い意味は全く含んでない。
「何を笑っている?」
わたしは、シージのその姿に腹を立てて、そうやって問い詰める。
「いやア、思った通りだったな。と考えていたところさ。スイ。お前は俺の求めるものそのものだったんだぜ?わかるか?俺は今、このうえなく興奮しているんだ。それはもう、無様なくらいに」
この女は、そうやってニタニタとしながら言いやがるんだ。
「何がだ?お前は一体何がしたいんだ?ボクを値踏みするつもりならやめろ。これ以上、ボクとコトハさんの事を汚すな」
「冗談じゃない。止めてたまるか。俺は俺の容赦の無い欲望に非常に忠実だ。その欲を埋める為に、お前達はどうしたって必要だ。
それに安心したって良いんだからな?俺の魔法は、何もお前を取って喰いやしない。こうやってお前に噛みつくのは術式を成立する為だけの能動的な暗喩だ。腕一本ダメになったくらいじゃ、人間は誰でも死に至ったりはしないんだからな」
勝手なことを。
「だから、ボクから何を奪うつもりなんだ?精霊魔法の使えないボクは、並み以下の人間だ」
「謙遜が過ぎるな。お前が精霊術師だったことは、ある意味では、ただの体裁だったに過ぎない。その証拠に、お前の中の魔力が綺麗さっぱりに無くなったわけじゃない。契約を解いたところで、お前に備わったものは、お前の中に何も遺さずに消え失せたりはしない」
何を言ってるんだこいつは。
「随分と感傷的な意見だね。本来なら励ましの言葉だって受け止められそうだけど、君に言われたってちっとも嬉しくない」
「センチメンタルな意味合いを汲み取る必要は無いぜ?ただの事実だ」
「精霊との契約の破棄のリスクを知らないわけじゃないでしょ?繋がりが失くなることを嫌う精霊は少なくない。一度、破棄した契約を、また同じ精霊と結ぶのは難しいんだよ?」
「無論、知っているさ。だが、それは一般的な精霊術師の場合に限るな。お前はそれとは全く違う。精霊術師と云う名称が、たまたま同じだけで、その本質は異なる。もしくは、お前に関する個別の名詞が無いんだ」
「どういう意味?」
「お前は優れた精霊術師なんかではない。寧ろ、人間と云うよりも、もっとずっと精霊に近しいものだ。よく考えてみればわかるだろう?天恵者と云うわけでもないのに、お前の能力は、あまりにも異質だ。歪で不安定で不揃いだが、その内に秘める才覚と、魔法と調和するお前の姿は、この世界の誰よりも気高く美しい」
「結論を言いなよ。何が言いたいのか意味がわからない」
「スイ。お前は普通の人間ではない。かといって精霊そのものだと云うわけでもない。言っただろう?お前を表現する名詞が無いんだ」
「何それ」
「一般的な名称は無いが、お前を表現するのに、俺の知っている連中は、お前のことを『精霊の御子』なんて呼んでいたりもするがな。俺はもう少し具体的にお前のことを印象付けて呼んでいるんだぜ?」
「なんて呼んでるの?」
「『装置』だ。人の形をしているが、お前の存在や、その意義や成り立ちは、人間と云うよりも装置と呼ぶのが相応しい」
装置?
「お前は言語を共有出来る精霊を介し、或いは通じて、理に干渉する為に、言葉に魔力を宿す。しかし、それは一般的な意味合いでの魔法を行使する為だけのものでは無い。お前の装置としての役割は、この世界でお前だけが持つものだ。お前の声や言葉は、精霊のものと限りなく同化し、境界線の、そのずっと先を越えて届けられる。意味がわかるか?
お前は、この世界に在らざる者、その霊魂だか意識だかに触れて、声をかけることが出来る。それも、ある特定の人物に向けてだ。だからといって、お前は死霊術士や、鎮魂を行う神官どもなどとは根本的に違う。何故なら、お前の声が届く、その特定の人物に、奴らは自らの声を届けることが決して出来ない。この世界に在らざる、誰にも知られることないところで眠ったままの、あの女を、呼び覚ます文句を、言語を、声色を知り得て、操れるのは、この世界で、お前たった一人なんだぜ?」
内容に理解が追いつかない筈なのに、不明なままの記憶が次々に暴かれていく、とても奇妙な感覚。皮膚が捲れて、誰にも知られてはいけないコトが、零れて、溢れて、いとも容易く禁忌を侵して、わたしに、その罪を重たく背負わせる。
「お前は女神を甦らせる為の生きる装置、甦らせる為の、その言葉を知っている、或いは魂の奥深いところに刻んで、この世に産まれた。その言葉は、お前と女神しか知り得ない。眠りにつく、女神の一部を宿して、本体の意識を呼び覚ます為に産まれ、欠片としての役割を全うする為に、その時を待つ。お前は女神の一部であり、その女神自身が転生したとも云える。スイ、お前は転生者だ」
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