第二話『暴力と声。』
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“マジで……本当にヤバい…………本当に殺されるかもしれない………”
時間が停まった様な感覚に陥ったあと、男が胸ぐらを掴む力を段々と強めていくのがわかり、リクは身体の震えが止まらなくなっていた。
もがいて振りほどいて逃げ出したかったが男の腕力が明らかに自分よりも強いことがわかると、身がすくんでしまい動けなかったし、下手に抵抗すれば余計にこの男を刺激してしまうかもしれないと思った。
信じられないくらいに強烈な恐怖だった。少しでも余計なことを口走っただけで躊躇無く襲ってくるであろう男のことをもう同じ人間の様には思えなかった。
“泣きたい………”
この世界に来てまだ時間はほとんど経っていなかったが、
今まで生きてきたうちでこんなに濃密な時間を過ごしたことは無かったとリクは感じていた。
“俺、多分今日死ぬんだ……異世界で死んだらどうなんの?元の世界に戻れんの?ていうかなんなのこの状況?異世界に来てすぐに頭のおかしい奴にからまれて殺されそうになってるって、洗礼がすぎる気がするんだけど俺だけ?俺だけがそう思ってんのかな?ていうか俺なんかしたか?!なんもしてないのにこんな目に遭うなんておかしいだろ?!ぁぁあ~~~…ていうか痛いのかな?コイツの持ってるナイフみたいなのって刺されたらやっぱり痛いのかな?どうなんの?血とかやっぱドバドバ出るの?せめて楽に死なせてやるよとか思ってくれてんのかな?やだやだやだやだやだ死にたくない死にたくない死にたくない!楽にとかそういう問題じゃない楽でも苦しくてもどっちでもとりあえず絶対死にたくないッッッ”
そう考えた瞬間、強張った身体が少しだけ動く気がした。
男が力を弱めることは無かったが、このまま男の思う通りになるのが途端に口惜しくなってきた。
“なにもしないよりは、ひょっとしたらひょっとして、マシなのかも知れない、冒頭でつまづいたとしても、立ち上がることが大事なことなのかも知れない、考えろ、考えろ、考えろ!!
腕を振り払うのはきっと無理だろう。かといって俺の貧弱な力で殴ったり蹴ったりしたところであっという間に短剣で喉を裂かれてしまうかもしれない。
なにか一瞬でも、コイツの意識と注意を逸らせる事が出来たなら逃げ出せやしないだろうか?
今、俺が持ってるのは財布とスマホ、それに家の鍵………なにか使えるもんないか?!
全部上着のポケットに入ってる、取り出すのがバレたら?
その瞬間終わりか?
でもちょっと待てよ、コイツ今にも殺しそうな雰囲気ずっと出してるわりにはなんにもしてこなくないか?
何言ってるか全然わかんなかったけど、(ブッ殺!!って感じかと思ってたけど)ひょっとしてコイツもコッチの動きを探ってるのか? ”
そこまで考えたところで、リクは思わず声を出した。
「あ、、ぁ、ぁぁあのぉーーーッッッ!」
めちゃくちゃに上ずった声が出た。
「俺はあなたの言ってることがわからないし、あなたが何に怒っているのか本当に申し訳ないけどわからないです、だけどもう少し歩み寄りがしたいといいますか、俺がなにか気にさわる事をしたならば謝らせて欲しいし、出来たら初対面の方に殺されるのはちょっと………」
「はぁぁん?」
「ちょちょちょ、待って待って待って!苦しい苦しい!絞まってる!絞まってるから!」
「しょぁーてょ、ろぃぃくぉーわんやぉ」
「だからそれもう良いって!わっかんねーんだよ!痛ッッッいたぁーいたぁいたぁい痛い痛いッッッ……つって、そぉぉぉぉい!!!」
首を締め上げられてもみあった一瞬の隙をついて、リクは上着のポケットからスマホを取り出した。
“スマホ!スマホのライトとかで目眩ましになんないか?!”
しかしスマホを取り出した瞬間、リクのみぞおちに男の膝蹴りが打ち込まれた。
「ぐぽぉおぉぇぇーッッッ……!」
ドンッと鈍い音がして、リクが叫び声をあげた。
男はうずくまろうとするリクの顔面を迷わず蹴り飛ばすと相変わらず聞き取れない内容の怒声をあげて短剣を突き立てようとした。
“終わった…………”
リクがそう思った瞬間、2人から少し離れた場所からこの緊迫した状況に割り込むにはとても呑気な、間の抜けたような声が聞こえた。
「おーーーーーーい」
男の動きが停まった。声の主の方を男が見ているのがわかった。
リクは痛さの余り顔をあげる事が出来なかったが、声がした方向に立っていたのはスラリとした真っ白な細い女の足だった。
「────────?」
「───?─────ッ!!──!!」
「────」
もうまるで聞き取ることが出来なかったが、男と声の女がなにか言い合っているのはわかった。
“逃げ、逃げなきゃ……逃げなきゃ…”
男の腕はもうリクを捕らえていなった。
勢いをつけて立ち上がると声のする反対方向へと目一杯駆け出した。
男が後方でそれに気づいた感じがして、すぐに追いつかれてしまう事を想像しながら、本当に全力を出して走った。
「ーーーーーーーッッッ!」
「誰が待つか!!!バァァァーーーーーカッッッ!!!」
恐ろしすぎて後ろは振り返れなかった。もう髪を掴まれてしまうような距離まで迫って来ているかもしれない。男の足音が今どのあたりなのかもさっぱり見当がつかない。蹴り飛ばされた場所がとにかく痛かった。蛇口をひねったように鼻血が吹き出て止まらず口に回ったそれを何度も飲み込んだ。
“もう走れない……どこか、どこかに隠れるところ……”
男がどこまで追ってきているかわからないし、ほとんど直線の道を走ってきたような気がするので、隠れるところを見られたら意味がないかもしれないが、もう体力も限界だった。
足がもつれて転びそうになったタイミングでもう考えることの出来なかったリクは傍らにあった草薮に這うようにして飛び込んだ。
ゼェゼェとした呼吸を止めようと手で口に蓋をして、必死に気配を殺した。男がまだ近くを通り過ぎるような様子は無く、いつのまにか見下ろされるようにすぐ隣で立っているかもしれないと思うと気が気ではなかったが、それでももう動けそうにないリクはこうしているしかないと思った。
“頼む頼む頼む………こっちくんなこっちくんな…………クソッ……マジでめちゃくちゃ怖い……しかも痛い………異世界の洗礼が過ぎるんだが?!!なんなんだよこの冒頭の死亡イベント?!!うちの玄関は俺を殺す為の装置かなんかだったのかよ?!!”
リクは自分を落ち着かせる為に状況を整理したかったが、整理するほどの情報が特には無かった。
“けど、さっきの声、女だったんだよな…?しかもめっちゃ足綺麗だった………異世界……異世界の女子……マジで今めっちゃ痛いし怖いけど、正直もう帰りたいけど、女子……それも異世界の………ぁああぁぁぁぁぁあ期待したいッッッ!なにかまだそういうのに期待したいッッッ!ていうかさっきの明らかになんかのフラグだよな?!完全に終了のお知らせ来たかと思ったけど絶対俺宛の救済だったよな?!!しかも異世界の女子による!!
か……顔見てみたいッッッッッッッッッ!!!ていうかアイツもう追っかけてきて無くない?あの女子が追っ払ってくれたんじゃない?ど、どうしよ……ちょっとだけ様子うかがってみるか…??”
リクはゆっくりと首を伸ばし草薮から慎重に自分が来た方向を覗き見た。心臓が緊張で脈打つのを物凄く感じ、ひいてきた気がする汗がまた吹き出ててきた。
しかしリクが走ってきた方からなんの音もせず、あの男が追って来ている様子もなく、ただただ森の中は静かだった。
「あれ……マジでどっか行ってくれた……?のか?」
それともさっきの声の主が本当に男を追い払ってくれたのかもしれないと思ったが、逆にあの男に襲われているのかもとも思った。
「出来たら……襲われてませんように……何事もなく追っ払えてますように……」
逃げきれた安堵と安心感とともに、リクは顔を地面に擦り付け土や草の匂いを感じた瞬間俯せに倒れ込んだ。そしてさきほどまで直面していた恐怖の場面の記憶を少しだけ思い返していた。
「………あれ?」
確信は得られないが、リクはあることに気がついていた。
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