『厄介事を禁ずる。』
◆
(コイツが森の底に住む魔族。
本当に交渉なんて出来る相手なのか?)
突如として姿を現した魔族に、
身体の内側から凍りついてゆく様な寒気を覚え、
生きて帰ろうなどと云う考えが、
既に一刀両断にされて、
絶ち切られてしまっているのでは無いかと感じていた。
彼が産まれて初めて対面した魔族は、
それまでに見た事の有る魔物や獣などとは異なり、
殆ど人間の様な姿だったが、
一介の武人であるソンウの目から見て、
魔族の身のこなしに隙などは欠片も見当たらず、
魔力の感知の出来ないソンウにさえ、
言い様の無い威圧感を与える程の魔力を、
その身に猛々しく纏っていた。
それは、
その存在が人間離れした何かである事の証明だった。
(バケモノだ)
ソンウは今すぐにでも駆け出し、
全てを置き去りにして逃げてしまいたかった。
しかし、ソンウの身体は、
その場に縫い付けられてしまったようにして、
まるで言うことを聞かず、
動く事などは未来永劫叶う事のない希望に思えた。
「聞こえていないのか。
それともオレの声が聞き取りづらいか?」
ディーヴィエイテッドの言葉に、
誰一人として返答する者は居なかった。
「……まあ良い。
どういう用件が在って、
この森に入ってきたのか知らんが、
その様子ではオレを殺しに来た訳では無さそうだな」
(……当たり前だ。敵う筈が無い)
「森を荒らさずに出ていって、
金輪際この場所に立ち入らないのならば、
見逃してやる。
動ける様になった者からとっとと失せろ」
(出来るなら今すぐにそうしてる)
ディーヴィエイテッドは、
吐き捨てる様な発音になってしまった事を、
心の中で少しだけ後悔していた。
無駄に怖がらせるつもりは無いのだ。
ソンウはディーヴィエイテッドの挙動の全てに、
恐れ嘶いてはいたが、
それと同時に、
襲いかかって来る様子の無さと、
妙に小綺麗な身なりしている彼の姿に、
少しだけ好意的な違和感を抱いていた。
尤も、恐怖や逃げ出したい気持ちが、
それ遥かに上回っていたが。
ディーヴィエイテッドは、
ソンウのそんな心情になどはまるで気づかず、
また関心も無かった。
この人間達が自分と戦う気が無い事が判ると、
面倒事を避けられる可能性に安堵し、
そして、
侮られている訳では無かった事で、
自尊心を満たす事が出来たとも思っていた。
そして、
その途端に、この場に居る事を面倒に感じ始め、
すぐに根城に戻って作業の続きをしたいと考えていた。
人間達は未だ動ける様な気配は微塵も無いが、
回復を待つのも手間に感じてしまう。
それに自分が目の前に居ては、
それも余計に遅れてしまうかもしれない。
「おい。オレはもう行くからな。
返事は無かったが、
話を理解したものと認識するからな?
約束を違えて、後を追って来たりするなよ?」
ディーヴィエイテッドは、
そう言って、そそくさと立ち去ろうとした。
(わざわざ着替えて来る必要も無かったな。
何せ会話と云う会話を一切してない)
そんな事を思いながらも、
何事も起きなかった事を彼は素直に喜んでいた。
◆◆
「ま……、待ってくれ!」
ソンウが、
比喩では無く全身全霊の力を振り絞って、
ようやく声を上げた瞬間、
ディーヴィエイテッドは、
振り返るか否やを相当に躊躇し、
彼の癖でもある、
大きな溜め息を吐かずにはいられなかった。
「……何だ?」
ディーヴィエイテッドは短く、
ソンウにそれだけを訊ねた。
「じ……、自分達はイファル王の勅命を受けて、
貴方に会いに来た……。
貴方はディーヴィエイテッドと名乗った。
この東の森の底に、
古くから暮らす高名な魔族の名だ」
「高名かは知らんが、確かに古くから住んでる。
まさか、この森から出て行けとでも言いに来たのか?」
「ち……、違う!」
「ならば何だ?勅命と言ったな?
お前達の王と面識が無い事は無い、
何か用件が有るなら遠慮無く言え。
聞いてやれる事なら聞いてやる」
「ご厚意痛み入る……、感謝する……」
そして、
ソンウは勅命の内容を包み隠さずに、
ディーヴィエイテッドに伝えた。
相槌を打つわけでは無かったが、
彼は話の間には黙ってソンウの言葉に耳を傾けていた。
「以上がイファル王からの勅命の内容だ」
「ふうん。聖域教会と戦か。
魔族の手も借りたい程の、
人手不足と云うのが傑作だな。
帰って王に伝えろ。
手は貸さんとな」
「……それには何か理由があるのか?
ただの手ぶらで帰る訳にもいかない」
「何か利益がある話か?
オレは世界と関わらず、
世界もオレに関わらないで済む事だけを願ってる。
わざわざ自分から、
そんな面倒な事に首を突っ込みたくない」
「一つ言わせてもらえば、
この森はイファルの領地だ。
此処に暮らす以上、
貴方が勅命を無視してしまうのは、
如何なものかと思うんだが」
「随分と乱暴な意見だな。
怯えて口も聞けないかと思っていたんだが。
ならばオレも言わせてもらう。
オレが暮らし始めた頃には、
この森はイファルの領地では無かったぞ?
オレはその時に此処を治めていた王に、
此処で暮らす了承を得ている。
契約などと云う程に大袈裟なものではないが、
家に帰ればその時に交わした書状もある」
交渉は見るからに難航し、
今にも決裂しそうだった。
しかし、
魔族と会話をした事など産まれて初めてだったが、
ソンウには段々と、
目の前の魔族の事が、
比較的まともで良識のある人物の様に思えてきた。
「しかし、今はイファルの土地なんだ」
「それはそうだろうが、
オレにしてみれば、だから何だと云う話だ。
文句があるなら、
直接会いに来いとラオに伝えておけ」
「国から相当な報酬もあると思うが?」
「……あのな。
お前にはオレが物要りに見えているのか?
人を追い払う様な、
こんな深い森の底で暮らす魔族が、
金を必要とすると思うか?」
「それなら、
正式に此処に住まう許可が出るかも知れない」
「おい。オレは不法に居住しているのか?
もういいから帰れ。
とにかく面倒だ」
相変わらず、
ディーヴィエイテッドに敵意は見えなかったが、
話を聞き入れてくれる様子は無い。
これ以上、対話を続けても、
結果が変わる事は決して無さそうに思えたし、
使者の役目を仰せ司った男は、
未だ恐怖で震え続けたままだ。
所詮、
剣を振るくらいしか能の無い自分には、
交渉を続ける事は無理だと、
ソンウは既に諦めかけていた。
(どのみち、端から無理があったんだ。
このまま帰ったとしても、
クアイ様に責められる事も無いだろう。
優しい御方だ。
この命令を俺に出す時にも、
無理強いはされなかったんだ)
ソンウは自分に言い聞かせる様にして、
心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
(それに、剰りしつこくすれば、
この魔族も流石に機嫌を損なうかも知れない)
撤退だ。ソンウがその指示を出そうとした時だった。
上着のポケットの中に入れていた物が、
音を立てずに振動を始めて、
ソンウの皮膚を擽る様に揺らした。
ソンウは突然の事に驚いたが、
その物が一体何だったかをすぐに思い出していた。
◆◆◆
「コレを持って行くと良いよ。
もしも、窮地に陥ってしまったら、
きっと君の助けになるから」
それは、命令を受ける時にクアイの部屋に居た、
精霊術師の少女がソンウに手渡したものだった。
呪文が刻まれた八角形のデザインで、
ガラスの様な素材はとても軽く、
宝石では無いのだが、
アメジストの様な綺麗な色している。
魔法に関して明るくないが、
魔力の込められた道具である事はソンウにも理解出来た。
(シャオ様の幼馴染みで、スイとか云ったか。
まだ幼そうだったが、人形みたいに綺麗な顔だったな)
しかし、全てを見透かすように、
堂々とした物言いをする為に迫力があったし、
形の良い大きな瞳は鋭い目付きをしていて、
ソンウは何となくスイに対して、
畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
(国王陛下やクアイ将軍とも旧知の仲らしいし、
噂では中央の魔女の娘らしい。
きっと、見た目よりも、
ずっと恐ろしい魔法使いなんだろうな)
震え続ける魔法具は、
ソンウの上着から弾け飛びそうな程に振動を繰り返し、
擽られる様な感触に耐え切れなくなったソンウは、
ポケットからそれを慌てて取り出そうとして踠いた。
ソンウの挙動になど興味は無かったが、
魔法具の放つ魔力を、
ディーヴィエイテッドは見過ごす事は出来なかった。
「おい。お前何をしてる?
魔力を込めた物を隠し持っていたのか?」
ディーヴィエイテッドは僅かにだが、
そう言いながら身体を強張らせた。
魔法具から漏れ出しているのは、
ソンウの操る魔力では無い。
それは、
魔法に精通した魔族のディーヴィエイテッドですら、
明らかに異質だと感じ取ってしまう代物だった。
「動くな。
簡易発動魔法の類いでは無いな?
妙な真似をすれば殺してやる。
お前達全員をだ」
元々、威圧的だったディーヴィエイテッドの魔力が、
その場に居た全員の、
全身の皮膚に突き刺さってしまいそうな程に、
猛々しくその形を変えていった。
「ま……、待ってくれ!
コレは俺のモノじゃない!!
持たされたんだ!!」
「ならソレを持って、さっさと失せろ。
この森に居てもらっては剰りに迷惑なモノだ」
ディーヴィエイテッドはそう言って忠告した。
脅しでは無く、
ソンウが攻撃をしてこようものなら、
直ぐにでも殺してしまうつもりだった。
ソンウが必死に頷いて、
彼の命令を待たずに、
誰しもが逃げ出そうとしたその最中。
「『迷惑。と表現されるとは失礼な話なのだ。
大変に遺憾に思うのだ』」
何処からともなく、
不思議な響きを伴った声が聞こえた。
身体の内側から聴こえる反響の様に、
その声は言葉を続けた。
「『しかし、気が遠くなる程に生きた長い年月を、
こんなに深い森で大半も過ごしてしまえば、
発言に配慮を欠いてしまうのかも知れないと、
善意で気持ちを汲み取ってやる事も、
僕にとっては吝かでは無いのだ。
これは我ながら寛大な措置だと自負しているのだ。
ディーヴィエイテッド。
君はどう思う?』」
声は流暢に喋り続けた。
声を発して言葉を形にする事を、
心の底から楽しんでいる様にしながら。
「言葉の精霊。
まさか生きてる内にお前の声を、
また聞く時が来るとは、
オレはちっとも思っていなかった。
……やはり、
森に人が入る事をオレは好ましく思えない。
……面倒だ」
マオライの様子とは対照的に、
ディーヴィエイテッドは浮かない面持ちで、
彼の癖でもある、
とても大きな溜め息を、
これ見よがしに、精一杯吐き出していた。
◆◆◆◆




