第一話『気づけば転移先の世界だった。』
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(もう帰りたいかもしれないッッッ…!!!)
夏目陸は汗と涙と鼻血でぐちゃぐちゃになった顔をひきつらせながら、
咄嗟に飛び込んだ草薮の中でそう思っていた。
寝間着のグレーのスウェットにスニーカー、
背が高くもなく低くもなく、
髪が長いわけでも短いわけでもない、
彼は本当に地味で特徴の無い少年だった。
彼が異世界に転移してきた人間だということは除いて。
“え?ちょっと待ってココ異世界ですよね?
いきなり血の気の多いヤバい異世界人に殺されかけて、
追いかけまわされてって、
なんか違うんですけど、
なんか思ってたのと違うんですけどーーーッッッ!!!?
ゲームみたいなチュートリアル的なやつ無し??
この世界ナビゲーションしてくれるポジションの、
愛くるしい生き物は??一緒に冒険してくれる旅の仲間は?
ねぇ異世界で出会う美少女は?
楽しい時も辛い時もいつでも優しく寄り添ってくれて、
時には子供に諭すように叱咤激励してくれるヒロインは?
その子と一緒に旅してムフフな展開は?!
まだ期待していいよね?まだ期待してて良いんだよね?!!
そんでとりあえず誰でも良いから助けてぇぇぇーーッ!!!!”
◆◆
いきなりだった。
リクが異世界に入り込んだ時のことを巧く表現するには、
説明できる事柄があまりにも少なかった為、ひどく単純であるのと同じくらいに難解だった。
文字通り音もなく、眩い光に包まれることもなく、天からの啓示もなく、そうなることが当たり前だったように彼は世界と世界を隔てる境界をあっさりと越えていた。
それはひどく唐突で、日常を一変させる出来事にはとても感じられなかった。
語る程の何かも起きておらず、性急な展開で完結する短い曲の様に感じられる程に、始まった途端に終わりを告げていたのだ。
時刻は夜の十二時を過ぎた頃だった。
リクは家族が寝静まったあと、いつも通り家から少し離れたコンビニへ行くつもりだった。家族に何処へ行くのか尋ねられるのも億劫だったし知り合いに会うのも嫌だったのでいつも夜遅い時間に家を出て行くことにしていたのだ。
リクが学校に行かなくなってからの一年間、それが彼の数少ない日課のひとつだった。
スニーカーをゆっくりと履き、音を立てないように慎重にドアノブを回し玄関を出た次の瞬間に、とても深い森の中にいた。
見たこともないくらい大きな樹が目の前にあった。
一体どれほどの年月が経てばここまで大きくなるのか信じられないほどに成長した大木だった。高層ビルと同じくらいの様に思える大木のちょうど真上にある太陽が神秘的だと感じるほどに柔らかくリクを射していた。
少し離れた場所に足のたくさん生えた狸のような生き物が集まって大木の根元でもそもそとなにかを食べていた。その近くには背中に虫の羽のようなものが生えた小さな鹿に似たものもいた。
少し大きさが違って見えるので親子なのかもしれない。
他にも植物や果実や昆虫など目についたものの全てにまったく見覚えが無いように思えた。
尤も、彼が見分けがつくほどに動植物に詳しいのかは甚だ疑わしかったが。
玄関のドアノブを握っていた右手は不恰好な形で前方に突き出されたまま固まり、消失したドアノブの感触を手のひらが覚えているのを感じた瞬間に頭の先から吹き出していくような汗があっという間に全身に回って行くのを感じた。
空いた口はパクパクと軽く動くだけで塞がらずに、ようやく後ろを振り返ってそこに広がる光景が自分の家の玄関でないことを確認すると、リクの頭上の遥か上空、花火のように見えた色とりどりで大きな鳥の群れが翼をはためかせながら飛んで行った。それを見てリクは本当に小さな声で歓喜の悲鳴をあげた。
そして噛みしめるように呟いた。
「まさか……異世界………。ってやつなのか……?」
“ついに来てしまったかもしれないッッッ……!
冒険者になる日が来てしまったかもしれないッッッ……!
神さまからのご褒美なのか?
なんだか随分スルッと異世界転移した気しかしないけど、
煩わしさしか無い現実からドロップアウトしたってことで、
間違いないのか?良いんだろうか?
俺で良いんだろうか?
世界を救うのが俺で本当にッッッ?!
なにか適正があったのかもしれない、
いや、あったんだきっとッッッ!
生まれてこの方、
なにひとつ良いことも悪いことも無かった気しかしないけど、
今日の為に俺はきっと生まれてきたんだって気しかしないッッ
ッ!!
この世界が俺の生きて行くべき世界なんだ、
きっとこの世界なら俺を受け入れてくれて、
素敵な出会いがあって、
俺を全肯定してくれる美少女との、
甘酸っぱい恋物語とか、
仲間と共に挑む難関のクエストに剣と魔法で立ち向かう、
心躍る冒険とかが俺を待ってるんだッッッ!
ハロー異世界!
今後とも何卒よろしく!!”
リクが感極まって涙ぐんでしまい、それを拭こうとした瞬間のことだった。
──ガサガサガサッッッ!!
獲物に狙いを定めた獣が飛び出してくるような大きな音が聞こえて、リクは反射的に身構えた。
「ぅおいッッッ!?ま、魔物的なやつかッッッ?!!」
しかしそれは人間だった。
短い黒髪の不機嫌そうな顔をした若い男で、様々な紋様の刺繍がされた民族衣裳の様な服に薄汚れたマントの様なものを羽織っていた。
そして着ている衣類と相反するように男の瞳が鮮やかな赤色をしているのが少し離れているのにも関わらずよく分かった。
“異世界の人キターーーッッッ!!”
リクは初めて遭遇した違う世界の住民を上から下までジロジロと眺めて、興奮する自分を抑えきれていなかった。
“もう二次元のキャラじゃん!マジコレ異世界じゃん!!異世界感半端ない!!”
ソワソワとするリクをよそに、男は警戒をしているようにリクのことを睨みつけると嫌味ぽく舌打ちをした。
“ん?今舌打ちされた??”
男は懐にゆっくりと手を突っ込みながら、思いのほか高い声でリクに言った。
「らぉーいぇーんかってぇどろぬか?すん、うぉぇぇかいそちょいじぇえ」
男が口を開いて言った言葉がリクにはそう聞こえた。
「は……はい??な、なんて??まいったな、言葉が違うんだ……。翻訳機能とかないのかな、ていうかコレこの先どうすんの?」
「ほんやく?」
男がそう聞き返してくると、リクは言葉がわからない、という趣旨のジェスチャーを男に向けた。
「あの!日本語わかりませんか?ここに着いたばかりで言葉がわからないんです、すみません、あなたは俺を案内してくれる人ですか?旅の行き先を祝福してくれる女神さまのところへ案内してくれる人ですか?」
「めがみ?」
男はそう言うと明らかに顔をしかめた。
なにかまずい事を言ってしまったかもしれない。
そうやって慌て、リクは両手をブンブンと振ると頭上に掲げた。
敵意は無いと伝えたつもりだった。
男はリクを睨みつけたまま、「ハッ!」と吐き捨てるように笑うと服のなかに隠してあったのだろう短剣のようなものを素早く取り出すとリクに向けて突きつけた。
よく研がれているのだろうか、銀色をした刃が鏡のように薄暗い森の中で光を反射しているように見えた。
「らぇぇいぇらぇぇいぇ、うぉぇぇかいそちょいじぇぇ!」
とても器用に短剣を片手でくるくると回しながら、口許が笑ったままの表情で留めた男がリクに切りかかってくるのに一秒もかからなかった。
「ぅぅおおおおおおおおぃぃぃぃッッッ!!!?」
驚いたリクが奇声をあげて後ろにのけぞると男はあっという間にリクの胸ぐらを素早く掴んで自分の方に無理矢理引き寄せた。
リクの喉元から短剣は一センチも無いような距離にあった。
男の赤色の瞳が明らかに怒りと殺意を孕んでいることをリクはすぐに察知した。
“ヤバいヤバいヤバいッッッ………!この人本当に怒ってる!!!けど何に?!俺なにもしてないぞ?!!言葉も全然わかんないし……にしてもいきなりすぎるだろ!!?頭おかしいんじゃないのか!!?どんな育ち方したらこうなるんだよ?!!今俺のなかで意思の疎通したい人ナンバーワンだよこの人ッッッ!!”
男は慌てふためくリクを逃がさないようにしっかりと胸ぐらを掴んだまま、スゥーッと音を立てて息を吸うと、ゆっくりと、リクに伝わるようにと思っているか、とても静かな声で言った。
「らかゎい、うぇちょいそ、あーらーけんほぉ。やぃうぇ」
“ごめんなさい……………!!!たとえゆっくり言ってもらったとしても……………なに言ってるかわかんないですッッッ…………!!”
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