小さな蝶の羽ばたき 1-1
※筆者はロリコンではありません
物事には余波がある。
発端となった物事が世界全体にとって大きな物事である程
大きな余波が後からやってくる。
そう……最初は誰も気付かないんだ。
俺たちは余波を観測して事の重大性を知るからだ。
発端は大抵小さなものだ。
瓶を割ってしまっただとか……トイレに行こうにも我慢できずに
その辺で済ませてしまっただとか……
そう言ったイベントをきっかけにして、
間違いの連鎖が広がっていく。
そうして……取り返しがつかなくなる。
これは、ただそうやって色んなことに取り返しがつかなくなって
ありふれた日常が二度と戻って来ないまま
どうでも良いような事で人間が滅びかけるだけの物語。
「太刀花、資料にはちゃんと目を通したんだよな?」
「…………」
「おい、何とか言えよ……」
「……うぇへ……うぇへへっあ痛ァ!!
な、なな何するのです?!!」
「読んどけって言っただろ……まぁ良いや。
あんまり意味ないと思うが、一度流して説明するぞ」
寂れた街の裏側にコツンと響く音があった。
俺がこのガキに振り下ろしたゲンコツの音だ。
高校生が小さな女の子に手を挙げたらマズイだろって?
……あぁそうだな。 前まではこの世界もそうだったよ。
だが、もう前までの世界とは大きくかけ離れちまってる。
俺たちが生きる世界は……そうだな。
危険だーって言って、大人どもが情けなく
幼女追っかけ回して……武力で捕まえていくような
酷い世界だよ。
でも……こうしないといけないのにも理由がある。
俺だって好きでやってる訳じゃない。
「対象の名前は コガ アヤカ 10歳。
人見知りで友達はいない。
4日前に髪と目の変色、及び右肩に “メビウスの痣” が確認されたが
確認者である母はこの事実を隠して娘である対象を捨てた。
髪は緑色でボブカット……眼はレモン色。
身体能力などのデータは不明。
“異能” や “魔具” についても情報無し。
右目の下に泣きぼくろがあって
頭頂部には少しくすんだ色をした大きなアホ毛がある」
「……あまり聞いていて良い気分はしないのです」
「……そうだな。
特にここ数ヶ月は酷いもんだ。
国からの勧告も無視して “サキュバス化” した娘を
すぐ捨てるバカ親が増えてる」
この世界では、6〜12歳の女の子にのみ
異質な現象が起こる事がある。
髪と眼の色が変わり、身体のどこかに
メビウスの輪を矢印で模ったような痣がくっきりと現れる。
“サキュバス化” などと呼ばれているこの現象は
ただの少女を非常に危険な存在へと変えてしまう。
性格が変わる訳ではない。
ただ、身体の変化と周りからの視線や扱いの差で
性格が後から捻れてしまうことはある。
ただ、それすら知らん奴が多いと言うのもまた現実で
国が呼びかけているのに日々彼女たちに対する考え方は
どんどん悪化する一方だ。
銃弾を受けても無事な身体、腕が折れても数分で復活する回復力。
異常な身体能力に、科学では解明できない
超能力にも似た異能の力……そして、
彼女たちのみが無から生み出して扱いこなす
まるで魔法のような力を持つ道具の存在。
それらの性質と共に、人を襲う気性を持ち合わせてしまう事から
サキュバスになってしまった少女は速やかに
俺たちみたいなのが保護しに行く。
ただし、サキュバスに対して普通の人間が
単独で挑むのはあまりにも無茶である為
様々な精査をクリアして身の安全が保証されている
サキュバス “グローブ” が派遣されている。
太刀花が俺のグローブだ。
サキュバスを追う特殊公務員 魔察官 になりたての
俺みたいなのが組まされてて良いのかと言うくらい
強いサキュバスなんだが……それと同時にコイツはバカだ。
無理はない……何せ元はただの小学生だ。
だからこそ、彼女たちとは違う視点から指示を出せる俺たちが
彼女たちにとって必要なものなんだが……
それにしてもコイツのバカさ加減は少し度を超えている。
純粋な強さだけでグローブになったような子だ。
「とにかく! タチバナが捕まえる係さんで
かいぬしさまがあたまを貸してくれるって事だから
いつも通りって事なのです!!」
「……その “かいぬしさま” って呼び方、
そろそろやめる気にならないか?」
「ならないのです!
かいぬしさまはタチバナのかいぬしさまなのです!
一生変わることはないのです!」
「そうかぁ……はぁ」
俺は何故かコイツに懐かれている。
この “かいぬしさま” とか言う最悪すぎる呼び方は、
どうやらオツムの弱い太刀花にとって
最大級の尊敬を表しているらしく、やめてくれる気配は無い。
……まぁ良好な関係が築けているのは良い事なんだが
初対面からずっとこれと言うのは少し疑問が残る。
俺はため息半分にしつつ、自分の左腕を右手で指し示して
太刀花へ見せる。
「同調装置を起動しろ……作戦開始だ」
「了解なのです!」
「分かってると思うが、
気持ち悪くなったりした時はすぐに装置を切れ。
無理はするな」
太刀花はこくりと頷くと
羽織の袖を左腕側だけ捲り上げた。
捲りあげられた細い腕には白いドーナツ型の腕輪が装備されていて
太刀花はその腕輪から横に生えているレバーを回した。
カチュン! と音を立ててレバーが停止するのを見送った俺は
アクセサリーくらいにしか見えない
黒い角状をしたヘッドギアのスイッチを入れた。
起動したヘッドギアから仮想粒子で編まれた精密装置が展開され、
右側の耳を覆った。
そのまま右目の目前にモニターが出現する。
『同調開始』
同調装置と呼ばれる腕輪とヘッドギアはセットで開発されたものだ。
元々はもっと別の技術で使われていたものらしいのだが
サキュバスに対して正確な指示の伝達手段が欲しいと言う要望から
これらが開発された。
簡単に言えば、意思伝達装置 テレパシーを可能にするものだ。
しかし、当然代償はある……普通は長時間付けていられないんだ。
無理矢理脳と脳を繋げるようなものであり、
互いの精神に無理な負荷がかかる。
登録した肉声で “同調開始” と
ヘッドギアに音声認識させることで、
ヘッドギアに接続登録された腕輪にも信号が送られる。
少しラグはあるけど、音声認識から5秒くらいで
意思や思考の接続・共有が開始される。
見えている景色や聞こえる音、
感じ取る匂いなどが拡張されていく感覚と共に
違う思念同士が混ざるような感覚が襲う。
“特別鈍い” と博士から太鼓判を貰った俺には分からない話だが
この感覚が駄目で吐く奴は少なくないと言う。
……と言うのもこの装置、
同調による負担の9割はグローブでは無く
俺たちに降りかかるようになっている。
戦闘要員に無駄な負荷をかけすぎては本末転倒だからだ。
言ってしまえば……この装置を使っている間
グローブにとって都合の悪い感覚……例えば
この装置による気持ち悪さや、痛みなんかの大半は
俺たちが肩代わりするって事だ。
魔察官になる上で、最大の関門って言われてるのがこれだ。
とんでもなく強い精神力が求められるものだから
大半がこれの実用訓練でリタイアする。
本当に訳が分からん……
これの何処がそんなにキツいんだか。
太刀花の中に膨大な情報が流れていく。
対象の情報、周辺地形、作戦概要、無駄のない戦闘手段……
新人とは言え、彼女の相棒は辛い訓練を乗り越えた魔察官。
流石と言うべきか……天性の才能もあるのか、
彼からの思念に無駄は無い。
太刀花は非常に強いサキュバスだ。
オマケに非常に扱いが難しい。
本来新人に与えられるようなグローブでは無い。
まず、自由奔放で頭があまり良くない。
気に入らない相手の命令はまるで聞こうとしない。
結果的に太刀花を御せるのは、彼女から好感を持たれた者だけだ。
次に、非常に燃費が悪い。
太刀花はグローブとして登録されているサキュバスの中でも
トップクラスの怪力と器用さを併せ持っている。
強い事には強いのだ。
しかし、適切な指示を与え続け
正しく彼女を動かしてあげられなければ
彼女はすぐに疲れ切ってしまうのだ。
オマケに比較的打たれ強い訳でも無く、再生速度もやや遅い。
刀を使って戦うのが太刀花の戦闘スタイルなので
最低限の動作で敵の攻撃を見切りつつ攻撃させるしか無い。
しかし、何の運命なのか……太刀花が気に入ったこの男は
そう言った事を考えて処理するのに長けていた。
疲れにくい動作を常に選ばせながら
最大のスペックを発揮させ続ける。
太刀花にとって彼と言う存在は最早無くてはならないものだった。
対象 コガ アヤカ は現在 旧Yホテル に潜伏。
旧Yホテルは5階建てからなる廃ホテルであり、
どの階に彼女がいるかまでは不明。
挟み撃ちによるローラー作戦が有効と見られる。
屋上から侵入が可能であり、太刀花は周辺の建築物を利用して
最上階から攻めるべし。
太刀花は隣の建物に足をかけた。
隣の建物も5階建てだが、こまめに小さな屋根や
出っ張りがある。
俺は自分の身体を動かすように明確な身体の動かし方を
太刀花へ伝えていく。
華麗な動きで壁登りを成功させた太刀花に疲れは見られない。
そのまま太刀花は5mはあった建物間を飛び越えて
壊れたフェンスの隙間から侵入した。
ここは廃都市。
人は住んでいるが、もうまともな生活ができなくなったような
人たちばかりだ。
それでも、死者だけは出す訳にいかない。
建物の倒壊などにも十分に注意して保護する必要がある。
太刀花はなるべく音を立てず、進捗に屋上から内部へと侵入した。
俺もそろそろ行くか……
捜索開始から20分が経過した。
残りは3階だけ……2人がかりで重点的に捜索を続ける。
(い、いないのです……)
太刀花は痺れを切らしていた。
飽きっぽいあの子にしては頑張った方だ。
しかし、事態はすぐに動く事となった。
次の部屋を調べるために扉を慎重に開けた瞬間だった。
「ふべっ!!」
太刀花は後ろから何者かにどつかれた。
少しよろける程度で怪我はしていないようだが
犯人の姿は目視できなかった。
太刀花は慌てて廊下に出て首を振り回した。
右側の通路に動く人影が見えた。
人影はL字になっている通路へと侵入していった。
「そこなのですぅう!!!」
太刀花は対象を見つけたと言わんばかりに飛んでいく。
だが、その様子を共有して体感した俺には
この状況に違和感があった。
痛みがほとんど無かった。
つまり……これは俺にもダメージが飛ぶことを計算したもの。
その上、アヤカちゃんは人見知りだと聞く。
こんな大胆な事を自発的にやるとは思えなかった。
『待て太刀花! 何かがおかしい』
『おかしいなんて言ってる場合じゃないのです!
この際罠でも飛び込んで行かないと
何だかやばい気がするのです……!』
『……まさか、この4日間対象が一度も
人から生命力を補給していないとでも?』
『……前に、人見知りの知り合いがそうだったのです』
『…………そうか、分かった。
好きにやれ! 責任は俺が持つ!!』
『かいぬしさま……!!
了解なのです!』
『その呼び方やめろ!』
『それはお断りなのです!!』
こんなの9割罠だ……そんな事は百も承知でこの指示を出した。
太刀花の勘は本当によく当たる。
特に、状況が悪い場合は作戦に組み込める程だ。
“最悪” だけは避けなくてはならない。
仮に太刀花の予感が当たっているのだとすれば
タイムリミットはもう1日も無い。
人影は太刀花を誘導するように
ギリギリ気配を残しながら一番奥の部屋へ逃げ込んだ。
太刀花は罠やカウンターを警戒しつつ、
最後の部屋へ突入していく。
俺も現場へと駆けつけなければ……行動しようとした矢先だった。
「ぐあ?!」
何者かに後ろから鞭のようなもので攻撃された。
威力は大した事は無かったが、
何故か意識が一気に遠くなり……そのまま気絶してしまった。
(かいぬしさま?!)
太刀花は俺の異変に気付いていた。
だが、運が悪いと言うべきか
太刀花は相手の罠にかかってしまっていた。
十分警戒はしていた……ただ、相手が一枚上手だった。
(どうなっているのです?!
か、かかか身体がブルブル震えたまま上手く動かせないのです!!)
太刀花は何をされたのかすらわからないまま
その場に倒れていた。
太刀花の目の前には気弱そうな女の子が
ひたすら何度も頭を下げながら
「ご、ごごごごめんなさい……ごめんなさい!」
と、掠れるくらい小さな声で繰り返している。
8回くらい繰り返したあと、アヤカはそのまま
飛ぶように逃げていった。
(あっこら待つのです!!!!
ぐぬぬぅうう!!)
太刀花は身体をブルブルと震わせながら取り残されてしまった。
目を覚ますと、俺は頑丈なワイヤーで椅子に縛り付けられていた。
内装を見る限りでは、ホテル内の一室である事は間違いない。
ただし、他の部屋が瓦礫やら破片だらけだったのに対して
この部屋は少し綺麗過ぎる。
照明がピンク色なのは仕方ないとしても、簡易的な蓄電装置を
無理矢理配線に繋いで灯りを付けているところを見ると
あまり素人の仕業でも無さそうだ。
(太刀花は……何やってんだ?)
太刀花の状況を把握する。
同調装置は起動したままだった。
どうやら “魔具” を使われたらしい……これでは
太刀花の異能を使っても現状の解決は不可能だ。
それにしても、的確に無力化されたものだ……
特に太刀花の無力化については
事前に情報を知っていたとしか思えない立ち回りで
やられている。
「あらあらあら、お目覚めですの?」
俺が目覚めた事を素早く察知してか
クスクスと鼻につく笑い方をしながら
奥の部屋から女の子が出てきた。
薄紅色をした肩にかかるくらいのクセがあるボブカットに
青紫色のジト目。
丈の短い黒いドレス。
記憶にある限りの特別手配されたサキュバスに
彼女と一致するものはない。
「……まさか未登録のサキュバスが出てくるとは
流石に想定外だ」
「あらあら、まさか登録されているサキュバスは
全て記憶しているんですの?」
「いや、流石に全てじゃないけど
見た目くらいは頭に入れてあるよ」
「素晴らしいですわ!
まだ1ヶ月と経っていない新人魔察官とは思えませんわね。
ワタシ、益々貴方様の事が気になって参りましたわ」
「そうかい……んで、誰なんだお前?」
「……んもう、せっかちですのね?
良いじゃありませんの?
もう少しワタシとお話しした方がお互いの為だと思いますわよ?」
余裕のある態度を一切崩さない……まずいな。
コイツ場慣れしてる……素人目にも分かるくらいに。
「あぁでも、自己紹介くらいは必要ですわね?
申し遅れましたわ。
ワタシ、ジャスミンと申しますわ。
貴方様の自己紹介は必要ありませんわ?
九 新多 さん」
「……よく俺の名前なんか知ってるな?」
「それはもう全力で調べ上げましたもの。
九 新多 16歳。
県内N区にて妹とグローブである太刀花
そして両親での5人暮らし。
現在は県内同区にある県立N坂高校に通学しつつ
特殊公務員 魔察官として
同区にある 魔察署37支部の末席に名を連ねていますわ。
髪型は清涼感のあるツーブロックソフトモヒカンを好み
眼、髪共に黒髪黒めと一般的な色合いをしていますが
幼少期に巻き込まれたある事件を皮切りに
髪と眼が変色してしまい
現在は髪を染め、カラーコンタクトをしていますの。
“特殊体質” についても存じておりますのよ」
「へぇ……? 大したもんだ」
俺はひとつだけ活路を見つけた。
だが、これを悟られる訳にもいかない。
俺は太刀花とやりとりしながら
このジャスミンとか言うサキュバスから
なるべく情報を引き出してみることにした。
幸いと言うべきか、意図が読めないと言うべきか……
向こうは色々と話してくれそうだ。
「俺の事はもう良い……それより、その調子なら
太刀花の事も調べてあるんだろ?
話してみろ」
「あら、もしかしてご自身の状況を
理解されていらっしゃらないんですの?
貴方様は一応、囚われの身ですのよ?」
「俺とおしゃべりしたいんじゃ無かったか?
どうせこんなんじゃ、太刀花が助けに来るまでは暇だしよ
付き合うって言ってるんだ」
ジャスミンからは敵意を感じられない。
彼女の目的を明確に理解した訳では無いが
最も考えられる可能性として
彼女は恐らく……俺と何らかの取引がしたいんじゃ無いだろうか?
単純な話だ。
俺は捕まってしまっている。
その上で相手の手札には
太刀花を無力化する方法を持ったサキュバスがいる。
一見すると、人質に取られているのは俺自身に思える状況だが
本質は全く逆……太刀花の方が危ない状況に置かれている。
つまり、このジャスミンと言うサキュバスにとって
太刀花は交渉材料に過ぎず、本命は最初から俺だったのだ。
しかし目的が読めない。
政府の庇護下にいないサキュバスが一体俺に何の用があるってんだ?
「……まぁ良いですわ。
ワタシの情報収集力を見てもらうのも、
今回の一件ではプラスにはたらく可能性もありますもの」
ジャスミンは少し考えた後、太刀花について得た情報を話し始めた。
「太刀花 年齢10歳。
住所、職業については言う必要はございませんね。
髪は黒く、腰まで伸びていますわ。
前髪で顔が隠れそうになっていますが
ヘアピンで左右に髪を持ち上げ視界を確保していますの。
少し大きめの髪束が1つ鼻先まで達していますが
当人は気にしている様子がありませんですの。
髪の末端は毛先へ行くにつれて青くグラデーションがかかり、
その髪質は非常にサラサラとしていますの。
眼は灰色でぱっちりとしていて
“メビウスの痣” は黒く、
左胸の心臓より少し高いところにありますわ。
服装については和装で
下に行くにつれて桃色のグラデーションがかかっていて
満開の桜の木が描かれた白い羽織に
白い小袖、紺色の袴を好んで着るとありますの。
“魔具” は刀。
名前は覇刀“蒼紫” すさまじい火力を秘めた魔具であり
業界でも一目置かれていますわ。
異能は “アンチアビリティ” 。
世界で唯一、異能が効かない異能ですの。
他のデータについてもお話しした方が良いですの?」
「……そうだな。
太刀花の身体能力テストの記録は分かるか?」
ジャスミンは少し眉を動かした。
「そんな事でよろしいんですの?
……まぁ良いですわ。
筋力:95 体力:10 頑丈性:45 柔軟性:82
敏捷性:64 再生速度:25 器用値:99
全てスコア100を最大とした時の最新の成績ですの」
「なるほどね……」
今ので少しだけ分かった事がある。
さては魔察官の中にコイツと組んでる奴がいるな?
当然だけど、俺の情報はとにかく
太刀花の情報は魔察署が責任を持って管理しており
当然署外秘だ。
太刀花のことを警戒していたのはよく分かる……
何しろこの把握度だ。
ほとんど外見の情報というのが少し疑問点だが
太刀花のスペックについてはほとんど把握されているものと考えて良い。
しかし、分からない事があまりにも多い。
「よく調べてあるな……どうやってこれだけの情報を揃えたんだ?」
「それはまだお話できませんわ。
後でお話しする機会もあるかも知れませんわね」
「……何か、駆け引きもへったくれも無いな」
「こんな状況で駆け引きも何もないですわよ」
「それもそっか……俺、捕まってるしな
ははっ……なら、もう単刀直入で行くぞ。
何が目的だ?」
ジャスミンはカツカツとヒールの音を立てながら
俺の前でくるりと回ると
俺の方へ顔を近づけて、右手で俺の頬をなぞった。
「おい……何やってんだ」
「いえ、これが噂に名高い “サキュバスたらし” 様かと思うと、
少し感慨深いものがあったんですの。
深い意味はありませんわ?」
噂? サキュバスたらし?? 何の話だ???
聞いた事もない情報を聞き、混乱する俺へ更に畳み掛けるかのように
ジャスミンは交渉の話を始める。
「ワタシからの要求は1つだけですの。
貴方様には、ワタシ達と手を組んで欲しいんですわ」
「ワタシ “達” ?」
「えぇ、ワタシを中心として
政府の庇護下にいないサキュバスのみで構成された
小規模傭兵団……名前はまだございませんが、
貴方様にはその専属契約相手になって欲しいんですの」
「……はっ馬鹿馬鹿しい。
それを魔察官である俺に言うのかよ?
国に実態を報告されるリスクは考えてないのか?」
俺は小馬鹿にしつつも質問を続ける。
時間稼ぎと言うのもあった。
今、太刀花が動いている。
ただし、俺の事は放っておくように命令した。
それよりも太刀花にはアヤカちゃんを追わせる。
俺たちの目的はあの子の保護だ。
それはまだ変わっていない……ただ、
この時俺は、何故かジャスミンからの交渉に対して
何か “予感” めいたものを感じていた。
「当然、そのリスクはありますわ。
ですが……これを聞いて尚
そんな事が出来ますの?」
ジャスミンは耳元に小さな口を近づける。
「おいちょっと?!」
抱きつくような姿勢になりながらジャスミンはクスリと笑うと
あまりにも予想外な発言をした。
「傭兵団の中には、貴方様が血眼になってお探しになっている
“検索” の異能を持ったサキュバスがいらっしゃいますの」
「……何だと?!」
「あらあら、読みは当たっていたようですわね。
貴方様は、魔察署にも内密にして
ある異能を持ったサキュバスを探していらっしゃいますわね?
しかし、残念ながら貴方様が何をお探しになっているのかまでは
分からなかったんですの」
思わず声の方へ振り向いてしまう。
ジャスミンは少しだけ後退りしつつも
好感触と言った具合の表情を見せる。
しかし、もしそれが本当なら頷ける部分も多い。
俺や太刀花の情報は内部からの漏洩ではなく、
そのサキュバスの力なんだろう……いや待て、
仮にそれが本当なら “あの手” は使えないんじゃないのか?!
(かいぬしさま?! もしかしてピンチなのです?!)
(俺の事は良い……! 任務を優先しろ!)
(で、でも……うぅ)
(大丈夫だ……一度切るぞ)
(え?! ちょっと待っ何で-)
太刀花が俺のピンチに気付く。
しかし俺は気にするなとだけ言って
音声認識を使って同調装置を切った。
「あらあらあら、よろしかったんですの?
同調装置を切ってしまって」
「…………よくないが
後で太刀花に怒られるのも覚悟の上だ。
それで、専属契約とやらの具体的な内容は?」
前向きに検討する他に無かった。
俺の願望に手が届くかも知れない……
この際、手段は選んでいられない。
「簡単ですわ。
ワタシ達を上手く使って下さるだけで良いんですの。
こちらからも幾つかこなして欲しい仕事はお持ちする代わりに、
貴方様のお手伝いも致しますわ。
ワタシ達が提供できるのは労働力。
貴方様がワタシ達に提供するのは安定した生活と生命力ですの」
サキュバスにとって、生命力の補給は死活問題だ。
どうしてサキュバスなどと呼ばれているのか
それは……人の生気、所謂 “生命力” を必要とするからだ。
生命力と言っても、如何わしいものや血なんかでは無く
普通の人には触れる事すら出来ない
魂の薄皮を彼女たちは頂戴している。
放置していれば勝手に回復するようなものだが
吸われ過ぎれば当然命に関わる。
つまり、サキュバスにとって生命力を自ら差し出してくれる存在は
それだけで貴重なのだ。
しかし……少し問題がある。
「俺の特殊体質を知った上での発言なんだよな?」
「当然ですわ」
「……本当に良いのか?」
俺は “蜜” と呼ばれる世界でも非常に珍しい特殊体質だ。
蜜の生命力は底なしで、その生命力の “味” は極上と言われている。
生命力にも味があるのだ。
だからこそ……蜜の生命力は非常に危ない。
何故か俺の生命力を吸っても平気な太刀花みたいな例外は置いといて
そうでない普通のサキュバスにとって
俺の生命力は言ってしまえば麻薬だ。
非常に依存性が高く、一度手を出せば
他の生命力では物足りなくなる。
摂り過ぎれば最終的に依存してしまい、
俺の生命力無しでは自我も保てなくなる。
つまり、俺の生命力を提供するって事は
下手をすれば俺に逆らえなくなり、
完全に自由を失うと言う事に他ならない。
……どうやら、ジャスミンの覚悟は本物らしい。
生半可な覚悟しかないなら、まず俺が蜜だと知った時点で
この取引はやめていただろう……とんでもない子だ。
「当然ですわ。
何なら、もし受けて頂けるのなら
あの子の保護も手伝って差し上げても良いですわよ」
「?! ちょっと待て、あの子仲間じゃないのか?」
「少し違いますわ。
あの子は傭兵団にも属していませんわよ。
一時的にワタシ個人と協力関係にあるだけですの」
俺は考える。
確かに彼女達との交渉は有益だ。
検索の異能を持ったサキュバスなんてものがいるなら
喉から手が出るほど欲しい。
しかし、その前にジャスミンには
どうしても聞かなくてはならない事があった。
無視して考えようかとも思ったが、こればかりは
真意を確かめなくては話にならない。
俺は考えをまとめてジャスミンの方へ視線を戻した。
「1つ、確認したい事がある。
……この廃ホテルの3階、307号室だ。
首の無い死体を太刀花が発見した。
身なりから推測するに、かなり金を持っていそうな
恰幅の良い男だ。
スーツを着ていた……嫌がる太刀花に調べるよう指示した結果
とてつもなく鋭利な何かで
太刀花クラスの実力者が首を飛ばしている事が分かった。
……ありゃ何だ?」
明らかにジャスミンの表情が固くなった。
「悪いが、これだけは答えてもらう。
こっちもかなりのリスクを負う事になる以上
交渉は慎重に行われなくてはならない」
「……そうですわね。 全部話しますわ」
やはりジャスミンは全てを知っているようだ。
先程までとは打って変わり
重い空気を纏わせながら、彼女は大きく深呼吸した。
-同刻 場所不明 -
薄暗い空間を実験器具の蛍光灯が照らす。
緑色に色づいたそこでは、ブカブカの白衣を着た
寝起きのような身なりで分厚くて大きいメガネを雑にかけた少女と
それとは対照的にとても整った身なりをした黒髪の少女がいた。
「持ってきましたよ」
身なりの整った少女は、蛍光灯に照らされる水槽に
何処からか出現させた物体を
ボチャリと音を立てて放り込んだ。
「キヒヒ……相変わらずの手際だネェ……
返り血1つ付かないままこんな所業が出来るもの
キミくらいのモンだろうサァ……」
身なりがおかしい白衣の少女は、
寝癖を強引に束ねたような髪を掻きながら
嬉しそうに水槽を眺める。
水槽の中は次第に黒く……いや、赤黒く染まっていく。
その中心にはさっき投げ入れられた物体……
首から下が無い人の頭部が
恐怖すら感じる間もない程に刹那の仕事であるかのように
無表情のまま浮かべられていた。
「始めろ、オパール」
「キヒヒ! 了カァイ……!」
オパールと呼ばれた白衣の少女は
両手を水槽へ突っ込んだ。
……数秒後、水槽が赤い光を発し
ペキペキと音を立てて水槽内の水嵩が減り始める。
全ての水が妙な音を立てながら
中心の頭部へと吸収されていくと、
間も無くして頭部から黒く禍々しい芽が生えた。
「キヒヒ……後3時間もすれば操り人形になった
防衛大臣サマの出来上がりダヨ……
楽しみだネェ……! キヒヒ!!」
「…………」
「アレ? もう帰っちゃうノ?」
身なりの整った少女は薄暗い空間の扉に手をかける。
「……兄が帰宅した時に、私がいないと不自然ですからね
あとは任せましたよ」
「あ、ソウ……じゃあネ」
オパールは少し寂しそうに手を振って
身なりの整った少女を見送った。
外へ出た少女は空を見つめる。
自分の背丈より余程高い廃れた建築物が曇天を遮る。
少女はため息を吐くと、ある一点を見つめる。
視線の先にあったのは……廃ホテルだった。
「お兄ちゃん……また無茶してるし」
少女はその言葉を挟むように再びため息を吐くと
帰路を歩み始めた。