閑話-クリスティアンの場合
リクエストがあったのでクリスティアンの閑話を書きました。
幼い頃の夢をよく見る。あの頃が一番幸せだったから。
母は穏やかに笑っていて、その傍に父がいて、私は二人の間でうとうととまどろんでいる。二人の笑い声が聞こえて、お話の内容まではよく分からないが、二人が嬉しいと私も嬉しかった。
もうそんな時間は永遠に訪れないのだろうが。
全てが変わったのは私が4歳の時、弟が生まれた時からだ。
それまでは全てが上手くいっていて、完璧で、私の周囲は幸福に包まれていると信じていた。
しかし卑しい女が父上の心を奪い、その子を産んだことで、母上はすっかり人が変わったようになってしまった。
穏やかだった以前の母は見る影もなく、常に何かに追い詰められているような、病人のような顔をするようになった。
私の周囲の人間も変わった。これまでは優しかった人々が私の座学の成績に顔をしかめるようになり、私が体術で転ぶたびに怒るようになり、見定めるような視線を受けることが増えた。
「もっとしっかりなさいませ。あなた様は第一王子殿下で、我々の光なのですから」
弟が生まれ、比較されるようになって初めて、私は自分が大したことのない、つまらない人間だと知った。何をやっても人並み程度で、大きな瑕疵もないが優れたところもない人間。
当時私を担いでいた者たちからすれば随分とやきもきさせられたことだろう。私がのろのろとした手つきで剣を振らされている間、北の離宮で冷遇される弟はめきめきと能力を伸ばしていたのだから。
これまで私一人だった父上の息子がもう一人増えたことで、私は自分の力で存在を示していかなくてはならなくなった。しかし、それをするには私は平凡に過ぎた。
遊ぶ時間も、寝る間も惜しんで練習しても、剣術は少しも上達しない。座学だって比較的得意とはいえ、中の上程度だ。頑張ってもその程度なのではない。頑張ったから、やっとその程度なのだ。
手にまめができて、潰れて血が出て、夜にベッドの中でじくじくと痛んでも、何も成果には繋がらない。
何もかも投げ出してしまいたい。しかし。
「可愛いクリス、私の希望はお前だけなのよ。どうか私に、陛下の後継ぎはお前だということを示してちょうだい」
しかし、すすり泣き懇願する母の顔を見てしまえばそうもいかない。
私は第一王子で、父上の後継者で、母上の希望なのだ。できないと侮られてはいけない。期待してくれる人々をがっかりさせてはいけない。
もし全てを無くし、誰でもなくなったら、私はきっと息ができなくなって死んでしまうだろう。
剣術の腕に反比例して愛想笑いが上手くなった頃、私に変化が訪れた。
それはある春のことだ。母に連れられて行った茶会の席で私は彼女と出会った。
「はじめまして、クリスティアン第一王子殿下。私はガブリエラと申します」
子供らしい頼りない手つきでドレスの裾をつまんで頭を下げるガブリエラは、不安げに私を見つめていた。
柔らかく揺れる金髪に、陽の光を移す薄い水色の瞳。大輪の薔薇ではないが、野に咲くすずらんのように愛らしい彼女を私は一目で気に入ったと思う。
「クリス、彼女が将来あなたのお嫁さんになるのよ。彼女は可哀想な女の子なの。お父様とお母様を事故で亡くされて、一人ぼっちなのよ。優しくしてあげなさいね」
母はそう言った。
今思えばストレイ公爵に強引に婚約を押し切られたことに対する腹いせの言葉だったのかもしれないが、幼かった私はそれを信じた。
「クリスティアン様、これはなんですか?」
「ガブリエラ、それはトカゲだよ。女の子がそんな風に触ってはいけないよ」
ガブリエラは家であまり良い扱いを受けていないようで、ものを知らないことが多かった。ちょこちょこと私の後をついてきて、「これはなんですか? あれは?」と尋ねられることはいつも私の気分を良くした。私は母に言われた通り、出来る限り彼女に優しくしてやった。そのせいか、ガブリエラも私に懐いていた。
教師に叱られた後でもガブリエラと会えば、私は自分がなんだか特別な存在になれたかのように感じた。ガブリエラの瞳にはいつも私しか映っていなかったから。
可哀想なガブリエラはいつもひとりぼっちで、女の子の友達もいなくて、家族とも仲が悪くて、私がいないと何もできない、そんな可愛い婚約者だった。
しかし、上手くいかない。私のことごとくをあの弟はめちゃくちゃにする。
私が城の裏庭を友人たちと散歩していた時、いきなり現れた弟が私たちに酷い怪我を負わせるという事件があった。
その時に初めて見た弟はまるで獣のようで、何かを喚いていたが内容は全くよく分からなくて。
私に馬乗りになって拳を振るいながら喚き続ける怪物のようなものがそこにはいた。
母上は正式に父上に抗議をし、弟をどこか遠くへやってしまおうと言ってくれたが、私はそれを拒否した。
だって、父上になんと言う? 4歳も歳下の弟に抵抗もできずに殴られ、怪我をしましたと正直に話すのか?
そんなの、自分の無能を曝け出すのと変わらない。これ以上父上に失望されれば、遠くへやられるのは私かもしれないのだ。
しかし、生まれて初めて話の通じない獣に襲われた恐怖は私に色濃く残り、それから何度も夢に見ることになる。
そんな恐怖から逃れたくて、私はガブリエラとよく会うようになった。
ガブリエラは恐ろしくない。ガブリエラは一人では何もできない可哀想な女の子なのだ。私に優しくされるといつも嬉しそうに頬を染めている。ガブリエラの世話をしてやっている時だけは、私はつまらない自分を少しだけ忘れることができる。
それなのに。
そんなガブリエラすら私を裏切る。
彼女には知られていないと思っていた。私が城では大した人間じゃないことを。弟に劣る名前だけの第一王子なのだと。
剣を見たいとせがむから、少しだけならと応えてやったのに。騎士の前で私を辱め、嬉しそうに笑っている目の前の小さな女の子をくびり殺してやりたかった。
「ガブリエラは強いね」
実際にはそんなことはできない。私はそう言って笑うのが精一杯だった。
◆
ただぼんやりとベッドに横たわり、天井を眺めている。
この間の夜会でレフに手ひどくやられた顔が痛む。まだ包帯が取れないので、人前に出ることも出来ない。しつこく部屋を訪ねてきていた母も今はいないようだ。居留守を決め込んでいたから、飽きて帰ったのだろうか。
何故こうなったのだろう。いくら考えても分からない。
陛下の私を見る目は日に日に冷たくなり、母は会うたび私をヒステリックに責め立てる。城は針の筵のようで、怪我がなくとも部屋から出たくはない。
悲しみに打ちひしがれる母を見捨てればよかったのだろうか?
母から心変わりした父を許し、彼の愛を求めなければ良かったのだろうか?
第二王子より劣る第一王子という蔑みを受け入れれば良かったのだろうか?
私がもっと優秀に生まれていれば良かった?
そうすれば父と母と今でも仲が良く、城のみんなは私に優しく、ガブリエラは今でも隣にいた?
一つ分かるのはあの弟が。あの獣が私の弟として生まれてしまったことが全ての間違いなのだ。
今からでもあいつが死んでくれれば、そうすれば全て元に戻る。本当にそうかはよく分からないが、それ以外に思いつくこともない。
ただ、今は何にも急き立てられずに休みたい。目覚めたら少しだけでも私に優しい出来事が起こらないだろうか。
そんなことを思う。幼い頃の可哀想で優しい婚約者のことを思い出しながら、私は目を閉じた。
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