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「やぁ、待ってたよ」


 通された部屋に入ると、第一王子クリスティアン殿下が私を待ち構えてていた。


 流石に、今の状況は目の前の方が用意したものなのだろうということはすぐに分かった。嫌な予感がして部屋を出ようとしたが、侍従がドアを閉めてしまう。


 気のせいでなければ今、鍵をかけられた? 一体何故?


「良かったよ、来てくれて。ゆっくり話したいと思っていたんだ。今の私たちには話し合いが必要だからね」

「おっしゃる意味がよく分かりません。私と第一王子殿下で何を話し合うのですか?」

「もちろん、私たちの今後についてだ」


 今後?

 私と第一王子殿下に今後などない。もう婚約者ではないし、この先レイブンに住むことになるだろう私はこの人と会う予定もない。


「まだそんなふうにへそを曲げているのか。いい加減大人になったらどうなんだ」


 以前もこんな話をした気がする。そして以前も意味が分からず、私は殿下とお話しすることができなかった。


「はっきりと申し上げますが……私が殿下に望むことは何もありません。もう私たちは無関係です。ですから、私が殿下を相手にへそを曲げるということもございません。何か勘違いなさっておいでではありませんか?」

「分かってるよ。今日はらしくもなくはしゃいで見せていたね。あれは私への当て付けなんだろう? 君がそんなに怒っているなんて思わなかった。エレナのことはほんの冗談だったんだよ」

「冗談?」


 エレナさんといえば、殿下が私との婚約を破棄する際に引き合いに出して来たご令嬢のはずだ。彼の中では私は彼女を虐めていたことになっていたはずだが。


「ああ言ったら、君がその態度を改めてくれるんじゃないかってね。まぁ、君は私の想像以上に意地っ張りだった訳だが」

「……?」


 私の態度を矯正するための芝居だったということ?

 そんなことのために、私は次期王妃としての立場を失い、王都の社交会を追われ、はるばるレイブンまで嫁いで行ったのだろうか。目眩がしそうだ。


「何か私、殿下のお気に障る態度を取ってしまいましたでしょうか……」


 そして一番分からないのがこれだ。確かに第一王子殿下からはたびたび苦言を頂いていたが、私はそれにできるだけ従って来たはずだ。無視したことはないし、同じことで何度も叱られた覚えもない。態度を直せだなんて言われたことはなかった。


「そんなの君が一番よく分かっているはずだろう」


 しかし殿下はそう言って取り合ってくださらない。


「分かった、根負けしたよ。エレナのことは私も謝る。あまりタチの良い冗談では無かったからね。これでいいだろう? だから君も自身を改めると約束してくれ。そうしてくれたら、君はちゃんと私と結婚できるのだからね」

「私は既に結婚しておりますが」

「そんなものは何とでもできる。相手はあの気狂いだからね」


 そんなことはない。基本的に夫婦の離縁というのはこの王国では認められていない。

 病気で子を作れない体になってしまったり、著しく貴族としての能力に欠けると思われた場合に限り、何件か前例はあるけれど、それは何年も裁判を重ねた末に認められたものだ。私とレフ様に適応されるとは思えないし、されたいとも思わない。


「そんなに難しく考えることはない。あの気狂いならいつ死んだっておかしくないよ。死別なら誰もお前を責めないだろう?」

「な、レフ様に何かなさるおつもりですか!?」


 信じられない。目の前の男は一体何を言っているのだろう。


「もしもレフ様がお命を落とすようなことがあれば、私も自害して後を追います」

「…………」

「あっ?」


 強い力で押し倒され、ソファに背中を打ち付ける。目の前には私にのしかからんとする第一王子殿下がいる。

 私は反射的に彼の目を狙いそうになって、思いとどまった。私がためらっている間に両腕を押さえられ、身動きが取れなくなってしまう。


 体を抑えられてしまうと、武器もなく体格にも恵まれない私に抵抗する術はなかった。


「……あの、どいてください……」


 私にできることは,そうお願いすることだけだった。

 どんな理由があろうと相手は第一王子だ。傷つけたりすれば、私だけでなくレフ様のご迷惑にもなりかねない。


「こんなみすぼらしい服を着せられ、髪を結うこともせず……あの狂人に辛い生活を強いられているのだろう。かわいそうに」

「それは誤解です、レフ様は……」

「あんな奴の名を呼ぶな!」


 第一王子殿下は聞いたこともないような乱暴な声を上げた。


「どうしてそう生意気なんだ。お前は私の妻になるんだよ。お前は私に一生傅いて生きるんだ!」


 第一王子殿下の手が私のドレスに伸びた。


「な、何をなさるのです?」

「分からずやの君に教えてあげるんだよ。その腹に私の子を宿せば、自分が誰の妻になるべきかよく分かるだろう」

「正気ですか? 弟の妻との不貞など、王家にあるまじき醜聞です」

「うるさい、うるさい! 偉そうに私に指図するな! みなしごの分際で! 誰のおかげでこれまでやってこられたと思ってるんだ!」

「っ!」


 振り回されたクリスティアン殿下の手が私の頬をぶつ。殿下はそれに自分でも驚いたようだったけれど、止まる様子はない。


 抵抗するには力が足りない。ドレスに武器を仕込んでおけば良かった……というのは現実逃避だろう。


 例えば、今からでも彼の鼻の頭に思いっきり噛み付けば逃れられるかもしれない。けれど不敬罪で罰せられる恐れもある。私だけでなくレフ様も。


 そんなリスクを冒すくらいなら、ここは犬に噛まれると思ってやり過ごすべきだろうか?


 ただ……もし本当に、第一王子殿下の言う通り子供が出来たりしたら。

 そんな女をレフ様が手元に置く理由はないだろう。そうなったら本当に、私は第一王子殿下の妻になるのかもしれない。


 こんな時だけど私は、第一王子殿下と昔城の庭を歩いた時のことを思い出していた。



 その日はお城の庭でお茶を飲んだ後で、クリスティアン殿下に連れられて食後のお散歩をしていたのだった。

 訓練をしている近衛騎士団の方々とお話をして、剣舞を見せていただいたりもした。私は従兄弟に少しだけ剣を習ったことを話し、殿下もすごいねと褒めてくださった。騎士の方々に見てもらい、遊び半分の剣の撃ち合いのようなこともした。本当に楽しかった記憶がある。


 しかし、その後から殿下はとても不機嫌になって、私は対応に困ったものだった。


「わぁ、お馬さんですわ、殿下」


 むっつりと黙って歩く殿下の後ろに付き従ううち、馬屋の方まで来てしまっていた。私は生き物が好きだったし、殿下の不機嫌を解消するとっかかりになればと思って努めて明るい声を上げた。


「私、いつか馬に乗れるようになりたいです。そうしたら殿下とも一緒に遠駆けに行けますわね」

「……本気で言っているのか?」

「え?」


 クリスティアン殿下は地獄の底から響くような低い声でそう言った。


「女が馬なんかに乗れてどうするんだよ。剣が振れたから何だっていうんだ。そんなことで調子に乗って恥ずかしくないのか」

「殿下?」

「私は恥ずかしい。お前のような恥知らずでみっともない婚約者がいることが」


 その恐ろしさに私はすっかり震えてしまって、泣きながら謝ったものだった。

 思えばこの日からだったかもしれない、私と殿下の仲に亀裂が入ったのは。


 きっと殿下には何か思うところが前々からあって、無神経だった私がその何かに触れてしまったのだろうけれど、今でもよく分からない。


 この頃の私にとっては叔父とクリスティアン殿下が世界の指針のように思えていて、彼らの意に沿わないことは全て間違いのように感じていた。


 けれどもう、今はそうじゃないことが分かっている。

 クリスティアン殿下のようなお考えの方もいて、レフ様のような方もいる。それだけのことだった。10年もこだわっていた私の方が馬鹿だったのだ。



「私、あなたのことが嫌いです」


 そんな言葉が口をついて出た。


「な、何を……君は私に気に入られたいんだろ? だからいつも必死になって、私に従って」

「ずっとそうして来ました。けれどあなたはいつも私を足蹴になさったじゃありませんか。私は私を大切にしてくださる方が好きで、そういう方と一緒にいたいです」


 王都にいた頃はそれが当たり前だったから、それが間違いなんてことは分からなかった。

 でも、幸せな気持ちとか、満たされることとかを知った今なら、過去の私は辛くて苦しかったと分かる。


 そしてそれはこの人たちと一緒にいたためだ。

 私とこの人たちとでは価値観が違っていて、大事にするものがおそらく違う。だから無理に一緒にいたってお互いに得はなかった。


「もし、私の肌を暴いてご満足なさるならそうなさればよろしいです。ですが、あなたと結婚はしません。もうこれ以上あなたと時間を過ごしたくありません」

「何故そんなことを言うんだ、ガブリエラ……」

「私がこの身命を賭してお仕えしたいと思う方は、レフ様をおいて他にいらっしゃらないからです」


 その時、激しい音がして部屋のドアが砕け散った。本当に砕け散ったとしか言えない壊れ方だった。

 その向こうには剣を構えたアロイス様がいて、扉を切って壊したのだろうと分かった。

 ……私に同じことができるだろうか? 私はまだまだだ。こんな場合だけどそんなことを考えてしまった。


 何故この部屋が分かったのかという問いは愚問だろう。パーティーも終わり静かになった城の中で、レフ様の耳がこの部屋の騒ぎを聞き逃すはずもない。


「兄上は学習しないね。僕のものに手を出したらどうなるのか、まだお分かりでないらしい」


 壊れた出入り口からつかつかとレフ様が歩いて来て、私を見ることなくクリスティアン殿下の顔を覗き込み、髪を掴んだ。


「ま、学習しないのは僕も同じか。昔は顔を殴ったんだっけ。なら、今度も顔にしよう」


 惚けているクリスティアン殿下の頭を何度もテーブルに叩きつける。レフ様は笑顔だ。反対に、クリスティアン殿下のお顔がどんどん苦痛と赤に染まっていく。


「やめっ、がっ、あっ!」

「何回続けたら皮膚が削れて骨が見えるか賭けるかい? 自慢じゃないけどね、僕はちょっと厳しい尋問の経験もあるんだ、人体には詳しいつもりさ。僕は20回に賭けよう。兄上は?」

「レフ様っ」


 流石に死んでしまう。クリスティアン様はそのお顔全体を真っ赤に染めて、苦しげにうめくだけで抵抗もできていない。

 私はレフ様に駆け寄ってその腕を捕まえた。


「おやめになってください。これ以上はレフ様が罪に問われることになってしまいます」

「だから?」

「そうしたら一緒に帰れなくなってしまいます。この後、お酒に付き合ってくださる約束です……」

「…………」


 レフ様は全く納得の行っていなさそうな顔をしながらも、一応クリスティアン殿下の頭から手を離してくれた。


「……可哀想に、顔にこんな傷を作って」


 レフ様が痛ましそうに私を見る。さっきぶたれた頬は思ったより見た目が酷いのかもしれない。じんじんと痛いし。


「私は大丈夫です。レフ様がいらしてくださったおかげでこの程度で済んで」


 言い終わる前にレフ様から強く抱きしめられる。驚いて何も言えなくなってしまった。

 人前でスキンシップを好まれる方ではないから、きっとそれだけ心配してくださったということなのだろう。こんな場合だけどそのことが嬉しい。


「何故……」


 うつろな声が響く。クリスティアン殿下だ。まだ辛うじて意識があったらしい。生きていて良かった。


「何故なんだ、ガブリエラ。心から、私ではなくそんな狂人がいいっていうのか」


 私に向けて言っているというよりはうわ言のようだった。


「ずっとお伺いしたかったのですが……私の何が、そんなに第一王子殿下のお気に障ってしまったのでしょう。これまで考えましたが分かりませんでした」

「…………」


 クリスティアン殿下はお答えにならない。


「お前が気にするようなことじゃない、くだらないことさ」

「レフ様はご存知なのですか?」

「知ってるよ。というか、兄上の身近な人ならみんな知ってる」


 それは一体何? アロイス様の方を見ると、流石に彼は知らないようだった。首を横に振る。


 クリスティアン殿下の身近ということは、彼に関わることなのだろうか。仲が悪かったとは言え10年気がつかなかったとは、嫌われても仕方がない……。


「兄上は運動音痴なんだ」

「……えっ?」


 何か重大な秘密の告白でも聞くような気持ちでいた私は、咄嗟に内容を受け取ることができなかった。


「だから、この人は運動神経が悪くて、そのことがコンプレックスらしいのさ。これは人伝に聞いた話なんだけど、お前は昔、剣で兄上をボコボコにしたんだってね」

「え……」


 ボコボコに? そんな覚えはないが……。


「あ」


 小さかったあの日、殿下と城の庭でお茶を飲んで、お庭を歩いて、近衛騎士団の方々にお会いして、剣術についてお話しさせていただいて……。


「こういう練習用の剣で、殿下は日々剣術を練習なさっているのですよ」


 そう騎士の方が言って。


「そうなのですか? 殿下は剣を振るわれるのですね。かっこいいです。ぜひ見たいです」

「でも、私は……」


 まさか本職の騎士が幼い殿下と剣を撃ち合うわけにもいかず、どういう話の流れか私と殿下が木剣を持って向き合うことになったのだった。


 そして子供のお遊びで、私は型もセオリーも何も知らず、ただ見様見真似で剣を振り回して。それがたまたま殿下の腕に強く当たってしまって、殿下は剣を取り落としたのだ。


 遊びだったから勝敗も何も無かった。少なくとも私も、立ち会っていた騎士もそう思っていたと思う。

 殿下は笑いながら「ガブリエラは強いね」と言ってくださって、私はむしろ殿下が私に花を持たせてくださったように感じていた。


 今の今まで思い出しもしなかった。私にとってはその程度の出来事だったから。


「お前は……心の底でいつも私を馬鹿にしていた! 決して私の思い通りにならない、いつも見透かしたような目をして、私を見下していた。一度私に勝ったくらいで!」

「違います……そんな風に思ったことはありませんでした」


 そんなつもりはなかった。

 けれど、幼い頃から体を動かすことが苦手で、それを密かに気にしていても、婚約者の前では口に出せなくて。

 そんな幼い可愛らしいプライドを、私の無神経な振る舞いが踏み躙ってしまったとしたら。


 思えば、大きくなってからクリスティアン殿下が剣を振るっているところも、馬に乗っている所も見たことがない。


「私、なんと謝ったら……」

「違うよ、エル。お前が謝ることなんか何もない。

 子供の頃のそれは不幸な行き違いさ。けれど兄上はずっと根に持って、お前に暗い対抗心を燃やして、けれど見栄からお前に直接話すことも出来ないでいた。そしてプライドを傷つけられた復讐心を、お前を傷つけることで晴らしてたんだよ」

「違う! お前は私を馬鹿にしていたんだ! お前にその目で見られるたびに私がどれほど惨めだったか!」


 クリスティアン殿下が血まみれのままレフ様に掴みかかる。その必死の形相に普段のクリスティアン殿下の柔らかな雰囲気は全く無かった。


「お前もだ、この狂人が! お前さえいなければ良かったんだ! お前がいるせいで私も母上も、どれほど苦しんだか!」

「言いがかりだよ。僕だって別に、好きであんたらと血縁になった訳じゃない」


 お体を動かすことが苦手で剣を振るわないクリスティアン殿下と、若くして戦場で活躍し、武功を積み重ねているレフ殿下。その現実がクリスティアン殿下には重荷だったのかもしれない。


「お前らは同じだ。貴様も、ガブリエラも、人間ではない、怪物だ! 何故私がこんな目に遭う。何故、こんな奴らのせいで私が……!」


 レフ様がその手を振り払うと、クリスティアン殿下は力なく床に倒れた。


「行こうか」


 乱れた衣服を直しながらレフ様が言う。その目はもうクリスティアン殿下を映してはいなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 入口からつかつかと入ってくるレフ殿下が目に浮かびます。ガブリエラの真剣な一途さと、お酒に付き合う約束を聞いて手を緩めるレフ様、人前でガブリエラを抱きしめるレフ様に身悶えします。 [一言] …
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