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殿下の言うことは本当で、私はあっという間に第二王子の婚約者となり、レイブンの地へ送られることとなった。
叔父は私を処分できれば何でも良かったらしい。特に何も言われることなく、結婚の準備は粛々と行われた。
私といえば、もうやけっぱちだった。
殿下の言っていることはよく分からないけど、あれだけ侮辱されてまだ結婚したいとは流石に思わないもの。それよりは“気狂い王子”に殺される方がマシ。悪名高い“気狂い王子”が実際はどれほどのものかという興味もあった。
出立の日。叔父から短い別れの挨拶をされ、他の家族とは会うこともなくあっさりと屋敷を出た。
我がストレイ公爵領は国の南方に位置しているので、北端のレイブンへは馬車で片道五日ほどかかる。もう帰ることはないだろう。そうでなくても両親が亡くなったその時から、あの屋敷を我が家とは思っていない。
五日の旅は本当に退屈で、特筆するようなこともなかったので割愛する。
馬で駆けたら早いと思うんだけどなあ。お尻が痛い。
代わり映えのなかった景色がだんだんと雪景色に変わり、吹雪となった頃に「レイブン領へ入った」と御者から告げられた。
それからしばらくして馬車が止まる。まだ屋敷も何も見えないというのに何事かと思えば、私は別の馬車に乗り換えることになっていると。全く聞かされていない。叔父が説明の手間を惜しんだのだろう。
相手は第二王子殿下からの迎えの馬車だという。私が乗って来たものと車輪や屋根の形が違っていて、この極寒の地に合わせたものなのだと分かった。
「お迎えにあがりました。ガブリエラ・ストレイ公爵令嬢」
向こうの馬車から出て来たのは、すらりと背の高い綺麗な男の人だった。長い金髪を後頭部で一つにすっきりと結んでいる。優しげな顔立ちをしているが、厳しい軍服を着て腰からは剣を下げていた。
「ご苦労様でございます、えっと……」
「申し遅れました。私は第二王子殿下の側仕えをしております、アロイス・ペントマンと申します」
「ペントマン様とおっしゃいますと、ペントマン侯爵の?」
「ご存知でしたか。ペントマン侯爵は私の父です。我が家のような田舎貴族をご存知とは、驚きました」
「ペントマン領の作物は質がいいとコックがいつも申しておりましたから」
ペントマン領はレイブンと同じく北方に位置する領で、ここほどではないが寒冷地帯に属する。芋の農作が盛んで、芋料理が数多くあって絶品だと聞く。
お芋はふかしてバターや塩で味付けしたものが好き。いつか食べに行ってみたいなあ。
「ストレイ公爵令嬢?」
「あ、申し訳ありません、聞いています。あと、私のことはガブリエラとお呼びいただいて結構ですよ」
「かしこまりました、ガブリエラ様。馬車へどうぞ」
一緒に馬車に乗っていた使用人とはここで分かれた。みんな現ストレイ公爵、つまりは叔父の雇った使用人であり、私のものではない。
「急に決まった婚約でしたが、第二王子殿下にはご迷惑でなかったでしょうか」
「それなのですが……」
アロイス様が言いづらそうに口籠る。
「現在、レフ殿下は隣国軍と交戦中でして……なかなかご都合を合わせるのが難しい状態なのです」
「まぁ」
レイブンについたらすぐ結婚式だと聞いていたが、大丈夫なのかしら。
「で、ですがご安心ください。なんとか時間を作っていただけるよう、私からもう一度お願い申し上げますので……」
「ご無理なさらないでください。式典よりも国防の方が大事ですから」
「……はい……」
この時点で、かすかに、本当にかすかに抱いていた期待は露と消えた。
◆
レイブンに到着し、辺境伯とのご挨拶を済ませ、私は辺境伯邸に滞在することとなった。
辺境伯邸とは別にレフ殿下のお屋敷もあるのだけれど、そちらは半分くらい兵士の屯所として使われているらしい。交戦真っ最中の屯所に妻のための部屋を用意する余裕などなく、一時的に辺境伯邸に部屋を用意していただく運びとなった。
到着して二日後、私とレフ殿下の結婚式が執り行われた。
――レフ殿下の不在で。
「申し訳ございません! 本当に申し訳ございません!」
「気になさらないでください。私は大丈夫です」
アロイス様の懸念の通り、レフ殿下は結婚式には間に合わなかった。事前に説明を受けていたので私は気にしていない。アロイス様が悪いわけではないし。
レイブンに到着して二日。住む家が違うこともあって、私はまだ夫となる方の顔すら見ていなかった。“気狂い王子”とはどれほどのものかと身構えていたが、そもそも会えない。
しかしそれは悪いことでもない。この二日、私は両親が生きていた頃ぶりに穏やかな時間を過ごすことができた。
レイブンでは叔父一家に気を遣って過ごすことも、第一王子殿下から急な誘いを受けたり、彼の尻拭いをしたりすることもない。私は窓の外の雪景色を眺めながらのんびりと旅の疲れを癒すことができた。それだけで、レフ殿下への好感度は第一王子殿下に対するものを優に超えていた。
第一王子殿下も、私が嫌いなら放っておいてくれれば良かったのに。
彼も大人たちの思惑の被害者ではあるのだろうが、身勝手にもそんなことを思ったりした。レフ殿下はおそらく私を愛することはないだろう。このまま距離を保って、仕事仲間のような関係になれたらいいな。
そんなふうに思っていたから、結婚式をすっぽかされても本当に気にならなかった。
ただ参列者はそうもいかないのだろう。新郎不在で行われる結婚式にざわざわと困惑の声が広がる。
だから私はいつにもまして堂々と、笑顔すら浮かべながら結婚式をやり切った。
◆
レイブンに来て二週間。私は未だに夫の顔を見ていない。
……流石に。
流石にじゃない?
結婚式にやって来なかったことは何も言わないけれど、流石にその夜、つまり結婚初夜にも顔を見せなかったのは驚いた。
とはいえ文句も言えない。使用人たちから伝え聞くことには戦況が厳しくなっていて、向こうは妻などに構っている場合ではないらしい。辺境伯邸で安全に暮らしている私が口を挟める問題ではなかった。
「……会いに行ってみようかしら」
それは暇が極まったが故の思いつきだった。向こうが会いに来ないのなら、こちらから行けば良いのだ。
妻が夫の顔を見てみたいと思うのはそれほどおかしな望みではないだろう。お仕事の邪魔はしない。ちらっと、遠目から見るだけだ。
私は「庭を見に行ってくる」と使用人に告げて部屋を出た。今は幸い雪が降っていない。
レフ殿下の屋敷は辺境伯邸の敷地内、裏手に作られている。私は木々の間を歩いてこっそりレフ殿下の屋敷へ向かった。
裏庭では、ちょうど兵士たちの訓練が行われていた。兵士たちが二人一組になり、それぞれで模擬戦を行なっている。
私はその光景を見て、ドキドキと胸を高鳴らせた。
なんだか懐かしい。
昔、従兄弟が遊びに来た時に面白がった彼が剣を待たせてくれたことがあった。剣を振り回すのは本当に楽しくて、従兄弟にせがんで何度も模擬戦をやったものだ。従兄弟が手加減をしてくれているのも知らず、私はいつも彼に勝ち誇っていた。
また、やってみようかしら。
ここには、「淑女らしくしなさい」と私を叱る叔父たちはいない。夫も私に興味がないようだ。私はここでは自由なのかもしれない。
私は本当は、刺繍よりも馬術が好きだった。部屋で楽器の演奏を聴くより、草原を駆け回る方が楽しい。ドレスを着て踊るより剣を振り回すのが好きだった。
でも、全部辞めた。第一王子の婚約者となり、王妃教育を受けることとなった私に、そんなことは許されなかったから。
私は一度辺境伯邸に戻り、ドレスから男性使用人の服に着替えた。リネン室に予備の制服が置いてあることは知っていたのだ。
長い髪は編み上げてピンで固定し、帽子で隠した。鏡の前で一回転。うん、遠目から見るくらいなら男の子に見えるだろう。
なんだかワクワクして来た。こんな風に胸が高鳴るのはとてもとても久しぶりだ。
男装した私が第二王子夫人の私室から出て行くわけにはいかないので、ベランダから木をつたってこっそりと抜け出した。そのまま木々に隠れて第二王子の屋敷へ向かう。
建物の影からもう一度裏庭を覗くとまだ訓練は行われていた。あたりを見回す。今気がついたけれど、私を隠してくれているこの建物は武器庫のようだった。中に入ると、兵士たちが訓練に使っている模擬剣が数本残っていた。
「剣だわ……!」
昔従兄弟から教えてもらった剣の振り方を思い出して構える。
えーと、確かこうやって……。
「――何しているんだ」
「!」
模擬剣の感触に我を忘れていた私は、いつのまにか武器庫に人が来ていたことにも気づかなかった。
「あの……」
怒られる。もう二度と自由な外出は許されなくなるかもしれない。叔父の怒鳴り声、鞭がしなる音が思い出される。私はぎゅっと目を瞑った。
「……なんだ、新兵かよ。いくら剣を触らせてもらえないからと言って、武器庫に忍び込むのはやりすぎだな」
「え?」
武器庫に入ってきた男の人を改めて見る。私とは違うがっしりとした体つきをした、若い青年だった。歳はクリスティアン殿下と同じくらいだろうか。短く刈った黒い髪に、赤い目。純粋なこの国の人間ではなさそうだ。移民だろうか。
彼は私が第二王子に嫁いできた公爵令嬢だとは思わなかったようだ。それもそうだ。私はまだ第二王子の顔を知らないのだから、きっと向こうも私の顔を知らない。戦争に明け暮れている兵士たちが私を知るはずがなかった。
なーんだ、心配して損した。
そして、私の男装は思ったより完璧らしい。私は自信をつけた。
「そうなんです! わた……僕、早く武器を触りたくて」
「気持ちは分かるけどな。新兵はまず体力をつけるのが仕事だぞ。お前、体ひょろひょろじゃないか」
なるほど。
おそらく軍隊に入った新人は、まず剣の振り方より先に基礎体力訓練を受けるのだろう。そんな新人は、早く剣術の稽古をつけてほしいと焦る。私はそういう血気盛んな新人だと思われているのだ。
「それは……その、見た目だけですよ。僕、筋肉がつきづらいんです。これでも意外と動けますよ!」
公爵家にいた頃は、勉強以外の時間は主に洗濯や掃除をしていた。叔父の雇った使用人は私の世話をあまりしてくれなかったので。
叔母や彼女の娘たちは私に親切にする使用人より、自分たちと悪口を楽しんでくれるような使用人を重用していた。自然と、長くうちに勤めるのは私をよく思わない人間になっていく。
「ふぅん。じゃ、俺が稽古つけてやろうか」
「稽古?」
私はあくまでスポーツとしてというか……楽しむつもりで剣を触っただけだったので少し困ってしまう。
しかし、思い直すとこれは良い経験かも。相手だって私のことは新兵、素人だと思っているわけだし、出来なくたって怒ったりしないだろう。それより、本職の軍人さんと模擬戦ができる機会を大事にするべき?
「ぜひお願いします!」
普段だったら遠慮してしまうような申し出を、驚くほど素直に受け取ることができた。今は自分ではない、少年の姿をしているからかもしれない。
青年はグランと名乗った。軍では魔術重歩兵として働いているらしい。
重歩兵というのは大きな盾を持って味方を攻撃から守る役職で、魔術重歩兵はその中でも防御魔法を駆使して戦う人たちのことだ。
この世界には古くから魔法があり、それを技術によって再現した魔術が現代では普及し、いつしか戦争にも当たり前に使われるようになった。
私も魔術はちょっとだけ使えるけど、本当にちょっとだけだ。と言うか、一つしか使えない。
ものの重さを重くしたり軽くしたりする魔術。《重》と呼ばれている。掃除の時に便利なので頑張って覚えたのだ。魔術はそれしか使えない。
私には魔術の才能はない……。
グランは足元に放ってあった模擬剣を手に取った。武器庫を出て人気のない裏手に回る。私とグランはいくらかの空間を挟んで対峙した。
「手加減してやるから打ち込んでこいよ」
「はい、頑張ります」
戦のいの字も知らない私は打ち込むといってもどうしたものかと思ったけれど、だからと言って見つめあっていても仕方がない。とにかく距離を詰めた。
今握っているのは木で作られた模擬剣だけど、それでも私の手には少し重い。無理に振ったら腕を痛めそうだ。
私は早速たった一つ使える魔術を使った。
「《重》!」
「な、魔法か!」
体が触れるくらいまで接近し、グランの右脇目掛けてとにかく剣を振った。
硬い音が響く。グランがその剣でガードした。
私とグランでは当然グランの方が力が強い。まともに競り合えば私が負ける。とにかくグランに攻撃の隙を与えないよう、無茶苦茶に斬りかかる。
だが、あまりダメージが入っているようには思えない。剣が軽すぎるのだ。
それなら……!
「《重》!」
「またかよ!」
軽くした剣を今度は重くして、遠心力に任せて振り抜いた。
グランは追撃を諦め、即座に剣を横にして守りの体制に入る。判断の速さは経験からくるものだろう。
《重》の乗った攻撃を受けたグランは、体勢を崩さないまま2メートルほど押され、最後に尻餅をついた。
「やった! 勝った! わた、僕の勝ちですよね、グランさん!」
「あ、あぁ……」
グランは呆然として地面に座り込んでいる。
「すみません、どこか怪我しましたか? まだコツが掴めなくて……」
「お前、本当に新兵か? 今の魔術と剣術の合わせ技、あれは一朝一夕でできるものじゃないぞ……」
そうかしら?
魔術と剣を一緒に使ってみようと思ったことは今までなかった。実践向きの魔術は使えないから。実際にやってみたのは今日が初めてだ。
グランは不思議そうな顔をし、それから笑い出した。
「面白いやつだな、お前」
「そうですか? グランさんは僕みたいな素人に付き合ってくれる優しい人です」
二人で笑い合っていると、カンカン! とけたたましいベルの音が鳴り響いた。
私は思わず耳を押さえて辺りを見回す。
「これは敵襲の合図だ! 訓練場に急ぐぞ!」
朗らかだったグランの雰囲気がさっと変わった。本当にここは戦争の真っ只中なのだと実感する。
「そうだお前、名前は?」
名前……!
焦った私は、とっさに自分の愛称を答えた。
「エルです」
ガブリエラからとって、父と母は私をエルと呼んでくれた。この世にもう私をエルと呼ぶ人はいない。
「そうか。俺のことはグランでいい。敬語もやめろ。かしこまった話し方なんかされると鳥肌が立つ」
「ふふ、分かった。グラン」
「よし、走るぞ!」
◆
グランの言った通り、敵に動きがあったらしかった。兵士たちはみんな軽装から武装に変わって運動場に集合している。
私はここにいる兵士たちとは違い、ズブの素人だ。邪魔になる前にここを離れようと思うのだけど……
「エル、どこに行くつもりだ?」
「えっと、トイレ……」
こうやってグランに見咎められてしまうのだ。多分グランはとても面倒見が良く、新兵である(と思っている)私に目を配っていてくれるのだろうけど……。
「少し我慢しろ。もうすぐレフ隊長が来るぞ」
「レフ殿下が!?」